詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

閻連科『年月日』

2017-02-05 11:52:14 | 詩集
閻連科『年月日』(谷川毅訳)(白水社、2016年11月20日発行)

 閻連科『年月日』は大旱魃の村に残り、一本のトウモロコシを育てる七十二歳の老人と目の見えない犬の話。
 ガルシア・マルケスの『百年の孤独』を連想させる。『百年の孤独』は雨が降り続くのに対し、『年月日』は旱魃がつづく、と「設定」は違うのだが、「寓話」を感じさせる。「毎日毎日数珠つなぎに出てくる太陽」という、主人公の暮らし(土の匂い)を感じさせる描写が強い。もっとも「数珠つなぎ」ということばで私が思い出すのは仏教の数珠、私の父や母がつかっていた数珠であり、中国ではかならずしも数珠が日常的ではないかもしれないが。(原文がどうなっているのかわからないが。)で、この「数珠つなぎ」ということばによって、私はこの作品の舞台を、知らず知らずに「日本の田舎(私の生まれ育った土地)」に置き換えて読んでしまう。私の育った田舎では「大旱魃」はなかったが、農村の暮らしは、どこか共通したものがある。そういう共通のものをとおして、私は「寓話」のなかへ入っていくのだが……。

トウモロコシが夜のうちにミシミシパリパリ音を立てながら大きくなり、さらに指二本分ほど伸び、(4ページ)

 ここで、完全に『年月日』の世界に飲み込まれてしまう。私の中にある田舎の暮らし(百姓の暮らし)の大部分が洗い流され、一部だけが「ストーリー」になっていく。「意味」になっていく。そして、それが私の「肉体」の「内部」をえぐり始める。
 トウモロコシは育つのが早い。すぐ大きくなる。それは知っている。しかし「夜のうちにミシミシパリパリ音を立てながら大きくなり」というのは知らなかった。植物が大きくなるときの「音」を聞いたことがなかった。
 もしかしたら聞こえたのに、聞かずに育ってしまったのだ。なんだか、ここで私は悔しくなる。もっと耳をすましてトウモロコシが育つときの様子を見ればよかった。中学生の頃、急に身長が伸びる。そのとき、体のなかで骨や筋肉が「ギシギシ」というか「ミシミシ」というか音を立てているように感じる、と言われれば、そういうことを思い出す。それと同じことがトウモロコシに起きている。そうなのだろうと思う。主人公の老人は、トウモロコシそのものになっている。老人でありながら、トウモロコシになって生きている。この人間と自然の「一体感」というのは、農業をやっているひとにとっては共有できる感覚だと思う。その「共感」というか、自然と人間をつなぐものに「音」がある、「音」をとおして「共感/実感」しているということに触れ、私の「肉体」そそのものが生まれ変わる感じがする。
 随所に出てくる音をつかった表現が、描かれている世界を新鮮に、強烈にする。いままで気がつかなかった世界が音と一緒にはじまる。それは、読んでいる私の「肉体」そのもがたたき壊され、生まれなおす感じなのである。そうか、耳を鍛えれば、こういう音が聞こえるのか。世界はこんなに豊かに鮮やかになるのか。私は耳をつかわずに生きてきたなあ。こういう音を聞く閻連科の肉体はすごいなあ。強靱だなあ。驚きながら、私は興奮してしまう。

日の光は活力を取り戻し、強く硬く照りつけ、地面からはプチプチと、サヤマメの皮が日の光にさらされてはじけるようなはっきりとした音がしていた。(16ページ)

 「プチプチ」は硬い地面にぶつかった光の反射音。これにサヤマメがくわわることで、「物理(抽象)」が「暮らし」そのものになる。サヤマメのはじける音というのは、百姓ならば「肉体」で覚えている。だから「肉体」で納得してしまう。

耳を葉っぱにつけてみると、先じいにはその斑点が増えていくチリチリという音が聞こえた。(69ページ)

 たとえば風疹になったとき、斑点が肌に増えていく。そのとき「肉体」の内部では熱が出てくる。「チリチリ」という音が、あのとき聞こえていたかもしれない。トウモロコシの描写なのに、人間が病気のときの「実感」が重なってしまう。実際に風疹のときは気づかなかった(気にしていられなかった?)音が、確かに「肉体」にあったのかもしれない。これもトウモロコシと人間の「肉体」が一体になった音である。人間がトウモロコシになって、発し、聞いている音。

両者(オオカミと老人)の視線はぶつかり、がらんとした峡谷の中に、目に突き刺さるようなヒリヒリする黄色い音をこだまさせた。(78ページ)

 視線が衝突するという描写は慣用句だが、「ヒリヒリする黄色い音」は「流通言語」を突き破る。「ヒリヒリ」は「音(耳)」というよりも「触覚(肌)」で感じるもの。「黄色」は「耳」ではなく「目(視覚)」でつかみ取るもの。「音」なのに、そこに触覚と視覚がとけあっている。そして、それが強い力で迫ってくる。
 こういう「感覚」をことばにできる「肉体」があるのだ。閻の「肉体」のなかでは感覚が「器官」の区分を超えて、融合し、動き、新しく生まれている。そのなまなましさが強烈に迫ってくる。

 もちろん、やさしい音、静かな音もある。

トウモロコシの苗は一日一日と伸びてゆき、静かな夜にはその伸びゆく音がかすかに優しく聞こえてきた。ぐっすり眠った赤ん坊の寝息のようだった。(28ページ)

 トウモロコシと赤ん坊が一体になっている。

静かな夜中に響く鋤の音は、単調ではあるが朗々としていた。民間芸能の独演会のように山々の遠くまでゆったりと伝わっていった。(46ページ)

 「ゆったりと伝わっていった」が、とても気持ちがいい。

 閻のことばで、世界全てが生まれ変わるような感じだ。その特徴は「既成の感覚(流通感覚)」によって分節された「流通現実」をいったん未分節の世界に引き戻し、「未分節の感覚(融合した感覚)」によって新しく生み出すところにある。
 次の例は、聴覚と視覚の融合が生み出した新しい現実世界。鞭を太陽に向かって振り回す場面。

鞭は、空中でへびのようにくねると、先端が青白い音をヒュンヒュン響かせ、日の光がナシの花が散るように飛び散り、あたり一面日の光のかけらで埋め尽くされ、村中に年越しの爆竹の音が響き渡っているようだった。(40ページ)

 この感覚の融合は、光に重さまで与えてしまう。

日の光が強くなると光が重さとなってのしかかってくるのだ。(略)日の出のとき、小屋のまわりでは二銭、昼時になると四銭ちょっと、日が沈むときにはまた二銭に戻った。(48ページ)

 こういういきいきとした新しい感覚で生み出される世界のなかで、老人と犬は一本のトウモロコシを守りながら、「寓話」はこんなふうに結晶していく。

わしの来世がもし獣なら、わしはおまえに生まれ変わる。おまえの来世がもし人間なら、わしの子どもに生まれ変わるんだ。一生平安に暮らそうじゃないか。先じいがそこまで話すと盲犬の目が潤んだ。先じいは盲犬の目をふいてやり、また一杯のきれいな水を汲んで盲犬の前に置いた。飲むんだ。たっぷりとな。これからわしが水を汲みに行くときは、おまえがトウモロコシを守るんだ。( 104ページ) 

 涙が出ます。

 (目の具合が悪くて、しばらく休むつもりだったのだが、読み始めたらおもしろくてやめられない。感想を書かずにいられない。でも、ほんとうに、しばらく休みます。検診が終わったあとで、状況を見て再開します。)

年月日
クリエーター情報なし
白水社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする