中国は6年前唐突に、日本が東京湾上のミズーリー号船上で降伏文書に署名した翌日の9月3日を、「抗日戦争勝利記念日」と定め行事を行っている。今年は北京郊外にある「抗日戦争記念館」で戦争終結から75年を記念する式典が開かれ、習近平国家主席や李克強首相など共産党の最高指導部全員が出席し、犠牲者に花を捧げた。
習近平は特段演説など行うことなく、式典の放映では日本への直接的な批判はなかった。
その一方で、ロシアのプーチンと交わした祝電では、「国際社会と協力して、第2次世界大戦の勝利と国際的な公正と正義を守り、多国間主義を積極的に維持し実践していく」と述べて連帯を求めている。ロシアなどの多くの国は9月3日を終戦の日、あるいは勝利の日としているところが多い。しかし日本軍が直接侵略していた国家では、日本軍が戦闘を放棄した8月15日を終戦の日、解放記念日などとしている。中国もそうした国の一つであった。9月3日に変えたのはロシアに倣ったのである。ロシアはポツダム宣言に署名していない。スターリンの老獪な戦術で、長崎に原爆が落とされたその日に宣戦布告している。終戦の締結までソビエトは存分に戦闘を続け進行してきた。
米中戦争の中にある中国は、アメリカに従属する日本を意識して終戦の日を、対日戦勝記念日として9月3日に変えたのである。
習近平は自分たちが日本軍に勝利し追い出した、と述べているがこれは嘘である。日本軍に勝利したのは蒋介石の国府軍である。国府軍は中国共産党にとって最大の敵である。
当地の九条の会で、大陸に出兵し当時に二等兵だった方に話をしてもらったことがある。終戦も近かったがある時に銃を大量に盗まれたことがあった。上等兵にこっぴどく怒られるビンタを覚悟していたが、上等兵は、「なんだパーロ(八路)か、ほっておけ」と言われそのままだったことがあったと述べてくれた。パーロとは八路軍即ち革命共産党軍である。国府軍と戦っていた。日本軍はこれをさまざまな局面で利用している。毛沢東の建国記念の日の上空を数機の飛行機が飛んで内外を驚かせたことは良く知られている。この航空機を制作したのは大陸に残っていた旧日本軍の技師である。満州で終戦を迎えた知人の母は看護婦として大陸に残り、医療の発展に寄与し1953年に帰国している。
革命初代は日本軍とのこうした関係を記憶している。革命初代がが消えるころ、鄧小平の威光もなくなるころから、中国は大きく変質した。経済成長が政治の理念を奪い、国民は物言わず、金だけを求めるようになっていく。
そして国家の横暴は、100年前のお返しのつもりか。やがて中国を支持する国家や政権や政治家や評論家はゼロになってゆきかねない。アメリカも酷い国家にトランプによって変貌したが、中国も変わることない。