詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

伊口すみえ「冷蔵庫には昨日の中身が詰まっている」、深沢レナ「病室」

2017-02-02 08:59:08 | 詩(雑誌・同人誌)
伊口すみえ「冷蔵庫には昨日の中身が詰まっている」、深沢レナ「病室」(「プラトンとプランクトン」3、2016年11月23日発行)

 伊口すみえ「冷蔵庫には昨日の中身が詰まっている」はゼリーが食べたいと思い、ゼリーをつくる詩。

ゆっくりと かき混ぜる
混ぜながら 細胞が1つ死んで
(3つか4つかもしれない)
また誰かいい子が その細胞を埋めた

 「細胞」はゼリーの細胞か。かき混ぜている「わたし」の「肉体」の細胞か。よくわからない。「わたしの肉体の細胞」と思うとき、同時に「わたしの生きる世界」の比喩のようにもみえる。「いい子」ということばが、そんなことを考えさせる。

(熱くてなかなか固まらない)
鍋からのぼる湯気が 夜を吸いとり
わたしの中で 細胞はふつふつと
生まれていく

 「死んで」と「生まれていく」は反対のことだから、死んでいくのはゼリーの細胞、生まれていくのはわたしの細胞ということになるのか。
 しかし、これも「比喩」とみることができる。
 「いい子」が現実なのか、比喩なのか。
 たぶん、両方なのだろう。
 こういう言い方はいい加減かもしれないが、断定してしまうときっと違うものになる。あるときはゼリー、あるときはわたし、あるときは誰か。入れ換えながら、漠然とつかみとるのが詩へ近づくことになると思う。

今朝起きると
昨日まで食べたかったものが
もうすっかり食べたくなくなっている
鍋底をかき混ぜた右手は重く
丹念に溶かした欲望は消えて
昨日合った辻褄が
今日はもうちぐはぐだ
ぷるぷるに固まったゼリーを
ひとさじ口に運んでみる
すぐに唾を飲んで 舌に残る甘さを追い払う
スプーンを置き 透明のラップを器にかける
食べたかった私は 誰だろう

 一連目(省略して引用したので、全行ではないのだが)の、ゼリーともわたしとも「世界のあり方(世界で起きていること)」ともとれることが、

昨日合った辻褄が
今日はもうちぐはぐだ

 という「論理」を追いかけることばを中心にして、「わたし」の方にぐいっとしぼりこまれてくる。「辻褄」を考えるのは、「わたし」だから。
 それでも、それがそのままわたしになるわけではなく、「食べたかった私は 誰だろう」(ここだけ、漢字)ということばで、開放される。昨日のわたしと今日のわたしは「同じ」ではない。ゼリーが「桃のジュース」と「ゼラチン」のまざったものであるように、昨日のわたしと今日のわたしが混ざって一つになっている。それを「今日のわたし」と言ってしまうと簡単なのたが、言えない。「肉体」は「ひとつ」なのに、それが「ひとつ」だからといって、わたしが「ひとつ」とは言えない。
 ここでもやっぱり、断定はしないで、入れ換えながら「誰」という形の定まらないままにしておくのがいいのだと思う。
 わたしという存在は「ひとつ」、そう知っているけれど、その知っていることを語ろうとするとわからなくなる。わからないときだけ、しかし「ひとつ」であることが鮮明になる。そういう「矛盾」の美しい拮抗がある。

冷蔵庫の扉を開けると
縮こまっていた冷気が
わたしの真新しい細胞をくすぐった
一番奥にある皿を引き抜き 流しへ捨てて
黄色いゼリーの入った容器を
空いた隙間に 無理やり突っ込む
隣には いつかの食べかけの皿たちが
隙間なく身を寄せ合っている

 散文性の強い描写だが、この散文性が「論理(辻褄につながる動き)」を支えていておもしろい。ほんとうは「飛躍」したいもの、「暴走」したいものが、ことばの奥に動いている。「論理(散文)」ではつかみ取ろうとしてもつかみとれない何かがあるのだが、それをいきなり爆発ささせるのではなく、ていねいに確かめようとしているところが、「矛盾の美しい拮抗」を感じさせる。
 その拮抗を抱えたまま、詩は、こんなふうに終わる。

その表面にピタリとはりついたラップは
どれもこれも白く曇り
皿の中身は
素知らぬ顔で
わたしの冷蔵庫を埋めつくしている

 その皿は、「細胞」だろうか。そうだとすると、わたしは「冷蔵庫」になってしまわないか。
 いや、冷蔵庫をわたしの比喩と考えればいいのか。
 何か、混同してしまう。
 食べ残しの皿、ラップのかかった皿が「細胞」の比喩。わたしは冷蔵庫の比喩。それとも冷蔵庫がわたしの比喩。
 ラップは? 白い曇りは?
 単なる描写?
 そんなことはないなあ。
 全部がわたしであって、わたしではない。わたしではないからこそ、わたし。「細胞」がうまれかわりながら、「全体」はうまれかわらずに「ひとつ」に維持されている。何と何を入れ換えて説明すれば論理的(辻褄)になるのかわからないが、それが「生きる」ということなのか。

 「論理の関節」を外してしまって書くのではなく、「論理の関節」をひねりながら、「肉体」そのものの、内側と外側を「浸透させ合う」という感じの文体が、とても気に入った。
 日常のことばをていねいに働かせているのも気持ちがいい。



 深沢レナ「病室」は認知症の母親に手こずる詩。「蛇が出る」「指輪を看護婦に盗まれた」と訴えかけてくる。何とか寝かしつけて病室を出る。その最終連。

ベッドの脚をするすると伝いリノリウムの床へと降りて
かろうじて窓から入り込む風で開いたドアの隙間から部屋の外に出ていくと
廊下に新品のエタノールの匂いが充満していて大きく息を
すっ
と吸い込むと鼻の奥が痛み
それが気持ちよかった

 最後の「それが」がとてもいい。なくても「意味」は通じる。しかし、ないともの足りない。「痛み」をしっかりと反芻している。そのあとで気持ちが動く。
 そして、ここまで読んできて、それまでの繰り返しが何だったかがわかる。私が要約したように「認知症の母に手こずる」では実感にならないのである。起きたことを、反芻する。ことばにする。そのとき、初めて気持ちになる。そういう詩。長いので最後の数行だけの引用になってしまったが。



コメント
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