八木忠栄「やあ、詩人たち」(「現代詩手帖」2017年02月号)
八木忠栄「やあ、詩人たち」は「折句の試み」。詩人の名前を行頭に組み込んでいる。「しみずあきら」は、こんなふうに。
ただ名前を読み込んでいるだけではなく、清水昶が書きそうなことばが並んでいるところがおもしろい。「死花」ということばのまがまがしさ。否定が含むことばの強さ。
福岡にはかつて「親不孝通り」という通りがあった。大学受験に失敗し、予備校に通う学生がたむろする街。親のすねかじりがたむろする街。しかし、「親不孝」はイメージがよくないというので「親富孝通り」という名前に変えられた。すると、一気に街に活気がなくなった。それで、また「親不孝通り」に戻った。
ことばは不思議なもので、「否定的」な意味を持っている方がひとを惹きつける。「悪の匂い」というのは魅力的なものである。ひとはだれでも、できることなら「悪」をまっとうしてみたいという欲望をもっているのかもしれない。魯迅の作品にも、悪人が処刑される芝居を見て、「こんど生まれてきたときは、必ず悪事をやりとげてみせる」というようなことをいうシーンにぞくぞくするというようなことを書いてあったと記憶している。「悪」は自分にはできない可能性を教えてくれる。
清水昶は、そういうものを「呼吸」するのが得意だった。私には、そういう印象がある。実際に「悪」は実行できないから、ことばで「悪」をまき散らす。未消化の嘔吐の華々しさ。吐瀉物の、強烈な匂いと、まだ形を保っている食べたものの色。そのぶつかり合い。
「激情」の「激」は、そういうものを象徴している。
しかも、これを前面に押し出すのではない。
清水昶はあらわしつつ、隠す。「隠れて」「秘かな」ということばが折り込まれているが、半分は「隠す」。読者に想像させる。で、何によって隠すかというと……。
長いのど
ということばに象徴される「弱い肉体」によって、隠す。表面的には「弱い肉体」しか見せない。けれど、「弱い肉体」の奥に「激情(強い感情)」が動いている。
これが「短いのど」だと「猪首」になり、「弱く」なくなる。「長いのど」ならどこでも絞められる。どこでも切ることができる。「短いのど」だと絞めようにも絞められない。切ろうとしても「肩」の骨がぶつかる。
この「肉体のことば」のつかい方が、清水昶の「肉体そのもの」をあらわしている。
痩せて、うつむき加減の顔。長い髪が、片目を隠すように流れている。詩のことばのあり方と、清水昶の風貌そのものが一致する。
私は詩人という人間を実際に会ったことはほとんどない。清水昶は「ちらっ」と見かけたことがある。詩と詩人は似ていると思う。
池井昌樹は、いまは三木のり平みたいに痩せているが、昔、私が一度だけ清水昶を見たころは、ラーメンを食べるとラーメンの丼がそのまま腹におさまったように腹が膨れた。太っている腹がさらに太くなる。これが池井の詩の形に似ていた。書くことで膨らむ(豊になる)肉体。書かないと衰える肉体、というあり方を具現化していた。
清水昶のことばは「毒」を含んでいて、その「毒」が感情を刺戟し、暴走させる。しかし「毒」は「肉体」をむしばみ、痩せたままだ。そういうことを思った。
だんだん八木忠栄から離れていく。八木の詩の感想ではなく、清水昶の詩と清水昶について書いているような気持ちになってくる。しかし、これはこれでいいのかもしれない。そういうことを書きたくなるくらい、八木の詩は清水昶を取り込んでいるということなのだから。
で、ふと、一度だけ会ったことがある八木忠栄と、この「折句」は「肉体」として似ているか、と考えようとして。どうもあまり似ていないなあ、と感じるのはなぜなのか、と書こうとして……。
あ、私が会ったことがあるのは八木忠栄ではなく、八木幹夫だった。池井昌樹と一緒に飲んだことがあるのだが、あれは八木幹夫だった、と思い出し、呆然とする。そうか、八木幹夫が書けば、こんな具合にはならないかもしれないなあ、というようなことも思う。
こういうことは、詩の感想、詩の評価と、関係があるのかないのか、よくわからない。でも、会ったことがない人よりは、会ったことがある人の詩の方が納得しやすいということはあるかもしれないなあ。
八木忠栄は詩集を読むだけではなく、実際に詩人と会ったことがあるのだろうなあ。どの詩を読んでも、ことばだけではなく、「肉体」を思い起こさせるものがある。私は、そこに登場する詩人を「写真」でしか知らないが。
八木忠栄「やあ、詩人たち」は「折句の試み」。詩人の名前を行頭に組み込んでいる。「しみずあきら」は、こんなふうに。
死花咲きみだれる風情嵐山。
水たまりに隠れてさわぐ激情から
ずらかれ! という秘かな声。
アメリカが燃える。
きみの長いのども、燃えて
乱世をどこまで駆け抜けていくつもり?
