詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

グザビエ・ドラン監督「たかが世界の終わり」(★★★★★)

2017-02-12 22:46:37 | 映画
監督 グザビエ・ドラン 出演 ギャスパー・ウリエル、レア・セドゥー、マリオン・コティヤール、バンサン・カッセル、タリー・バイ

 これは、つらいなあ。
 これがカナダ人? カナダに住むフランス語を話す人々、なのか。(私が感じているフランス人とはかなり「人格」が違う。)
 登場人物は5人。主人公以外はしゃべりまくる。ただし、話すことばの「質」は非常に違う。妹、兄、兄の妻、母親。マリオン・コティヤールが兄の妻。彼女だけが「肉親」ではない。そのために「距離」のとり方が違う。「距離」があるために、主人公をいちばん理解しているような感じがする。
 最後のシーン、何か言おうとするが、主人公のギャスパー・ウリエルの唇に指を当てて「しーっ」と身振りで沈黙を指示され、口をつぐむ。彼女だけが、「口をつぐむ」ということを知っている。
 他の家族は口をつぐめない。言わずにはいられない。だから、逆に、うまくしゃべれないという形で会話がぶつかり合う。
 こういう会話、自分の家族とできる?
 私は、できないなあ。したことがないなあ。そのために、なんだかどぎまぎしてしまう。

 まあ、それは置いておいて。

 4人は、なぜ、あんなに感情をむき出しにするのだろう。
 主人公はゲイ。自分が死ぬことをわかっている。それを家族に告げに来た。しかし、言い出せないまま帰っていく、というストーリーなのだが。
 家族は、そしてマリオン・コティヤールは彼の死期が近いということを知っているのだろうか。私は、映画を見ている観客よりも、強く、深く、そのことを知っているように感じてしまった。
 ギャスパー・ウリエルが死ぬとわかっている。12年ぶりに帰ってくる。なぜなんだ。もしかしたら、死ぬのではないか。死ぬ前に別れに来たのではないか。その「予感」のようなものが、ぐいとのしかかってくる。
 それをどう受け入れていいかわからない。
 ギャスパー・ウリエルが何か言おうとすると、それを抑え込んでしまう。言わせたくない。聞きたくないのである。愛しているから、憎んでしまう。
 ギャスパー・ウリエル以上に苦しんでいる。そのために、ことばをうまく発することができない。
 これが、アップの連続でつづく。表情の演技で延々とつづく。
 だんだん、「私は死ぬんだ」というギャスパー・ウリエルの「告白」は聞きたくない、という気持ちになってくる。言わないと、この映画は終わらない。けれど、聞きたくないという気持ちになる。
 それは、だれの気持ち?
 母の気持ち? 兄の気持ち? 妹の気持ち? それとも兄の妻、マリオン・コティヤールの気持ち? 区別がつかなくなる。
 だれに感情移入して気持ちをととのえればいいのか、わからない。
 こういう映画は、私ははじめてである。
 だれに感情移入していいのかわからないのに、そこにあふれる感情にぐいぐいと胸を締めつけられる。

 しかし、マリオン・コティヤールはうまいなあ。肉親ではない、部外者なのに、肉親のなかにまきこまれて、引き裂かれる。引き裂かれながら、その家族をつなぎとめようとする。彼女しか、それができない。だから、そうしなければならないのだが、できない。これを前半は、ひたすらしゃべることで、最後は口をつぐむことで、表現する。

 最後は、「愛の破綻」(愛を失う)を描いているようにも見えるが、「愛の確認」のようにも受け取ることができる。いや、私は「愛の確認」と受け止めた。
 兄も、妹も、母も感情をぶつけて、「家族」がばらばらになる。けれど、それはギャスパー・ウリエルが死ぬことで「家族」が「欠ける」ということに対する「不安」がそうさせるのである。
 マリオン・コティヤールは、「みんな、あなたを愛しているのよ」と言いたい。そのことばを、ギャスパー・ウリエルは「わかっている。言わないでもいいよ」と身振りでさえぎる。そこに、哀しい「和解」がある。彼が死んで「遺体」となって帰って来たとき、家族は悲しみのなかで「ひとつ」になる。(ギャスパー・ウリエルの「遺体」の帰郷は、ラストシーンの小鳥の死骸で暗示される。)「憎しみ」が消える。そうするしかない「家族」という愛。愛の確かめ方。

 こんな苦しみに耐えて生きているのがカナダ人? フランス語を話すカナダ人? (英語を話すカナダ人は違うかもしれない。)
 グザビエ・ドランを、もう一度見直してみないといけないのかもしれない。私は多くのものを見落としていたかもしれない。
 (KBCシネマ1、2017年02月12日)


 
 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
Mommy/マミー [DVD]
クリエーター情報なし
ポニーキャニオン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

内政問題?

