詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

井坂洋子『七月のひと房』

2017-02-01 17:05:40 | 詩集
井坂洋子『七月のひと房』(栗売社分室、2017年01月25日発行)

 井坂洋子『七月のひと房』に一篇、変わった詩がある。「入口」。

 彼は腐った藁の上に身を横たえるときも、目を離さず天空をに
らんでいた。月のひかりがまっすぐに射し込み、床一面、反射で
明るい。淫らな空想をして亢奮するのを、月の女神はじっとごら
んになっているのだ。
 彼は牢番の子として、鉄条網に沿って何周かしたあと、きまっ
て自涜したくなった。

 散文形式で書かれている。なぜ一篇だけ散文形式の詩を組み込んだのだろう。この作品と他の作品はどんなふうに呼応しているか。あるいは呼応していないのか。よくわからない。
 「淫らな空想」は後半で、こう書き直されている。

 月の女神の尻を割った入口を、舌で浚うという彼の空想も、日
がたつにつれて色褪せてくるばかりである。

 こういう「散文」形式の作品を読むとわかりやすいのだが、人は、たいてい言いたいことを繰り返す。
 「淫らな空想」と「自涜(する)」ということばは、最初は別々にあったが、「月の女神の尻を割った入口を、舌で浚う」では「ひとつ」の「文」のなかにある。そのとき、何か「論理(言いたいこと)」のようなものが「世界」を統一する。そうすることで散文性が強くなる。散文は「結論」を求めて動いてしまう。
 詩は、逆である。「結論」を突き破るものだろう。
 この作品の最後の部分は、こうなっている。

 女神の尻を割った入口がぴったりと閉ざされて、そこから日常
の時刻がうすい水を撒きはじめるのだ。

 この行が「結論」を破るものかどうか、即断はできない。「うすい水」の「うすい」に井坂らしさを感じる。そこに詩があると感じるが……。

 で。と、ここから私は飛躍する。(と、いうことばで、強引に「論理」を動かす。)
 この作品を読んで、それで私は「結論」に満足したかというと、そうでもない。「散文」として破綻はしていないが、「結論」には興奮はしない。
 では、なぜ、この作品について何かを書いてみようと思ったのかというと。
 「結論」、あるいは「言い直しの論理」という「散文性」とは違うものが井坂のことばの中にあり、それが詩を動かしているということが、この作品から導き出せるかもしれないと感じたのだ。それが井坂の作品の「水先案内人」になるかもしれない、とふと思ったのである。

 どういうことかというと。

 作品の書き出しにある「身を横たえる」は夜になり、眠る、ということ。彼の上には「天窓」があり、「月」が見える。月は明るく、床さえも「反射」で輝いている。ほんらい暗いはずのものが明るいという矛盾。あるいは「変質/変化」が、「空想」を刺戟する。そこにないものを「見える」と感じさせる。感覚が「矛盾」を意識すると、「矛盾」を「矛盾」ではないものにしようとして、「空想」が始まるのかもしれない。「空想」のなかの「論理」が世界を整えなおすといえばいいのか。
 この不思議な「論理」と、そういう「論理」ではいやだという「肉体(感覚)」の拮抗のようなものが、ことばのなかで動いている。
 ほの暗いもの、生暖かいもの、ぬるいもの。そういう「嗜好」が、井坂のことばの奥を動いているのが感じられる。「論理」の「明晰さ(明るさ)」くぐもらせる。そういう「嗜好」が何かと「共感」しようとしている。ともに生きようとしている感じがする。
 「腐った藁の上」の「腐った」や「牢番の子」の「牢番」。その「肯定的」なものを含まない何か。そこに踏みとどまろうとする何か。もちろん、それはそれで「肯定的なものを含まない」という「論理」にもなっているのだが。
 ただ、それは「絶対的」ではない。「肯定的なものを含まない」ということを貫いて、世界を完結させるわけではない。それをめざしているわけではない。

 ゆるさの維持、持続、と言いなおせばいいのかもしれない。

 他の作品に移る。「ゆるさの維持(持続)」というか、共感かなあ。それを、たとえば「六月の耳」の次のような部分に、私は感じる。

こさめの音に耳をすませる
それだけでいっぱいになってしまう
ふつうの雨はうるさいから
ちょうどいい降りぐあい

 これを「散文」で言いなおすのは難しい。「ふつうの雨」は「耳をすまさなくても」音が聞こえる。「小雨」は耳をすまさないと、よく聞こえない。しかし「耳をすますと」、その小さな音が耳を「いっぱい」にする。
 ここには不思議な矛盾がある。そして、その矛盾が「肉体」をくぐりぬけるとき、「矛盾」ではなく「ちょうどいい」ものになる。
 「矛盾」を「ちょうどいい」ものにする「肉体」に井坂は寄り添っている。
 そう言えると思う。
 「肉体」が「矛盾」を整え直している。そのとき、その「肉体」そのものが、不思議なてざわりで見えてくる。他人(井坂)の肉体なのに、あ、この肉体は知っている、と感じる。私は「覚えている」と感じる。覚えているものを「思い出す」感じ。
 (ということを、何とか、「入口」で書いた「矛盾」と「空想」と「整える」につなげたいのだが、舌足らずの私のことばでつながったかな?) 

 詩は、このあと、こうつづいている。

かさをさして
買いものにでた
ばあちゃん きをつけて
しきいの子ガエルをふまないように
孫娘の声がする
三びき いた
商店街も
立ち寄りたい店もなくなってしまった
のを ふしぎと思わないが
あめがふると昔がもどってくる
耳なりがやむよ
とおじいさんはいう
もどると
右腕をたたんで枕にし 横向きに寝ている
おじいさんの耳も 庭のアジサイも
こさめにかこまれて薄くひらいていた

 「孫娘の声」の部分は、この詩の「起承転結」の「転」にあたる。いったん「音」ではなく「声」(さらに、カエルという異質のもの、ただし「雨」という共通を含む)を経て、音にもどる。

あめがふると昔がもどってくる
耳なりがやむよ

 これは

こさめの音に耳をすませる
それだけでいっぱいになってしまう

 と対になっている。
 「うるさい音(耳鳴り)」を消して、静かな雨音が耳をいっぱいにする。その静かな音が聞こえるうれしさ。「昔」の健康な耳がもどってくる。
 それはそのまま「音」がもどってくると「誤読」したい感じである。
 この「もどる」を起点にして、最後の四行が「結(論)」を突き破っていく。「散文性」を否定し、詩そのものとして開かれていく。
 耳をいっぱいにした音が、自らの力で「花」になって開いていくような感じ。「うすく」とあえて、強いものを弱く、しずかに浮かび上がらせるところが「井坂節」というのかもしれない。「ほのか」とか「ぬるい」とか「ゆるい」という感じ。それが「肉体」にやさしい。「肉体」というよりも「肌」を実感させる。

黒猫のひたい
井坂洋子
幻戯書房
コメント
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