ただ名前を読み込んでいるだけではなく、清水昶が書きそうなことばが並んでいるところがおもしろい。「死花」ということばのまがまがしさ。否定が含むことばの強さ。
福岡にはかつて「親不孝通り」という通りがあった。大学受験に失敗し、予備校に通う学生がたむろする街。親のすねかじりがたむろする街。しかし、「親不孝」はイメージがよくないというので「親富孝通り」という名前に変えられた。すると、一気に街に活気がなくなった。それで、また「親不孝通り」に戻った。
ことばは不思議なもので、「否定的」な意味を持っている方がひとを惹きつける。「悪の匂い」というのは魅力的なものである。ひとはだれでも、できることなら「悪」をまっとうしてみたいという欲望をもっているのかもしれない。魯迅の作品にも、悪人が処刑される芝居を見て、「こんど生まれてきたときは、必ず悪事をやりとげてみせる」というようなことをいうシーンにぞくぞくするというようなことを書いてあったと記憶している。「悪」は自分にはできない可能性を教えてくれる。
清水昶は、そういうものを「呼吸」するのが得意だった。私には、そういう印象がある。実際に「悪」は実行できないから、ことばで「悪」をまき散らす。未消化の嘔吐の華々しさ。吐瀉物の、強烈な匂いと、まだ形を保っている食べたものの色。そのぶつかり合い。
「激情」の「激」は、そういうものを象徴している。
しかも、これを前面に押し出すのではない。
清水昶はあらわしつつ、隠す。「隠れて」「秘かな」ということばが折り込まれているが、半分は「隠す」。読者に想像させる。で、何によって隠すかというと……。
長いのど
ということばに象徴される「弱い肉体」によって、隠す。表面的には「弱い肉体」しか見せない。けれど、「弱い肉体」の奥に「激情(強い感情)」が動いている。
これが「短いのど」だと「猪首」になり、「弱く」なくなる。「長いのど」ならどこでも絞められる。どこでも切ることができる。「短いのど」だと絞めようにも絞められない。切ろうとしても「肩」の骨がぶつかる。
この「肉体のことば」のつかい方が、清水昶の「肉体そのもの」をあらわしている。
痩せて、うつむき加減の顔。長い髪が、片目を隠すように流れている。詩のことばのあり方と、清水昶の風貌そのものが一致する。
私は詩人という人間を実際に会ったことはほとんどない。清水昶は「ちらっ」と見かけたことがある。詩と詩人は似ていると思う。
池井昌樹は、いまは三木のり平みたいに痩せているが、昔、私が一度だけ清水昶を見たころは、ラーメンを食べるとラーメンの丼がそのまま腹におさまったように腹が膨れた。太っている腹がさらに太くなる。これが池井の詩の形に似ていた。書くことで膨らむ(豊になる)肉体。書かないと衰える肉体、というあり方を具現化していた。
清水昶のことばは「毒」を含んでいて、その「毒」が感情を刺戟し、暴走させる。しかし「毒」は「肉体」をむしばみ、痩せたままだ。そういうことを思った。
だんだん八木忠栄から離れていく。八木の詩の感想ではなく、清水昶の詩と清水昶について書いているような気持ちになってくる。しかし、これはこれでいいのかもしれない。そういうことを書きたくなるくらい、八木の詩は清水昶を取り込んでいるということなのだから。
で、ふと、一度だけ会ったことがある八木忠栄と、この「折句」は「肉体」として似ているか、と考えようとして。どうもあまり似ていないなあ、と感じるのはなぜなのか、と書こうとして……。
あ、私が会ったことがあるのは八木忠栄ではなく、八木幹夫だった。池井昌樹と一緒に飲んだことがあるのだが、あれは八木幹夫だった、と思い出し、呆然とする。そうか、八木幹夫が書けば、こんな具合にはならないかもしれないなあ、というようなことも思う。
こういうことは、詩の感想、詩の評価と、関係があるのかないのか、よくわからない。でも、会ったことがない人よりは、会ったことがある人の詩の方が納得しやすいということはあるかもしれないなあ。
八木忠栄は詩集を読むだけではなく、実際に詩人と会ったことがあるのだろうなあ。どの詩を読んでも、ことばだけではなく、「肉体」を思い起こさせるものがある。私は、そこに登場する詩人を「写真」でしか知らないが。
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