2017-02-12 21:31:13 | 自民党憲法改正草案を読む
内政問題?
               自民党憲法改正草案を読む/番外71(情報の読み方)

 2017年02月12日読売新聞(西部版・14版)は「日米首脳会談」一色。どんな成果があったのか、よくわからない。1面に、

「尖閣に安保」明記

 という見出しが躍っているが、私はどうしても、それでは「北方四島は?」と思ってしまう。いまは無人島の尖閣諸島と違い、北方四島は実際にロシア人が住んでいる。これは、このまま放置? 日米安保条約の適用対象外? 北方四島を「棚上げ」にした安保条約なら、尖閣諸島も棚上げにしておいた方がいいのでは、と私は思う。
 外交とはもともと「二枚舌」でおこなうものなのかもしれないが、「二枚舌」の先に中国敵視の世界観があるようで、どうも落ち着かない。

 気になったのは「日米首脳共同記者会見」の次の部分。

質問 昨日の連邦控訴裁判所の判断について質問したい。今回の判断は大統領の権限行使を再考することにつながるのか。今後、どのように対応するつもりか。
首相 我々は世界において、難民問題、あるいはテロの問題に協力して取り組んでいかなければならないと考えているし、日本は日本の役割を今までも果たしてきた。これからも世界とともに協力し、日本の果たすべき役割、責任を果たしていきたいと考えている。
 それぞれの国々が行っている入国管理、難民対策、移民政策については、その国の内政問題なので、コメントは差し控えたい。

 「入国管理、難民対策、移民政策」は「内政問題」と言い切れるのか。どの問題も、最低二国間にまたがる問題である。ひとつの国の問題ではない。二国間にまたがるなら国際問題である。
 さらに国、宗教を基準にして、「入国管理」が行われるならば、それは「人権問題」である。「人権問題」は「内政問題」ではない。「国境」を超える、人間社会全体の問題である。世界はどうあるべきか、という「思想」の問題である。
 「人権感覚」のない安倍は、平気で日本国内において人権抑圧をはじめるだろう。「テロ等組織犯罪準備罪」の新設は、その第一歩だ。諸外国から日本の人権弾圧を揉んだに漉されたら、安倍はきっと「内政問題だ」と言うにちがいない。
 そういうことを感じさせる。

 だいたいアメリカは、アメリカ国外で難民を生み出す行動をしている。外国の「内政」に干渉している。それもアメリカとは隣接してない遠い国である。それが原因で難民を生み出し、またテロも誘発している。「入国管理、難民対策、移民政策」はアメリカの「内政問題」ではない。むしろ「外交問題」だ。
 たまたま今回の質問は「入国管理」についてのものだが、「移民政策」に目を転じれば、それは日本にも響いてくる「外交問題」である。トランプはメキシコ国境に壁をつくろうとしている。アメリカとメキシコのあいだには「車産業」をめぐる「経済問題」があり、そこには日本の企業も深く関係している。ほとんど「日米経済問題」の様相をみせている。だからこそ、安倍はトヨタの社長とも会談したのではないのか。
 「入国管理」は、そのまま「経済管理」(貿易管理)へと流用できる。日本からの輸出がアメリカの経済を破壊している。高い関税をかけることで日本からの輸入を減らせ、という「政策」を打ち出したとき、安倍は、「どのような関税を設定し、自国の経済を守るかは、その国の内政問題なのでコメントを差し控えたい」と言うのか。アメリカが「アメリカ・ファースト」を実現するためにどんな政策をとろうと、それはアメリカの内政問題と言い切るのなら、それはそれでいい。しかし、安倍はそんなことはしない。アメリカの要求のままに「経済政策」をのんでいたら、今度は日本の経済界からそっぽをむかれる。「企業献金」がはいってこなくなる。
 安倍はここでも得意の「二枚舌」を発揮している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする