熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ウィリアム・H・マクニールほか著「世界史 Ⅱ」黒人の悲劇

2017年04月06日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   Ⅱ巻目は、1450年から今日までの世界史を展望している。
   1450年時点で、シルクロードと海路によって「旧世界のウェブ」が拡大して、人類のおよそ4分の3を包含するようになっていた。
   このウェブは、西の端は太平洋に接し、西アフリカのサバンナからヨーロッパを含み、その北はロシアからシベリア、東の端は太平洋に達し、北は日本や朝鮮から、東南アジアの島々までを含む広大な地域である。

   したがって、バスコ・ダ・ガマやコロンブスが開いた大航海時代の幕開けは、この直後であり、別な小さなウェブとして存在していた南太平洋やアメリカを、「旧世界のウェブ」に取り込んで、その後、人類の世界史は、一気に、「唯一のコスモポリタン・ウェブ」への道を走り出したのである。

   我々が、世界史を学ぶ時に、コロンブスのアメリカ大陸発見やマゼランの世界一周などの快挙によって大航海時代の明るい面ばかりを観ている傾向があるのだが、私自身は、アメリカやブラジル、そして、ヨーロッパに在住した経験があるので、ヨーロッパ人が、文明開化の美名のもとに、如何に、アフリカや南北アメリカの歴史や文化文明、そして、人々の生活を踏み躙って犠牲にして今日を築き上げてきたのかを、身近に感じてきている。
   幸い、マクニールは、この本で、その歴史を、かなり、克明に描写しているので、今回は、この点に絞って考えてみたいと思う。

   まず、マクニールは、スコットランド人探検家A・マッケンジーが、カナダの毛皮を中国で売るのに都合の良い経路を探していて、北アメリカ大陸を横断した最初のヨーロッパ人だと紹介して、当時のウェブの拡大を述べながら、
   ”ウェブは、情報、人、物品、感染症を遠い地域にまで運び、離れた住民たちを協力させたり争わせたりし、何百万人の人々の運命を弄んで、ある者を富ませ、別のある者の命を奪い、あるいは貧困に陥らせ、一部の文化を衰退させ、その一方で別の言語(欧米語)を広く反映させた。”と書いている。
   実際の先進国ヨーロッパ人の新世界の文化文明や人々の生活破壊は、そんな生易しいものではなかった筈ではある。

   古くから、モザンビークや南アのイロコイ族などの奴隷貿易は行われていたが、奴隷貿易の重要性と規模に変化が生じたのは、太平洋岸ヨーロッパ人が世界の海岸を結び付けてからだと言う。
   1441年に、ポルトガルの船乗りたちが、初めてアフリカの黒人を捕えて、ポルトガル、マデイラやカナリア諸島の砂糖きびプランテーションに送り込んで奴隷貿易を始めた。
   1850年以降、奴隷貿易が廃止されるまで、1,100万人から1,400万人の奴隷がアフリカから送り出されて、その約85%が命を落とさずにアメリカ大陸に着いた。ブラジルとカリブ海周辺に、夫々、40%、アメリカ合衆国へ5%、残りが、その他のスペイン領中南米へ送られたと言う。
   ヨーロッパの奴隷商人は、西アフリカの奴隷市場で、金や銀や馬やタカラガイを対価に奴隷を買い取り、中南米のプランテーションへ送り込んだのである。
   数百万人の人々が、戦争で捕虜になったり、誘拐されたり、一族の誰かが犯した犯罪により奴隷となって、奴隷市場に送り込まれるのだが、内陸部の商人や掠奪者や王侯たちは、益々、多くの人々を奴隷にするようになった。アフリカの支配者たちは、敵を攻撃して、できるだけ多くの兵士を捕えて売ることは政治的に優れた戦略でもあったので、自らの利益のために戦争を仕掛けて捕虜を獲得することに励んだと言う。
   こうした行為の背後にあったのは、アフリカ人と言うアイデンティティの共通認識が存在しなかったため、奴隷商人が奴隷たちの運命に何の感慨も抱かなかった現実だ。とマクニールは言う。

   マクニールの気になるのは、次のコメントである。
   「奴隷貿易がアフリカに与えた影響は、大部分が間接的なものだった。アフリカの総人口からすると、ごく小さな比率を占めるに過ぎなかった。・・・
   特定の時期や地域において由々しき問題だったとは言え、奴隷貿易がアフリカ全体に及ぼした人口統計的な影響は恐らく小さなものだったはずだ。」
   そうだとしても、あまりにも悲しい人類の歴史の軌跡である。

   最古の「人類の祖先」が、人類の母ルーシーだと言われ、その後、ラミダス猿人アルディだと言われているが、いずれにしろ、人類の発祥地は、このアフリカであり、このアフリカから、人類は、壮大な艱難辛苦の旅を乗り越えて全世界に旅立ったのである。
   アルフレート・ヴェーゲナーの「大陸移動説」の地図を見れば、アフリカを中心にして、左右南北に、陸地が散って移動して行った(?)ことが良く分かる。
   アフリカは、奇しくも、人類にとって、最も重要な故地でもあることを考えると、感に堪えない思いである。

   この奴隷貿易の影響は深刻で、政治面で、奴隷貿易は国家の樹立と拡大を促したと言う。
   アフリカ大陸の多くの社会は、防衛のために武装化し、野心的な軍事指導者が台頭して、急速に蓄えた富と暴力的なやり方で既存の秩序を転覆させようとした。防衛の不十分な近隣社会から奴隷を調達することに長けた掠奪型の国家が優位になった。
   経済的には、ほかの手段よりも、更なる掠奪に役立つ馬や銃に投資して、奴隷売買の「利益で生活するの者の方が有利な状況であった。
   アフリカに持ち込まれた銃は2,000万丁に上ったと言われており、この奴隷貿易が、アフリカ社会の商業化を促し、遠距離の通商路の交通量を大幅に増やしたというから、皮肉と言えば皮肉である。
   奴隷貿易の影響は不均一だが、中には、消滅してしまった民族もあると言う。

   興味深いのは、文化面で、イスラム法が、信者の奴隷化を禁じていたので、イスラムの奴隷商人から逃れるために、イスラム教に改宗する人々が増えて、イスラム教の普及に寄与したと言う。
   ブラックアフリカに、かなり多くのイスラム教徒が居て、ボコハラムなどが、活躍して治安を悪化させているのは、そのような土壌があった所為なのであろうか。

   アフリカの太平洋岸は、奴隷貿易の拡張を通じて、「旧世界のウェブ」に参入した。   これが、マクニールの結論である。
   人間(それも、主に、アフリカ人自身が、同胞のアフリカ人)をモノとして売買した交易によって、アフリカが、歴史の幕開けを迎えたと言う、あまりにも残酷な現実である。
   文明化されていた旧世界を征服して植民地化された国とは違った、未開ゆえの悲劇だが、歴史上の汚点を少しずつ払拭しながら、人類は進化してきたと言うのであろうか。
   

   明日は、ポルトガルとスペインが、アメリカ大陸に残したインディオの悲劇について書くことにして、その後に、感想を書きたいと思う。
   
コメント
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