中川智正「炎天下」ほか(「ジャム・セッション」10、2016年12月28日発行)
中川智正「炎天下」を読む。俳句である。
「冬北斗」は冬、「息よりも」は夏だろうか。季節は違うのだが、「孤独」を感じさせる。しかも、「周囲」が見える孤独である。自分と他者(他の存在)のあいだが完全に透明になったような「孤独」。
「看守」につまずいた。囚人?
中川智正、という名前には見覚えがある。オウム真理教の幹部ではなかったか。同じ号のエッセイ「私をとりまく世界について」を読むと、たしかに、あの中川である。
あ、俳句を書いているのか。
「秋彼岸」は孤独と同時に、ひとへの「信頼」のようなものが感じられ、そうか、中川はオウム真理教にいたころとは違った人間になっているのだな、とも思う。
もっとも、オウム真理教にいたころの中川についても、いまの中川についても私は知らないのだけれど。
この句には、美しいものがある。看守になって、中川に針に糸を通してくれと頼まれ、針に糸を通してやりたいような気持ちになる。逆もいいかもしれない。刑務所に入って、物を繕う。うまく針に糸がとおらない。頼める相手は看守だけ。それで「すみません。針に糸をとおしてください」と頼む。ひとに自分の「無力」(おおげさかもしれないが)をさらけだし、ひとに頼る。この「頼る」気持ちが生まれ、それを実際に行動し、ことばにする。そこに不思議な美しさを感じる。ひとに「頼る」というのは、いいことだと思う。
勝手な想像だが、オウム真理教の幹部だったころ、中川はひとに頼るということはしなかっただろうなあ。ひとに頼ることができる人間は、ひとを殺すことを考えたりしない。ひとに頼らない人間だけが、他人を殺すのだと思う。
中川が、あの死刑囚の中川だと思うと「千二百秒」が強く響いてくる。「二十分」は短すぎる。「千二百」という大きな数字に頼っている。「二十分」と「千二百秒」は物理的には(数学的には)同じ時間だが、「千二百秒」の方が心理的に長い。いや、逆に早く過ぎていく感じがして「短い」かもしれない。そのときそのときで、「二十分」になったり「千二百秒」になったり、短くなったり長くなったり、どっちかわからなくなるけれど、きょうは「千二百秒」ということばに頼りたい、という感じ。ここにも「弱いもの」の「強さ」がある。
「弱いものの強さ」を中川は発見していると思う。
「冬北斗」にも「息よりも」にも、「弱いものの強さ」に通じるものを感じる。「弱さ」の自覚と言えばいいかもしれない。「弱い」と自覚するとき、世界は今までとは違った「充実」をみせる。「共存」というものが、ふっと、意識をつらぬく。
「弱い」と「強い」が「求心/遠心」として動く。瞬間的に「世界」があたらしく生まれる感じ。
「母に会う」ではなく「母に会い」と「終止形」でないところも「悲しさ」を呼ぶ。余韻が漂う。
「長く」のなかにこころが動いている。
「しばし」は「短い」。「祖母に」の「長く」と対比すると不思議な気がする。「長く」も「しばし(短い)」も、断定できない。相対化できない。「長い」は「短い」であり、「短い」は「長い」である。
こういう不思議さを凝縮できるのは「俳句」の特徴かもしれない。
これは、おもしろい。百合が目の前にあるのではないだろう。香りがする。目をつぶって百合を思い描く。この目をつぶって百合を想像することを「見えぬ目」と言っている。目をつぶっているときは見えて、目を開ければ見えない。
百合と中川が「一体」になっている。「一体」のなかで「ウインク」する。中川が? 百合が? 相対化し、断定しては、世界は動かない。ふたつを行き来し、行き来することで「ひとつ」になる。
「百合の」の句に通じるものがある。「論理」が強すぎるかもしれない。この「論理」の強さが、どこかで中川をオウム真理教と共振させることになったのかもしれない。
*
「ジャム・セッション」は先日紹介した江里昭彦が出している同人誌。江里は山口県に住んでいるのだが「琉球新報」を講読している。沖縄で書かれていることばを直接読んでいる。
江里と中川がどのようにして出会い、どうやって一緒に同人誌を出すことになったのかわからないが、江里の、ことばに向き合うときの真摯さが中川のこころを揺さぶったのかもしれない。
人間のなかでことばはどう動き、そのとき「世界」はどう見えるのか。ことばがかわるとき、「世界」はどうかわるのか。どういうことばをつかうべきなのか、を江里は問い続けているのだろう。
その江里の「胸騒ぎするほどのさびしさ」から三句。
こういうものに気づいたとき、たしかに「さびしさ」は胸騒ぎになる。
中川のことばに出会い、「胸騒ぎするほどのさびしさ」を江里は感じたのか。
江里はまた、松下カロの『白鳥句集」から三十句を紹介している。ことばを添えずに、ただ並べている。私も江里にならって、その三十句のなかから少し「紹介」してみる。
中川智正「炎天下」を読む。俳句である。
冬北斗 わが頭上にも傾(かたぶ)ける
息よりも熱き風吸い初打席
「冬北斗」は冬、「息よりも」は夏だろうか。季節は違うのだが、「孤独」を感じさせる。しかも、「周囲」が見える孤独である。自分と他者(他の存在)のあいだが完全に透明になったような「孤独」。
秋彼岸看守へ頼む針へ糸
「看守」につまずいた。囚人?
