詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山下晴代『今はもう誰も杉村春子など思い出さない』

2017-02-17 09:56:33 | 詩集
山下晴代『今はもう誰も杉村春子など思い出さない』(Editions Hechima、2016年11月28日発行)

 山下晴代『今はもう誰も杉村春子など思い出さない』にも「意味」というか、「文学」が出てくる。ただしそれは伊藤浩子『未知への逸脱のために』とは全く異なる。「e fango e il mondo」の全行。

そして世界は泥である

夢のなかで泳いでいた
夢の空間を
夢の文法があり
夢の論理があった
そこでは、
レオポルディと三島由紀夫が
ひそかに笑い合っていた
ボルヘスとホイジンガが
高い塔を見上げていた
ジョブズとラカンはともに
座禅を組んでいた
春の雪が降り
薔薇色の虎がゆき
ありとあらゆるスイッチは消えた
どこから「そこ」へ入っていけばいいのか?
姉たちよ! と、シャールはとなえる
見知らぬ魚たちに祈りを捧げる
そして世界は泥である

 複数の「固有名詞」が出てくる。それは「芝居」で言えば「役者」である。「役者」が「肉体」という「過去」をもっているように、それぞれの「固有名詞」は「ことば」の「過去」をもっている。芝居を見るとき、ストーリーとは無関係に「役者自身の肉体の過去」を見る。「存在感」を見る。もっとも、その「見る」というのは大半が「誤解」である。ほんとうにその役者の「過去」を知っているわけではない。なんとなく感じてしまう「過去」である。「女たらし」とか「子煩悩」とか。サドだとか、マゾだとか。偏執狂だとか。それは自分の肉体の中の、かなえられない欲望の姿かもしれない。
 で。
 それが「ほんとう」かどうかは知らないが、私たちは好き勝手な「過去」を選んで、役者の「芝居」を膨らませる。役者自身も膨らませるのだけれど、観客の方でもかってに想像力を暴走させる。
 三島由紀夫が「春の雪」を書いた。ボルヘスは薔薇色かどうか知らないが「虎」を書いた。ジョブズは禅に惹かれていた。「固有名詞」の「事情」など気にしないで、そこから勝手に暴走する。それは「正しい」こともあれば「間違っている」こともある。そして、どちらかというと「間違っている」ことの方が多い。山下晴代は「間違い」の方を選ぶ。つまり、山下の「好み」を優先させる。そこが、いわゆる「頭脳派」と違う。「頭脳派」は「正しさ」にこだわってしまう。「固有名詞」を「正しく」理解するかもしれないが、自分自身に「嘘」をつく。自分自身を「間違える」。
 ひとはだれでも間違える。しかし、間違えるには間違えるだけの原因がある。その原因が「個性」であり、それがおもしろいのである。西脇に百人一首をテキトウに現代語訳した詩があったが、あの訳というか解釈は「でたらめ」である。しかし、それはわざとやっている「でたらめ」であり、その「でたらめ」のなかに、どうしても出てきてしまう西脇の「本質」があり、それがおもしろい。山下のやっていることは、それに近い。どうしても出てきてしまう「本質」が「本物」であるから、表面的な「間違い」はどうでもいい。表面的に「間違い」を犯さないことには語れない「本質」というものがある。

 詩集のタイトルになっている作品の第一連。

しなの町の文学座アトリエに行くと
まだ開演前で
年配の女優たちがアトリエ前の敷地で
たき火を囲んでいた
杉村センセイ! と
北村和夫も江守徹も
抱かせていただきます! と、尊敬しながら
看板女優を抱いた

 ここに書かれているのはゴシップである。「ほんとう」かどうかは、北村和夫、江守徹、杉村春子に聞いてみないとわからない。三人がそのとき「ほんとう」を語るかどうかわからない。ゴシップが「嘘」であっても、演劇ファンには「ほんとう」である。それが「ほんとう」であってほしいと、ファンは欲望する。ファンの「本能」がゴシップのなかで「事実」になる。人間の「欲望(本質)」をすくいあげて、「事実」として「結晶化」させるときの「ことば」。それは「間違い」であっても「真実」。「間違う」ことでしかつかみとれない「真実」。
 露骨に書けば、杉村春子がセックスしてみたい女であるかどうかは関係ない。セックスして、気に入られれば引き立ててもらえる。俳優として成功する道がひらけると思えば、北村和夫は杉村春子を抱くだろう。「抱かせていただきます!」といいながら。それは、こっけいである。惨めである。しかし、人間はそういうことをするかもしれない。そういうことを「してみたい」かもしれない。否定と肯定が、区別がつかない。その「混沌」から、どっちへ踏み出すか。どっちへ踏み出そうが、「混沌」をくぐりぬけることが何かを生み出す。
 そうやって「生み出されたもの」が詩である。あるいは、「生まれる瞬間」を描き出すのが詩である。
 この作品は、途中で小林秀雄の杉村春子批判のことばを挟んで(批評バネに)、「間違いだらけの真実」を批評に転換してみせる。(小林秀雄のことばを引用した方がわかりやすいのだが、省略)

そう、技巧だけで何かになれると
思われていた時代
シング! などといってみても
誰もアイルランドなどに
行ったことがなかった
杉村春子は
広島の出身だったか
演劇ハンドブックにある
日本標準アクセントではなく
東京下町のアクセント
を、正しいと思って
身につけていた
だからテレビドラマでも
「よその人」という時、
「よ」の上にアクセントを持ってきていた
 さういふ時代
 が日本にもあった、だが
 もう誰も、杉村春子など
 思い出しはしない

 「過去」の存在、「過去」を覚えている。けれど、「思い出さない」。その「思い出さない」ものを「思い出させる」。「過去」はどんなに間違っていても「過去」という真実になる。間違っているからこそ「真実」になると言えばいいか。
 この批評性の強さが、山下の力である。批評のあらわし方が山下の個性である。

 「頭脳派」は間違いをおかさないようにことばを整え続ける。「普遍」をめざしながら「自分」という「事実」を忘れてしまう。何も「思い出さない」こと、「覚えていること」を「否定」することで「普遍」を目指すという、奇妙な「間違い」をしつづけている。そういう視点から山下のことばを読むと、その強さが際立っていることがわかると思う。

コメント (2)
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