詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

倉橋健一「胎内遊泳」

2017-02-18 10:54:12 | 詩(雑誌・同人誌)
倉橋健一「胎内遊泳」(「イリプスⅡ」21、2017年02月10日発行)

 倉橋健一「胎内遊泳」は、倉橋が「胎内」にいるときのことを書いたのだと思うのだが。

わけ知らずわたしのいちばん好みの灯明は
なんといっても明治の初期銀座にはじまった
青白いガス燈の放つあの色調に尽きるが
その原因もどうやら母親の胎内で見た暁暗からはじまっている

 「胎内で見た」と書いているから、倉橋は「胎内」にいる生まれる前の「胎児」なのだろう。ここまでは、まあ、そう思って読むのだが。

とんでもない生き物の胎内に物象などあるはずがないのだ
だがわたしのなかの幼い母親は
かろうじてじぶんがまず母親であるためには
わたしという未生児が必要だったのはまちがいなく
ちょうどおむつをつけたままの幼ごがおむつ遊び人形に夢中になるように
身妊る前から共犯関係をしいたのだった

 「論理的」に何かを書こうとしている。その「論理」のなかに、奇妙なものがあり、それが私を混乱させる。。
 「わたしのなかの幼い母親」というのは、「わたし」が思う(想像する)母親という意味(論理)なのだが、つまり「母親」は「想像の母親」なのだが、ここで私はつまずく。
 私は、「論理」とは逆に、あ、倉橋はこのとき「母親」になっている、と感じた。「母親」になって、「母親」から「胎児」を感じていると。
 「胎児」から「母親」を想像しているのではなく、「母親」から「胎児」を想像している、と。

 倉橋は男なのだから、「母親」は「肉体」で思い出すというよりも、想像力で描き出すものなのだが。

 「わたしのなかの」の「なか」が、どうも、私に「誤読」せよ、と呼びかけてくるである。「わたしのなか」は「わたしのあたま(論理)のなか」であり、また「わたしの想像のなか」ということなのだが、私はこれを「わたしの肉体のなか」と読んでしまう。「わたしの肉体がおぼえている」と感じてしまう。「胎児のわたし」は包まれているのだが、この未生の肉体に比べると「母親の肉体」の方が存在感が強くて、そのために「胎児を包んでいる肉体(母親)」の方が前面に出てくる。私は「頭」で考えられたものよりも、実際にそこにあるものの方を信じてしまう癖があるのだろう。この私の「感じ」は明らかに「誤読」なのだが、「わたしのなかの」の「なか」ということばが気になって、「誤読」に誘われるのだ。

 何かを想像するということは、その「対象」になってしまうこと。いれかわること。これを「共犯」と呼ぶと言いなおせるかもしれない。

 基本的には倉橋が「胎児」になり、そこから「母親」を想像するという構造なのだが、読んでいると「母親」が「胎内」の「胎児」を想像しているという具合に、逆転が起きている。倉橋は「母親」になって「胎児」の倉橋を想像している。それも「頭」ではなく、「肉体」で。
 「肉体で」というのは、「頭で」というのとは違って、「想像する」というよりも、「思い出す」とい感じ。覚えているものを「思い出す」。知らないものを「想像する」のではない。

そういえば母親の胎内には深い樹液もあった
広々とした樹冠(クローネ)に抱かれてひっそりと揺られながら
孤独(ひとり)をかこつために睡り
孤独をかこつ自由もこんなふうにあるのだと
とおいとおいところからの声で
未生以前にすでに聞かされていた気がする

 これは「胎児の倉橋」の「記憶」として書かれているのだが、私は「母親になった倉橋」が「想像」していると読んでしまう。「胎児」は「胎内」で「孤独」を生きている。「孤独」を学んでいる。この子は「孤独」が好きな子になるかもしれない、などと想像している。あるいは「孤独」になれ、と呼びかけているとも感じる。
 想像というよりも「予感」かなあ。「直感」かなあ。「予感」とか「直感」というのは「頭」で考え出すものではなく、「肉体」の反応だから、ここに書かれていることばが「男性の文体」であるにもかかわらず、女の声(女の肉体)として、迫ってくる。
 どうにもうまく説明できないのだが、この詩を読むと、「胎児」になったという感じではなく、「母親」になった感じがしてしまう。
 「母親」が「胎児」を感じている。「わたし」が「母親」になるためには「胎児」が必要なのだ。「胎児」によって「母親」にかわっていくのだ。「胎児」によって「母親」として生まれる。生まれ変われるのだ、と感じている女。
 初めて「母親」になる「女」になった感じて、読んでしまうのである。

だがわたしのなかの幼い母親は
かろうじてじぶんがまず母親であるためには
わたしという未生児が必要だったのはまちがいなく

 というの「男の論理」で「母親」を想像していることばなのだが、「女の初めての記憶」のようになまなましく響いてくる。
 変な詩だなあ、と思う。「変」というのは、何度でも読み返したい。もっと考えたいという意味なのだけれど。

化身
倉橋 健一
思潮社
コメント
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