詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

星野元一「カニになった日」、長嶋南子「生きている」

2017-02-25 08:54:27 | 詩(雑誌・同人誌)
星野元一「カニになった日」、長嶋南子「生きている」(「蝸牛」54、2017年01月30日発行)

 星野元一「カニになった日」は、戦後、サワガニを食べたときの記憶から書き始めている。「かんべんしてよ!/カニは両手を上げ/岩の穴に逃げていった」という描写のあと、

秋を挟んで

 という美しい一行があって、世界が転調する。

カニになったことがある
穂高連峰を渡った
青春の
真っただ中
体がボール紙になって
岩壁に貼りつけられた

谷は口を開け
遥か下にかすんでいた
お日さまは黙っていた
腹のあたりを風が吹きぬけ
雲が横切った
剥がれ落ちないように
しっかりとくっついていた

その時見た
千切れたボール紙の脇のあたりから
手足のようなものが出ていた
千手観音 にはならなかったが
一本一本が亀裂をさぐり
ゆっくりとわたしを横に運んだ
遠くに
垂直に登る影を見た
甲羅をつけていた

 岩壁、絶壁にはりついて動いていく。そのときの姿を「カニ」という比喩にしているのだが、妙におもしろい。
 この「妙に」という感じはどこから来ているか。
 「ボール紙」という比喩かなあ。頼りない。風が吹けば飛んで行ってしまいそう。「お日さま」ということばもいいなあ。「太陽」よりも、なにか、「肉体」に近いものがある。「宇宙」というよりも身近。「腹のあたり」ということばが「肉体」そのもの。「ボール紙」になりながら、「腹」を実感する。
 「腹」は次の連で「脇」にかわる。「脇腹」だね。より具体的になる。「手足」が生まれ、そこからまた「千手観音」という比喩が動く。飛躍があるのだが、とても自然だ。いきいきしている。
 「カニ」から「千手観音」に比喩が変わっている。一方は小さな生き物。一方は偉大な仏様。それを「肉体」の実感がつないでいる。「肉体」が動いているから、比喩から比喩への飛躍が自然なのだろうなあ。
 「妙に」感じるのは、最近はこういう比喩を読まないからだろうなあ。「妙」だけれど、懐かしい。「お日さま」ということばみたいになつかしい。

 *

 長嶋南子「生きている」は、九十九歳の母を介護する詩。

連れてってといいながら
アイスクリームを食べさせてもらっている
食べ終わってもまた口を開ける
開いた口の奥に暗い穴がぽっかり
級長の兄と知恵の遅れた弟が
出たり入ったりしている

脳が干からびても
海馬が走り去っても
胃腸が強いイデンシ

口を開けてアイスクリームを待っているのは
母ではありません
イデンシです
まだ母のからだを捨てないのです

 「海馬」とか「イデンシ」とか。以前は「日常のことば」ではなかったが、いまは日常のことばになっている。なってはいるが、ちょっと「違和感」があるかもしれない。まだどこか「借り物(頭で理解しているだけ)」という感じがあるかもしれない。
 これを長嶋は、ぐいっとつかみとって、そのことばが生まれてきたところへ押し戻す。これが、すごい。長嶋のものにしてしまう。

イデンシです
まだ母のからだを捨てないのです

 「生きている」のは「イデンシ」。「生きつづける」のは「イデンシ」。「肉体」で感じていることが、突然、最先端の「科学」になる。「哲学」になる。縁起でもないことを書くようで申し訳ないが、母が死んでも「イデンシ」は生きていく。その力を、長嶋は母を介護しながら自分自身の「肉体」でつかみ取っている。
 「絶対的真実」とでもいうようなものを、「日常のことば」を動かしてつかみとる。その「文体」の力に圧倒される。

 「妙」なものは、おもしろい。



星野元一詩集 (新・日本現代詩文庫)
星野 元一
土曜美術社出版販売
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