詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山下澄人「しんせかい」

2017-02-11 10:14:59 | その他(音楽、小説etc)
山下澄人「しんせかい」(「文藝春」2017年03月号)

 山下澄人「しんせかい」は第 156回芥川賞受賞作。退屈で、やりきれない。
 芝居出身の人で、「間」を描いている。「間」がテーマである。「間」そのものは、この小説のなかでも芝居の稽古のところに出てくる。そこに出てくる「定義」は無視して、私自身のことばで言いなおすと。
 「間」というのは、人間(個人)がもっている「過去」が「現在」のなかへ噴出してくる瞬間のことである。役者の「存在感」によって具体化される。
 芝居というのは小説と違い「現在」しかない。「現在」から「未来」へと動いていくしかない。「過去」は役者が「肉体」で背負って具体化する。小説なら「過去」として説明できる部分を、「ことば」ではなく「肉体」としてさらけだしてみせてくれるのが芝居。役者(存在感)次第でおもしろくなったり、つまらなくなったりする理由はここにある。
 その「間」、つまり「個人の過去」が噴出してくる瞬間を克明に描こうとしたのがこの小説。しかもただの「間」ではなく、「間抜け」の「間」を描こうとしている。そういう意味では「野心作」なのだが、「野心」が丸見えで、その分、退屈である。ぜんぜんおもしろくない。
 具体的に指摘すると。馬に乗って原生林に入っていく。そうすると「コツコツと固い何かで木を小刻みに叩く音が聞こえてきた。」(文藝春秋、 411ページ)何だろう。

大きな黒い何かが木の幹に縦にいた。鳥だった。それが動くたびに音がした。あれがこの音を出しているのだ。キツツキだ。げんにくちばしで木をつついている。木をつつくからキツツキというのだからそうだあれがキツツキだ。( 415ページ)

 キツツキと気づくまでの「間(時間)」が描かれている。その「間」のなかで動いた意識が、動いたままに描かれている。「木をつつくからキツツキというのだからそうだあれがキツツキだ。」という言い回し(文体)に、この小説で書こうとしている山下の狙いがある。キツツキと断定するまでの、あるいは納得するまでの、自分自身への「言い聞かせ」。そのことばの動きが、ゆるりとうねっている。「間延び」している。
 利発な(?)ひとなら、「木をつつくからキツツキだ」でおしまいのところを、「……というのだからそうだあれが」という「認識」をとおって「キツツキだ」にたどりつく。「間抜け」である。「間(認識の動き)」をくぐらないと結論に至らない。
 おかしなもので、こういう「間」を省略でき(抜かすことができる)るひとを、世間では「利発」という。そして、それを省略できないひと(抜かすことができないひと)を「間抜け」という。「間抜け」というのは「間」を多く抱え込んでしまうひとのことである。
 この「間抜け」という批判と、「間抜け」の実体との「齟齬(矛盾)」を描き抜くということを山下はやろうとしている。
 それはそれで「野心」に満ちていて、とてもいいのだけれど、この「間抜け」が、「現実」そのものを突き破っていかないから、退屈。「間抜け」が過激になればおもしろいのかもしれないが。
 たとえば、ベケットの「ゴドーを待ちながら」は「間抜け」を「時間の重力」にまで凝縮している大傑作だが。

 この「キツツキ」の「間抜け」のあとに、逆の「間抜け」が出てきて、その「衝突」というか、「対比」がこの小説の一番の読ませどころである。
 主人公は栄養失調で農作業中に倒れてしまう。それに気づいた農家のひと(雇い主)が救急車を手配したくて電話をかける。農家の人は主人公の名前を知らない。そこで、

「進藤です」
 を繰り返した。
「進藤です!」
「進藤です!」
 しかしそれは
「じんごうげす」
 にしか聞こえない。
「じんごうげす!」
「じんごうげす!」                       ( 417ページ)

 進藤さんの意識のなかでは、スミト(主人公)が倒れた、病院に運ばなければという意識が動いている。全力で突っ走っている。「説明」しなければいけないことがたくさんあるのに、その「説明方法」がない。ともかく「進藤です」と名前を告げることで、相手に察知してもらうしかない。しかし、急ぎすぎているので、いつものように「じんごうげす!」となまったままに言ってしまう。他人に理解してもらうという配慮が抜けて、他人に伝えたいという思いが先走る。そのために混乱する。
 これは、一般的な「間抜け」。そんなに急ぐなよ。落ち着け、といわれる瞬間だ。しかし、ここで「間」をきちんととってしまうと、今度は「劇」が消えてしまう。
 このシーン、舞台での上演を想像してもらうとわかりやすいが、「じんごうげす!」に「間」があっては間延びしてしまう。電話で対応しているひとの声を突き破って「じんごうげす!」が動くとき、緊迫感が出る。
 ここだけ、主人公の視点からふっきれた「他人」が登場している。「間」の違いが「他人」をつくりだす。
 
 「間」はいつでも「適切」であることが求められるものなのだ。

 この小説が退屈なのは、主人公のなかで「間」の変化がないからである。「間抜け(間延び)」のまま。「じんごうげす!」のような「認識」を突き破って、ことば、肉体が動く瞬間がない。「間」のない「間抜け」がない。
 「ゴドー」でさえ、「肉体」がことばを突き破っているのに。

 倉本聡の「富良野塾」をやめた(やめさせられた?)きっかけのなかに、「じんどうげす!」のような「緊迫の間抜け」があるのかもしれないが、私は小説からは読み取れない。
 倉本聡、「富良野塾」という「過去」がなかったら、「小説」になっているかどうかもわからない。芝居で言えば、倉本聡、「富良野塾」という存在感(肉体)によりかかっている作品ということになる。



 「選評」もひどい。川上弘美が積極的におしているのだが、「なんだかいいんですが、うまく説明できないんです」としか言っていない。ことばで金をとっているのだから、「うまく説明しろ」と私は思わずどなってしまう。。吉田修一は「空振り」という比喩で評価しているが、倉本聡、「富良野塾」というスター投手(?)に素人が「空振り」するなんてあたりまえ。「空振り」に「華」がなければ、意味がない。私は直接見たわけではないが、新人の長嶋が金田相手に三回連続「空振り」をしたときのような「華」がなければ「空振り」とは言えないだろう。
 なんだか山下の先生(?)の倉本聡、富良野塾、文藝春秋の「売り上げ」に配慮して受賞作を決めたという感じのする、こざかしい選考評である。こざかしいは「間抜け」ということでもある。
 村上龍がかろうじて「批判」しているが、はっきりと「だめ」といわないはだらしない。こんな口籠もり方は、やはり「間抜け」に見えてしまう。


しんせかい
クリエーター情報なし
新潮社
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