詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田中紀子「生い立ち」

2017-02-13 09:51:46 | 詩(雑誌・同人誌)
田中紀子「生い立ち」(「豹樹」27、2017年02月01日発行)

 きのう映画「たかが世界の終わり」を見た。そのあとで、田中紀子「生い立ち」を読んだ。

ナナカマドの樹は
そこで芽吹いたときから
葉をつけ
花をつけ
実をつけ
風のかたちに
撓みながら
伸びていった

どこからか
吹かれきた
一枚の枯葉
ナナカマドとあなたの隙間に
漂い落ち
差し出したあなたの手元からするりと
舞いあがる
あなたは
あとを追うことができると
わかった

 淡々とした描写。とても自然に読むことができる。そして、情景をくっきりと「見た」と思った瞬間、「あなたは/あとを追うことができると/わかった」。この三行で私はとまどう。あるいは感動すると言ってもいい。
 「わかった」の「主語」はだれだろう。「あなた」か。それとも情景を見ていた「わたし(田中)」か。さらには、「あなた」が「わかった」ということを「わたし」が「わかった」のか。
 きっと「あなた」と「落葉」を追いかけて去っていってしまう。
 そのことを、「あなた」がわかり、また「わたし」がわかる。「わかった」。
 「あなた」は去っていかなければならない。「できる」は単なる「可能性」ではない。一種の「決定」である。
 それが、「わかった」のである。

 こういうことはよくある。
 「できる」というのは「予感」に似ているが、「予感」はかならず実現しなければならない。実現してしまう。
 「ことば」ではなく「肉体」が直感でつかみとる。
 「手元からするりと/舞いあがる」の「手元」が「肉体」。「するり」は「肉体」が感じ取った絶対的な何かである。

 「たかが世界の終わり」のラストシーン、ギャスパー・ウリエルとマリオン・コティヤールが別れる瞬間の、まなざしの交流(わかりあうこと)を、思い出すのである。



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