最近ではハードボイルドというレッテルが作品でも作者でも気軽にベタベタ貼られる風潮があって、何が何だか分からなくなっている。一応このシリーズではレイモンド・チャンドラーのフィリップ・マーロウ シリーズを念頭に置く。
私立探偵は依頼者のプライバシーを守る義務がある。私立探偵に頼るのは、家出人の捜索のように事件性が明瞭にならない限り警察が動かないケースのほかに、家庭の事情などで警察や世間に知られたくない秘密を持っているから私立探偵を雇うのである。
それが、依頼人のプライバシーを警察に聞かれたからとペラペラしゃべったことが分かれば、お客はその私立探偵のところには来なくなる。
ま、これは一般論であるが、マーロウの場合はこれが一般的職業倫理という通り一遍のおざなりな義務というよりかは、依怙地な使命感に昇華している。
警察にいじめられ、暴力をふるわれ、免許を取り上げると脅されてもマーロウは屈服しない。
この特徴を抜きにしてマーロウを語れないし、その魅力を味わうことはできない。このパターンはチャンドラーの長編では毎回繰り返される。
さて、恩地は組合のリーダーであり、賃上げや勤務協定の改善などを求めて組合員の先頭に立ってきた。そのリーダーたちが次々と切り崩しにあって会社側にたったり、御用組合を作ったりする。
恩地は自分の言動が一生を左右するような影響力を与えてきた組合員に対する責任感が堅忍不抜である。この彼の信念が再三にわたる会社の懐柔策をはねつける原動力になっている。
会社を辞められない、というセリフが何度も出てくるが、これをブログなんか見ていると、日本では会社でいじめられても会社にしがみついているしかないんだよね、と解釈し理解しているのが多い。とんでもない間違いである。
恩地にしろ、そのモデルになった人物にしろ、会社を辞めれば本人は楽になるし、本人にはいくらでも生活の道はある。贅沢を言わなければ地方大学や私立大学の教授の口は腐るほどあっただろう。
多くの左翼の転向者はこうして地方大学にもぐりこんでいるのである。今や彼らは学部長であり、大学総長である。彼らの前歴を洗えばそういうのがおおい。
恩地が、会社を辞められないというのは、彼が影響を与えてきた連中が不当労働行為で苦しんでいるのに、自分だけが止められるかという倫理観である。
沈まぬ太陽という映画が正調ハードボイルドであるという所以である。
そういうわけで、恩地は典型的日本人ではない。典型というのがマジョリティあるいは平均的ということであればなおさらである。サムライでもない。サムライであるとすれば特殊なタイプに属する。
むしろ、マーロウのごとく、腐敗する暗黒街をいかなる困難をも避けることなく孤独に突き進む砂漠の狼である。ハードボイルド・ガイであり、日本人の実社会でも、小説、映画、芝居などの架空空間にも存在しなかった人物だろう。
加うるに、このシリーズの一回目で述べたごとく、日本映画では稀有のドライ・タッチである。以上がこの映画がアメリカ人に理解されるのではないかと考える理由である。