荒木時彦『アライグマ、その他』(私家版、2017年02月10日)
荒木時彦『アライグマ、その他』は反復の中で「時間論」を展開する。方法論としてはベケットに似ている。
「今日の彼は、今日の彼という感じがしなかった」から、「今日の彼からは、<四月十一日的性質>が欠落していた」という「欠落」の発見への飛躍はとてもおもしろいと思う。しかし、「<四月十一日的性質>とは何だったのか」という問いから、「日付が彼を形作っているわけではない。しかし、日付という形式がなければ、昨日と今日、今日と明日の区別もつかず、彼は混乱するに違いない」という結論(?)へ進むのは、抽象的すぎて興奮が冷めてしまう。「形式」という「抽象」が追加されたからかもしれない。この動きが、どうも私にはもの足りない。主語が「私」から「彼」へと転換するのも、「私」の感覚を半分放棄しているように思える。集中力が途切れたように感じられる。
「抽象」の追加は、反復される部分では、「違和感」を経てさらに「兆候」ということばに動いていく。「抽象」が加速する。
「抽象」は「抽象」へと動いていくと、「時間」そのものが「抽象」になる。「<四月十一日的性質>の欠落」という「抽象」のあとは、「事実」のみを積み重ねないとおもしろくない。すでにベケットは「<●●的性質>の欠落」ということばをつかわずに、「事実」のみを反復することで「欠落」という「時間の重力」を描いているから、それを反復してもしようがないということかもしれないが。
さて、クイズ。
この「部分」は「今朝、バス停で毎朝七時半に会う男に、」だろうか。「ショッピングモールに行った。」だろう。
答えは「今朝、バス停で毎朝七時半に会う男に、」である。それも、実は、私の興奮が冷めた一つの理由である。「私」から「彼」への移行についてはすでに書いたが、この部分で「主役」は完全に「彼」になってしまっている。「欠落していた」と感じたのは「私」であるのに、「私」の感覚は問題にされず、「彼」の問題になってしまう。
もちろんこの部分から「私」と「彼」は同一人物であるという形で、ことば全体を反復する(比喩にしてしまう)ということもできるし、そうしたい欲望に誘われるのだが。どうも、つまずく。
「日付という形式」が「曜日という形式」へと簡単に転換してしまうときの反復のありかたに私は覚めてしまう。ことばの対象を指し示す働きと、対象を意味に変えていく時の運動が軽すぎるように思える。「日付(形式)」と「曜日(形式)」の関係は「比喩」になりえていない。「四月十一日の欠落」のような「暗喩」の力がない。ことばに「論理」を要求する力がない。
流行りのことばで言えば、「換喩」が動き出してしまう。「日付」と「曜日」を結びつけた瞬間に「暗喩」が消えてしまう。「換喩」は単なる言い換え。僧侶を「袈裟を着た男」というようなもの。飛躍がない。そのかわりに「僧侶=袈裟」という「共有された論理」がある。
「比喩」は「独創」であり、そこから「論理」が捏造され、それを読む時読者は「暗喩」の「共犯者」になるが、「換喩」には「独創」は入り込めない。
「袈裟」を来ているのが僧侶であるということが「共有」されることで、「袈裟を着た男」が「僧侶」になる。「認識の共有」が「換喩」を成り立たせている。
別の「換喩」を例にしてみようか。たとえば「早稲田の学生」は「角帽をかぶった男」。角帽をかぶった早稲田の学生を見たことがない人、早稲田の学生帽が角帽であることを知らない人には「換喩」は通じない。どこかの大学生らしい、というところでとどまってしまう。
そういう「共有された論理」へ入り込むことで、「抽象」を否定しようとしているのかもしれないが、どうだろうか。
「四月十四日が日曜日」なら「四月十一日は木曜日」。この「論理」を成り立たせているのは何だろう。「共有されている論理」だが、それは「論理」というよりは「常識」であって、味気ない。荒木のつかっていることばを借りれば、「論理」というよりも「関係」というものかもしれない。
荒木は「関係がない」と「ない」という否定を持ち出してくるのだが、どうも、この「ない」は「欠落」とは違う。「欠落」をむしろ否定してしまうように思える。
とてもおもしろいことを書こうとしているだが、おもしろくなりきれていない、という不満の方が動いてしまう。たとえば広田修なら、「<四月十一日的性質>の欠落」から、どうやって論理を動かしていくだろうか、というようなこともちらりと考えてしまう。
荒木時彦『アライグマ、その他』は反復の中で「時間論」を展開する。方法論としてはベケットに似ている。
今朝、バス停で毎朝七時半に会う男に、いつものように挨拶をした。彼も私の顔を見て、軽く会釈した。しかし、その挨拶は何かしっくりとこないものだった。ダークブルーのスーツにストライプのネクタイ、銀縁のメガネ。見たところ、彼は確かにいつもの彼だった。一昨日の彼は、一昨日の彼らしかった。昨日の彼は、昨日の彼らしかった。しかし、今日の彼は、今日の彼という感じがしなかったのだ。今日の彼からは、<四月十一日的性質>が欠落していた。
仕事から帰っても、今朝、バス停で会った彼に対する違和感が気になっていた。何故、今日の彼には<四月十一日的性質>が欠落していたのか。あるいは、彼に欠けていた<四月十一日的性質>とは何だったのか。日付が彼を形作っているわけではない。しかし、日付という形式がなければ、昨日と今日、今日と明日の区別もつかず、彼は混乱するに違いない。 (「今朝、バス停で毎朝七時半に会う男に、」)