中川智正、という名前には見覚えがある。オウム真理教の幹部ではなかったか。同じ号のエッセイ「私をとりまく世界について」を読むと、たしかに、あの中川である。
あ、俳句を書いているのか。
「秋彼岸」は孤独と同時に、ひとへの「信頼」のようなものが感じられ、そうか、中川はオウム真理教にいたころとは違った人間になっているのだな、とも思う。
もっとも、オウム真理教にいたころの中川についても、いまの中川についても私は知らないのだけれど。
この句には、美しいものがある。看守になって、中川に針に糸を通してくれと頼まれ、針に糸を通してやりたいような気持ちになる。逆もいいかもしれない。刑務所に入って、物を繕う。うまく針に糸がとおらない。頼める相手は看守だけ。それで「すみません。針に糸をとおしてください」と頼む。ひとに自分の「無力」(おおげさかもしれないが)をさらけだし、ひとに頼る。この「頼る」気持ちが生まれ、それを実際に行動し、ことばにする。そこに不思議な美しさを感じる。ひとに「頼る」というのは、いいことだと思う。
勝手な想像だが、オウム真理教の幹部だったころ、中川はひとに頼るということはしなかっただろうなあ。ひとに頼ることができる人間は、ひとを殺すことを考えたりしない。ひとに頼らない人間だけが、他人を殺すのだと思う。
大西日 千二百秒母と会い
中川が、あの死刑囚の中川だと思うと「千二百秒」が強く響いてくる。「二十分」は短すぎる。「千二百」という大きな数字に頼っている。「二十分」と「千二百秒」は物理的には(数学的には)同じ時間だが、「千二百秒」の方が心理的に長い。いや、逆に早く過ぎていく感じがして「短い」かもしれない。そのときそのときで、「二十分」になったり「千二百秒」になったり、短くなったり長くなったり、どっちかわからなくなるけれど、きょうは「千二百秒」ということばに頼りたい、という感じ。ここにも「弱いもの」の「強さ」がある。
「弱いものの強さ」を中川は発見していると思う。
「冬北斗」にも「息よりも」にも、「弱いものの強さ」に通じるものを感じる。「弱さ」の自覚と言えばいいかもしれない。「弱い」と自覚するとき、世界は今までとは違った「充実」をみせる。「共存」というものが、ふっと、意識をつらぬく。
「弱い」と「強い」が「求心/遠心」として動く。瞬間的に「世界」があたらしく生まれる感じ。
「母に会う」ではなく「母に会い」と「終止形」でないところも「悲しさ」を呼ぶ。余韻が漂う。
祖母にだけ長く供えて熟柿(じゅくし)かな
「長く」のなかにこころが動いている。
絞縄(こうじょう)の絵図を写せば蝉しばし
「しばし」は「短い」。「祖母に」の「長く」と対比すると不思議な気がする。「長く」も「しばし(短い)」も、断定できない。相対化できない。「長い」は「短い」であり、「短い」は「長い」である。
こういう不思議さを凝縮できるのは「俳句」の特徴かもしれない。
百合の香や見えぬ目をあけウインクし
これは、おもしろい。百合が目の前にあるのではないだろう。香りがする。目をつぶって百合を思い描く。この目をつぶって百合を想像することを「見えぬ目」と言っている。目をつぶっているときは見えて、目を開ければ見えない。
百合と中川が「一体」になっている。「一体」のなかで「ウインク」する。中川が? 百合が? 相対化し、断定しては、世界は動かない。ふたつを行き来し、行き来することで「ひとつ」になる。
脳が見る鶏頭(けいとう)もまた脳を見て
「百合の」の句に通じるものがある。「論理」が強すぎるかもしれない。この「論理」の強さが、どこかで中川をオウム真理教と共振させることになったのかもしれない。
*
「ジャム・セッション」は先日紹介した江里昭彦が出している同人誌。江里は山口県に住んでいるのだが「琉球新報」を講読している。沖縄で書かれていることばを直接読んでいる。
江里と中川がどのようにして出会い、どうやって一緒に同人誌を出すことになったのかわからないが、江里の、ことばに向き合うときの真摯さが中川のこころを揺さぶったのかもしれない。
人間のなかでことばはどう動き、そのとき「世界」はどう見えるのか。ことばがかわるとき、「世界」はどうかわるのか。どういうことばをつかうべきなのか、を江里は問い続けているのだろう。
その江里の「胸騒ぎするほどのさびしさ」から三句。
旅先の夜具のくぼみの万愚節
苦力(クーリー)あり髪のはえぎわまで湿疹
見えぬあり見えるあり盆地の凧の糸
こういうものに気づいたとき、たしかに「さびしさ」は胸騒ぎになる。
中川のことばに出会い、「胸騒ぎするほどのさびしさ」を江里は感じたのか。
江里はまた、松下カロの『白鳥句集」から三十句を紹介している。ことばを添えずに、ただ並べている。私も江里にならって、その三十句のなかから少し「紹介」してみる。
白鳥のほんたうの色問はれけり
ひるあひる白鳥あひる白鳥あ
作法通りに白鳥は喉を突き
白鳥は新刊本の匂ひする
絞首刑は残虐な刑罰ではないのか? — 新聞と法医学が語る真実 | |
中川智正弁護団,ヴァルテル・ラブル | |
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