詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高良勉「打ち捨てられたヒモ」

2017-02-28 07:39:51 | 詩(雑誌・同人誌)
 高良勉「打ち捨てられたヒモ」は、こんな作品。

ムラサキ露草に
朝露がまだ残るあかとき
サトウキビ畑の広がる
いつものウォーキングコースに
おびただしい紐が
打ち捨てられている
赤、青、黄、黒、白のヒモたち

砂糖キビの枯れ葉を
束ねていた黄色いヒモ
パソコンのコードであったか黒いヒモ
若い娘の腰巻きの残りか赤いヒモ
路傍に無造作に捨てられた
現代のヒモたち ハライ

好みの紐を拾って帰っても
ヒモのゴミは増えるばかり
一度切られたヒモは
再び結ばれることは無いのか

ATCG ATCG
二重ラセンのヒモは
太陽の糸に焼かれ
車道の風に吹かれ
反り返っている

切断されるばかりで
結ばれることのないヒモ
捨てられたママでいいのか青いヒモ

私の身体の宇宙も
十次元の超ヒモで
できているというのに
ハライ ハライ

 ふと見かけた風景(もの)を書いているうちに、ことばが少しずつ変わっていく。一連目では、紐には色がついている。色が紐を乗っ取っている。二連目では、色を足場にヒモではないものがあらわれてくる。サトウキビの枯れ葉、パソコンのコード、腰巻き。切断された紐が高良によって、紐ではないものと結ばれる。三連目は、いわば逆説的説明である。「再び結ばれることは無い」ということばを挟んで、さらに遠くのものと結ばれる。四連目に登場するのは遺伝子であり、宇宙である。
 この連想のスピードが詩である。
 ある瞬間、ことばが何と結びつくか、これはよくわからない。インスピレーションといってしまえばそれまでだが、どこからともなくやってくるインスピレーションにまかせてしまうことが詩なのかもしれない。
 腰巻きの赤、遺伝子の二重螺旋の紐、さらに「宇宙」のなぞを謎を解く「超ひも理論」。それはみんな高良によって結びつけられる。高良は、ひとが知っているのことを結びつけているだけといえば結びつけているだけなのだが、このちょっと「気楽」な感じの飛躍がスムーズで無理がない。
 「頭」で「論理」をつくってしまうのではなく、どこかで見聞きしおぼえていることを、軽い感じでつないでゆく。宇宙の「超ヒモ論理」は、数式をつかって説明しろといわれても、たぶん説明できないだろう。だから「知っている」とは言えないのだが、そういうものもひとはことばで渡っていくことができる。
 この軽さを支えているのが「ハライ」ということば。
 どこの地方のことばか知らないが、まつりの「囃ことば」のように感じられる。「ハレ」のことばである。「ハレ」の気持ちがつかみとる「異次元」。

 そこにどんな「意味」があるのか。
 そう問われたとき、私は答えに困るけれど、「結論としての意味」ではなく、こんなふうに自在に動けることの方に「意味にならない何か」がある。「意味」を否定して存在しうるものの「美しさ」がある。「美しさ」というのは「意味」にはならない「秘密」なのだと思う。



言振り: 琉球からの詩・文学論
高良 勉
未来社
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