今朝、バス停で彼と会った。ダークブルーのスーツにストライプのネクタイ、銀縁のメガネ。私は彼に軽く会釈した。私は、その日の仕事の段取りを考えながらバスに乗った。
夜、家に帰ってビールを飲みながら、<四月十一日的性質>について考える。四月十一日は、朝、目覚めた時からはじまっていた。彼とバス停で会った時、私は彼について少し違和感を覚えた。彼には<四月十一日的性質>と呼ぶべきものが欠落していた。その違和感は、日が経つにつれ、私自身にもわからないくらい少しずつ大きくなっていった。私は、彼がその日に失った<四月十一日的性質>は、一つの兆候だったのではないかと思っている。たとえば、腕時計が止まったことも、今日、バスが遅れたことも。兆候とは常に何かの兆候だが、それが何なのか、私には分からない。
(「ショッピングモールに行った。」)
「今日の彼は、今日の彼という感じがしなかった」から、「今日の彼からは、<四月十一日的性質>が欠落していた」という「欠落」の発見への飛躍はとてもおもしろいと思う。しかし、「<四月十一日的性質>とは何だったのか」という問いから、「日付が彼を形作っているわけではない。しかし、日付という形式がなければ、昨日と今日、今日と明日の区別もつかず、彼は混乱するに違いない」という結論(?)へ進むのは、抽象的すぎて興奮が冷めてしまう。「形式」という「抽象」が追加されたからかもしれない。この動きが、どうも私にはもの足りない。主語が「私」から「彼」へと転換するのも、「私」の感覚を半分放棄しているように思える。集中力が途切れたように感じられる。
「抽象」の追加は、反復される部分では、「違和感」を経てさらに「兆候」ということばに動いていく。「抽象」が加速する。
「抽象」は「抽象」へと動いていくと、「時間」そのものが「抽象」になる。「<四月十一日的性質>の欠落」という「抽象」のあとは、「事実」のみを積み重ねないとおもしろくない。すでにベケットは「<●●的性質>の欠落」ということばをつかわずに、「事実」のみを反復することで「欠落」という「時間の重力」を描いているから、それを反復してもしようがないということかもしれないが。
彼は四月十四日が日曜日であることを知っていた。昼過ぎに妻と一緒に近所の公園に散歩に行くと、彼は六歳になる子供とサッカーボールで遊んでいた。もし、彼が、四月十一日が木曜日であることを知らなければ、今日が日曜日であることを知り得ないのだ。もちろん、彼に<四月十一日的性質>が欠落していたことと、彼が、今日が日曜日であることを知っていることは関係がない。
さて、クイズ。
この「部分」は「今朝、バス停で毎朝七時半に会う男に、」だろうか。「ショッピングモールに行った。」だろう。
答えは「今朝、バス停で毎朝七時半に会う男に、」である。それも、実は、私の興奮が冷めた一つの理由である。「私」から「彼」への移行についてはすでに書いたが、この部分で「主役」は完全に「彼」になってしまっている。「欠落していた」と感じたのは「私」であるのに、「私」の感覚は問題にされず、「彼」の問題になってしまう。
もちろんこの部分から「私」と「彼」は同一人物であるという形で、ことば全体を反復する(比喩にしてしまう)ということもできるし、そうしたい欲望に誘われるのだが。どうも、つまずく。
「日付という形式」が「曜日という形式」へと簡単に転換してしまうときの反復のありかたに私は覚めてしまう。ことばの対象を指し示す働きと、対象を意味に変えていく時の運動が軽すぎるように思える。「日付(形式)」と「曜日(形式)」の関係は「比喩」になりえていない。「四月十一日の欠落」のような「暗喩」の力がない。ことばに「論理」を要求する力がない。
流行りのことばで言えば、「換喩」が動き出してしまう。「日付」と「曜日」を結びつけた瞬間に「暗喩」が消えてしまう。「換喩」は単なる言い換え。僧侶を「袈裟を着た男」というようなもの。飛躍がない。そのかわりに「僧侶=袈裟」という「共有された論理」がある。
「比喩」は「独創」であり、そこから「論理」が捏造され、それを読む時読者は「暗喩」の「共犯者」になるが、「換喩」には「独創」は入り込めない。
「袈裟」を来ているのが僧侶であるということが「共有」されることで、「袈裟を着た男」が「僧侶」になる。「認識の共有」が「換喩」を成り立たせている。
別の「換喩」を例にしてみようか。たとえば「早稲田の学生」は「角帽をかぶった男」。角帽をかぶった早稲田の学生を見たことがない人、早稲田の学生帽が角帽であることを知らない人には「換喩」は通じない。どこかの大学生らしい、というところでとどまってしまう。
そういう「共有された論理」へ入り込むことで、「抽象」を否定しようとしているのかもしれないが、どうだろうか。
「四月十四日が日曜日」なら「四月十一日は木曜日」。この「論理」を成り立たせているのは何だろう。「共有されている論理」だが、それは「論理」というよりは「常識」であって、味気ない。荒木のつかっていることばを借りれば、「論理」というよりも「関係」というものかもしれない。
荒木は「関係がない」と「ない」という否定を持ち出してくるのだが、どうも、この「ない」は「欠落」とは違う。「欠落」をむしろ否定してしまうように思える。
とてもおもしろいことを書こうとしているだが、おもしろくなりきれていない、という不満の方が動いてしまう。たとえば広田修なら、「<四月十一日的性質>の欠落」から、どうやって論理を動かしていくだろうか、というようなこともちらりと考えてしまう。
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