「昭和維新」なるものは決して明治維新に較べられるものではなく、平成改革は一部の人間によって平成維新と不埒にも僭称されるが、決してそのようなものではない。
昭和維新も平成維新も明治維新に較べれば矮小、卑俗きわまりないものである。如何となれば、厚みと深みと練りのレベルが隔絶しているからである。
大体、明治維新という言葉がいけない。正確には幕末、維新の大動乱、思想戦と呼ぶべきである。そしてもっとも重要なパートは幕末の思想戦である。明治はその思想戦の成果の上を走っているにすぎない。幕末というのも適切ではない。むしろ藩幕体制後半期というべきであろう。それは狭義にみてもアヘン戦争での清国の大敗の情報がもたらされた1942年から慶応年間にわたる。
18世紀後半から日本周辺に出没する西欧の船舶の数は増えだして19世紀の初頭にはわが国に深刻な国防論議を巻き起こした。したがって見方によっては、この思想戦は半世紀を越える厚みがあるのである。そして、武士階級のみではなく、富農、医者や神官などおよそ文字の読めるすべての全読書人を巻き込んだ全国的な思想的攪拌期なのである。
軍部政権を革新政権とみなして「昭和維新」というものがいるが、この時期の右翼思想というものは大正デモクラシーの一つの成果に過ぎない。陸軍幼年学校、士官学校の生徒で大正デモクラシーにかぶれなかったものはいない。右翼が大衆動員、大衆示威運動の威力を享受したのも大正デモクラシーのおかげである。文書、ビラ、マスコミを使った大衆宣伝の威力を認識したのも頭山満、北一輝らの右翼陣営である。彼らが自らの大衆示威運動、文書宣伝の威力に自信を持った最初の出来事が昭和天皇の皇太子妃の問題である。大正末期のいわゆる「宮中某重大事件」である。相前後して右翼に敗北した最後の元老山形有朋が死亡した。これによって幕藩体制後半期から続いた思想戦の成果を享受してその惰性の上を走っていた「明治維新」は終焉したのである。
真に国民的に有効な議論をするためには、国民の間に広く、深く、じっくりと時間をかけて降りていかなければならない。「昭和維新」の場合は思想戦の場合にもっとも避けなければならない権力やその暴力装置と安易に結びつこうとしたことである。つまり、軍部という暴力装置、一部の高級官僚である。彼らは革新官僚とよばれた。岸信介などは「革新官僚」の代表である。これでは中南米やアラブ諸国でしょっちゅうおこるクーデターとかわりがない。
そして平成の現在、膨張した中空状態の保守論陣は昭和維新とおなじ徹を踏もうとしているようである。かれらが目指すべきは官僚、行政機構に潜り込もうとすることではなくて国民のなかに降りていって長い思想戦を戦うことである。