人はどんなふうにしてあることばと出会い、それを好きになり、その「好き」が広がっていくのか。自分のことであっても、よくわからない。私は、いろんな著述家のいろんな文体が好きだが、和辻哲郎の『古寺巡礼』を読んでいて、ふと林達夫を思い出した。
薬師寺の薬師如来の作者が誰なのかわからないが、そのことについて、和辻は、あれこれ想像している。(岩波版、全集、123ページ)
当時の文化はむしろ書紀に名を録せられない中流の知識階級によって担われていたと見られるべきである。たとえばわれわれはあらゆる民家に仏壇を造るべき命令が下ったことを知っている。この命令はある程度まで遵奉せられたであろう。そこには盛んな需要がある。供給者もまたなくてはならぬ。もしこの仏壇の最も優秀な例を玉虫の厨子や橘夫人の厨子に認め得るとすれば、仏壇の標準がすでに徳川時代のごとき低劣なものではない。そこで一般の需要に応ずる仏壇製作家もまた相当に有為な芸術家でなくてはならぬ。そしてその数も、少なくてすむまい。そうなるとそこに芸術家の社会が成立してくるであろう。その社会においては大寺の本尊を刻むことは非常な名誉であるに相違ない。そういう社会の雰囲気のなかでは、薬師寺金堂の本尊を造った様なすぐれた作家は天才として通用するのである。この種のことは建築家についても、僧侶についても、あるいはまた学者についても、存在したであろう。そうしてそれらはみな書紀と関わるところがない。
林達夫は、こうした文章、文献的裏付けのない「想像力」だけがことばを動かしていくような文章は絶対に書かないだろう。そういう意味では、これは林達夫とは無縁の文章なのだが、私は、あ、林達夫はここから学んだに違いない、と私は思うのだ。
ある「事実(現象)」がある。そのとき、そこには「社会」がある。「社会」の動きが、その社会で起きた「事実」と関係がある。
和辻は「想像力」で、それを考える。林達夫は、「文献」を探し出して社会を浮かび上がらせる。どちらも「社会」を必要としている。「背景」を必要としている。「背景」(社会)があって、はじめて「事件」が起きる。
私は学校で習う「歴史」が大嫌いだった。年号だとか、人の名前だとか、事件とか、やたらは記憶しないといけない。そんなものは必要なときに本で見ればいいのであって、覚える必要はない、と考えていたからだ。
だから和辻の『鎖国』を読んだときは、非常に驚いた。「事件」ではなく、「社会」が描写されていたからだ。そこにはたとえば、世界一周をしたスペインの船が、大西洋にふたたび帰って来て、スペイン(だったと思う)の船と出合う。そのとき「航海日誌」の日付が違っていることに気がつく。日付変更線がまだ「存在」していなかった時代にも、時間はある。そして正確に「航海日誌」をつけていれば、必然的に日付が違ってしまう。つまり、世界一周した船の「航海日誌」をつけていた人は、無意識のうちに「日付変更線」を発見してしまったのだ。……これは「社会」というよりも、物理(あるいは数学科何か)の問題かもしれないが、「事件」の背後には、誰も意識していなかったような不思議な広がりがあり、それは「絶対的」なものなのだ。
年号や人名、その他の「固有名詞」は、偶然のものにすぎない。必然的なものは、なかなてか記録されない。その記録されない必然こそが大事なのだ。
私が林達夫、和辻哲郎の文章(ことば)に惹かれるのは、ふたりのことばの奥に、「学校教育」では無視される必然に気づかされてくれるからかもしれない。そうした必然は、なかなかことばにされない。しかし、そうした必然こそが、人間を「正しく」している。「日付変更線」に戻って言えば、間違いなく毎日「航海日誌」を書き続けるというような、地道な行為、そこに「正しさ」があるのだ。それは「人間の正しさ」につながる何かだと思う。
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