東方のあけぼの

政治、経済、外交、社会現象に付いての観察

映画「沈まぬ太陽」に見る倫理観

2009-11-05 19:15:32 | 社会・経済

最近ではハードボイルドというレッテルが作品でも作者でも気軽にベタベタ貼られる風潮があって、何が何だか分からなくなっている。一応このシリーズではレイモンド・チャンドラーのフィリップ・マーロウ シリーズを念頭に置く。

私立探偵は依頼者のプライバシーを守る義務がある。私立探偵に頼るのは、家出人の捜索のように事件性が明瞭にならない限り警察が動かないケースのほかに、家庭の事情などで警察や世間に知られたくない秘密を持っているから私立探偵を雇うのである。

それが、依頼人のプライバシーを警察に聞かれたからとペラペラしゃべったことが分かれば、お客はその私立探偵のところには来なくなる。

ま、これは一般論であるが、マーロウの場合はこれが一般的職業倫理という通り一遍のおざなりな義務というよりかは、依怙地な使命感に昇華している。

警察にいじめられ、暴力をふるわれ、免許を取り上げると脅されてもマーロウは屈服しない。

この特徴を抜きにしてマーロウを語れないし、その魅力を味わうことはできない。このパターンはチャンドラーの長編では毎回繰り返される。

さて、恩地は組合のリーダーであり、賃上げや勤務協定の改善などを求めて組合員の先頭に立ってきた。そのリーダーたちが次々と切り崩しにあって会社側にたったり、御用組合を作ったりする。

恩地は自分の言動が一生を左右するような影響力を与えてきた組合員に対する責任感が堅忍不抜である。この彼の信念が再三にわたる会社の懐柔策をはねつける原動力になっている。

会社を辞められない、というセリフが何度も出てくるが、これをブログなんか見ていると、日本では会社でいじめられても会社にしがみついているしかないんだよね、と解釈し理解しているのが多い。とんでもない間違いである。

恩地にしろ、そのモデルになった人物にしろ、会社を辞めれば本人は楽になるし、本人にはいくらでも生活の道はある。贅沢を言わなければ地方大学や私立大学の教授の口は腐るほどあっただろう。

多くの左翼の転向者はこうして地方大学にもぐりこんでいるのである。今や彼らは学部長であり、大学総長である。彼らの前歴を洗えばそういうのがおおい。

恩地が、会社を辞められないというのは、彼が影響を与えてきた連中が不当労働行為で苦しんでいるのに、自分だけが止められるかという倫理観である。

沈まぬ太陽という映画が正調ハードボイルドであるという所以である。

そういうわけで、恩地は典型的日本人ではない。典型というのがマジョリティあるいは平均的ということであればなおさらである。サムライでもない。サムライであるとすれば特殊なタイプに属する。

むしろ、マーロウのごとく、腐敗する暗黒街をいかなる困難をも避けることなく孤独に突き進む砂漠の狼である。ハードボイルド・ガイであり、日本人の実社会でも、小説、映画、芝居などの架空空間にも存在しなかった人物だろう。

加うるに、このシリーズの一回目で述べたごとく、日本映画では稀有のドライ・タッチである。以上がこの映画がアメリカ人に理解されるのではないかと考える理由である。


小悪漢映画「沈まぬ太陽」

2009-11-05 09:41:18 | 社会・経済

ハードボイルド論を進める前に一つ触れておく。この映画が成功している理由は印象的に描かれた恩地のハードボイルド倫理的生き様に加えてと国民航空に根付いた悪漢グループを見事に描写した点があげられる。

いわばピカレスク・ロマンとしての側面である。悪漢といっても、日本左衛門とか、幡随院調兵衛といった庶民に愛された大悪党ではない。

どんな悪事をするにしても、徒党を組んで闇を動き回る腐れネズミの集団である。腐れネズミに寄生する腐れシラミの大集団である。よく本質を活写摘出したシナリオになっている。

同じ時期に、一つに企業によくもこれだけ腐れネズミが集まったものよ、と感心する。腐れネズミには同類を見分けるセンサーがついている。こいつは餌でつれば絶対に寝返るな、裏切るなという仲間を見つけるセンサーが発達している。

根性の腐ったやつばかり狙う。ゆとりのある良識ある家庭からの社員には目もつけない。目の前に腐ったチーズをぶら下げれば一生言われた通りなんでもやる手下を補給する嗅覚があったのである。

こんなやつらの塊が企業の中枢を占めるようになれば、企業と言う家は白アリに占領された家のように20年もすれば、救いようがなくなる。


映画「沈まぬ太陽」はハードボイルドの秀作

2009-11-05 08:18:53 | 社会・経済

* 久しぶりに映画館に行った。テレビでも、映画やドラマをながいこと見ていなかったので暗闇の中の三時間半にはすこし疲れた。

日本映画、テレビドラマでなにがいやと言って、べたべたした感触だろう。戦争映画超大作でもべとつかずにはおかない。ところが「沈まぬ太陽」の3時間はジメジメベトベトしなかった。

そういう映画は初めて見た。もっとも昔から映画はほとんど見ていないのだが。「沈まぬ太陽」は家族を描いた場面でもウエットではない。

* 原作と映画の関係だが、原作と比べて映像化されて、がっかりしたとか、アレレ・・?ということは皆さんも多いだろうが、この映画はそういうことはない。また、原作を読まずに映画を見て必ずしも原作を見たいと思う人も少ないだろう。それだけ、完成度が高い。

シナリオを何回も書き直したというが、映画として完結した作品だ。

* 主演の渡辺謙が米国での上映は難しいと言っている。きわめて日本的なサムライを描いているから向こうの人には分からないだろうというのだが、そうだろうか。私は海外上映でも感銘を与えるのではないかと思った(映画の話である)。

** 主役の恩地はフィリップ・マーロウだね。わたしがハードボイルドという所以である。

ハードボイルド・ミステリーというのは特殊なジャンルなので、すこし説明する。

いくつかの説明がハードボイルドについてなされている。ま、厳密なものではない。この種のことは厳密にやってももともと意味のないことではあるが。

犯罪小説であるから、殺人が出てくるが、殺し方に凝らないのが最大の特徴だ。密室犯罪だとか、不自然な状況設定、種明かしがされて見ると、突拍子もない凶器だったりする。これがいわゆる本格ミステリーだが、この種の不自然さがハードボイルドにはない。参照:レイモンド・チャンドラー「簡単な殺人法」

さて、私が「沈まぬ太陽」はハードボイルだと言ったときに念頭にあったのは、ハードボイルドでもチャンドラーのフィリップ・マーロウものに顕著にみられる主人公の倫理的側面である。

次号につづく