詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

しばらく休みます(代筆)

2017-02-03 23:58:49 | その他(音楽、小説etc)
しばらく休みます。(代筆)
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岩田亨『聲の力』

2017-02-03 10:28:11 | 詩集
岩田亨『聲の力』(角川書店、2016年04月25日発行)

 岩田亨『聲の力』は歌集。ことばを声に出すことによってつかみとった力。それをもう一度ことばに返す。そうやってできた歌集。
 ということなのだが。
 私は岩田の声を聞いたことがない。また、私は黙読しかしない。だから、この歌集を読んでも、そこに書かれていることの半分もつかみ取ったことにはならないと思うのだが、感想を書いてみる。

聲を撃つ夜(よ)の地下室の空間の響きよ無限の世界へ届け

 「聲の力」という連作の第一首。この歌集の全体を引き受ける短歌。
 「意味」は「理解できる」。「の」の繰り返しによって、ことばが「音楽(リズム)」に変わっていこうとしているのも「理解できる」。「夜(よ)」と「響きよ」の「よ」が遠くで響きあっているのも「理解できる」。
 でも、それは「頭」で「理解する」のであって、「わかる」という感じにはならない。実際に声を聞けば違った印象になるかもしれないが、「肉体」に迫ってくる感じがしない。声がとどくという感じではなく、遠くで「意味」が動いている感じがしてしまう。
 目で読んでいるせいかもしれない。

わが内に未知なるものが目覚めるか宙に放てる聲の力に

詩人らが一時間余り撃つ聲を聞くときわれは目をつむりたり

大いなる聲の波動を受け止めてわれの内なる何かが変わる

 書かれている「意味」は理解できる。でも、私の「肉体」は反応しない。
 かなり意地悪な読み方になってしまうが、「詩人らが」の一首、「目をつむりたり」というのでは、その詩人の作品(声)はたいしたものではない。目を開けていては集中できないとしたら、声に魅力がないということだろう。声が強いとき、思わず声の方を「見る」。つまり人間は「目」でも「聞く」。耳に聞こえてくる以外のものを「肉体」の「全身」をつかってつかみ取ろうとする。そういう「反応」を引き出さないとしたら、作品はあまりおもしろいものではなかった、ということにならないか。
 「大いなる聲の波動を受け止め」たのは岩田の何か。「われの内なる何か」では抽象的すぎる。
 岩田は「聲」とわざわざ複雑な漢字をつかっているのだが、こういう漢字をつかうとき、「抽象的な意味」がすでにまぎれ込んでいる。抽象に抽象が反応している。「頭」でことばを「理解している」という感じがしてしまう。

 「祈り」という連作は啄木の三行短歌のように三行で書かれている。「改行」がある。私が「黙読」しているせいかもしれないが、この方が「音」を感じた。

しみじみと
わが原罪を浄化する
太陽の風 月よりの波。

しんしんと
わが精神を凝らせる
聖地にて聞く 神々の聲。

期せずして
わが魂をゆるがせる
女神イシスの強きその意志。

 改行がリズムの変化になる。リズムが自然に聞こえ、リズムの力を得て、ことばが一瞬「意味」から開放される。「原罪」「浄化」「精神」「意志」というような「漢字熟語」には明確な「意味」があるのだが、その「意味」を一瞬忘れて、「音」そのものとして私は感じてしまう。
 「現代詩」のリズムがことばを軽やかにしている。
 「軽やか」なものではなく、「重いもの」「厳しいもの」を書こうとしているのかもしれないが。

 で、ここから「短歌」にもどって考え直すのだが。

 短歌は通常改行を含まず、一行で書かれる。そのとき、ことばは一行の中で、どんなぐあいに動いているのか。ただ一直線に突き走るのか、うねるように動くのか。そのとき、「ことばの肉体」はどんなふうに私の「肉体」に響いてくるか。
 私は一直線に走ることばも好きだが、一行(一首)のなかで「うねり」がある短歌の方が好きである。「うねり」が「肉体」のなかで、力を矯めて、矯めることによって、より強くなって動き始める感じ。「反動」のようなものが「肉体」につたわってくる。

藁屋根を支える梁を包みゆき囲炉裏のけむり立ちのぼりたり

 「支える」「包む」という「動詞」は「動かない」。それが「立ちのぼる」というまっすぐに動く「動詞」を引き出してくる。こういう「動詞」どうしの反応が「肉体」の奥へ響いてくる。
 田舎の家と囲炉裏と煙を描写しているのだが、そこにつかわれる「動詞」は「肉体」に響いてくる。私の「肉体」は「煙」になって梁を「包み」、「立ちのぼる」。そのとき「藁屋根」も「支える」。実際に支えているのは「梁」だが、その「梁」を「包む」ので、煙が「支える」という感じにもなる。「包む=抱擁」は、「支える」。
 こういう流れるようなうねりは「改行」してしまうと味が落ちる。

ゼッケンの紐結びつつ永田町一番出口を急ぎ出でたり

 「結ぶ」という「とまる」動き。それが「出る」という動きに変わる。「一番」も「急ぎ」も、その動きをあおる。「とまる」動き、「結ぶ」がその全体の「底力」となっている。「つつ」も効果的だ。

海外への派兵の決定なされたる今日多喜二忌の案内とどく

 こうの作品は「派兵決定」という烈しいものに、「忌の案内」というものがぶつけられ、「動きをとめる」力が働く。内向する、といえばいいのか。踏みとどまれ、という「いのり」のようなものがうまれる。「多喜二」という固有名詞が「いのり」の形を決定づける。
 「改行」しても読めるけれど、「一行歌(短歌)」の方が力が強くなると感じた。

歌集 聲の力 (新運河叢書)
クリエーター情報なし
KADOKAWA
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