ビム・ベンダース監督「PERFECT DAYS」(2、三浦友和の演技の問題点)
映画には、それぞれ「テーマ」がある。ビム・ベンダース監督「PERFECT DAYS」の場合、テーマは「空気」、あるいは「空気の変化」である。カメラは、これを丁寧にとらえている。役所広司が目を覚ますとき、それは外の道路を老人が掃いているときである。そのときの音によって目を覚ますのは、その周辺の空気が騒音にまみれていないからである。そして、その日その日の「空気」は、その日その日によって違う。この違いは、映画を見ている私たちにはあまりはっきりとはわからないが、そこに生きている人にとっては「変化している」ことがわかる。役所広司には、それがわかっている。
ソフトを畳むとき、彼は掛け布団を左から右に半分におる。次に縦方向に畳む。ところが一回だけ、この手順が違う。くしゃっと丸める感じになる。そこにも、そのときの「空気」がある。それはそれで、役所広司が「生きている」からである。
まあ、それはおいておくとして。
毎日同じ行動をしている。同じ手順である。もちろん変わるものもある。本を読み終われば次の本を読む。車で移動しながら、きのうとは違う曲を聞く。しかし、寝る前に本を読む、音楽を聴きながら移動するということは変わらない。そして、その本、音楽のように、実は彼の周りで町の「空気」が変わっている。これを、ビム・ベンダースは、まるで変わらないもののように静かに映し出している。わからなければわからなくてもかまわないのである。華麗な映像でアピールする誰彼の映画のように、光の揺らぎ、風の動きを強調したりはしない。ただ、そこにある「空気」をそのまま受け入れて、そのままなのに、そこにほんとうは変化があるということを、感じる人が感じればいいという感じでとらえている。
それはトイレひとつにしてもそうなのだ。役所広司は、便器の見えないところを手鏡で確認している。その見えない部分が「空気」を変えることを知っているからである。彼がそこを丁寧にみがくとき、「トイレの空気」がかわり、それを利用する人の「気持ち」が変わることを知っているのである。私たちは気がつかないで生きているが、トイレを掃除する人によって、変わってしまうのだ。それが「結晶」のようにして輝くのだ、三目並べの「Tank you」である。公衆トイレを利用している孤独なだれかが、ふっと生きをしている。「生きている、こんな私でもだれかと一緒の時間を過ごした」と感じて、新しく一日を始めたのに違いない。
逆のことを想像しみればわかる。トイレがきれいに掃除されていれば、それを当然と思って使うが、汚れていたらいやだなあと思い、他のトイレを探したりする。ときには管理者に苦情をいうかもしれない。いやなときだけ存在を感じ、それにつられて自分自身の発する「空気」も変わってしまうということがあるのだ。その瞬間、他人との「関係」も何かしら変化しているのである。
「空気を読む」というのは、その場の状況を読むというよりも、その場の人間関係を読むということかもしれない。役所広司が境内でサンドイッチを食べる。少し離れたベンチで女性が同じようにランチを食べている。同じことが繰り返され、ふと、役所広司が会釈をする。女はとまどう。そのときも「空気」は変わる。そして、その変わった空気は境内の木や木漏れ日さえも変化させる。
この映画は、そういうものをとても丁寧にとらえた、大変な野心作である。そして、前半はそれが大成功している。
その「空気」が突然、先に書いた三目並べの「Thank you」という返事や、「この木はおじさんの友達なの」という姪のことばになって形を変えるとき、私は、どうしても涙を流してしまう。人は誰でも、口に出してはいわないけれど、「好き」なひと、「好き」なものがある。大切にしたいものがある。そこには「事件」ではなく、ただ「空気」の共有がある。「好き」といっしょに生きたいという願いがある。祈りの「空気」の共有がある。
三浦友和の演じた役は、たしかに難しい役である。彼は自分の癌が転移したというようなことをいう。この映画の中で唯一、はっきりした「行動の理由」がことばで説明される部分である。癌が転移したと説明せずに、「ただ謝りたかった、いや違う、一目あっておきたかった」と、この映画を展開できれば、それはとてもよかったと思う。しかし、三浦友和には、そういう演技はできない。ことばの説明があってさえ、それを肉体として真実化できない。言い換えると「空気」にできない。それが最後の最後、影踏みごっこの無残な演技になっている。「空気」になってしまわないといけないのに、なんともいえない無様な感じになってしまっている。「何かがあって、それでも変わらないものなどあるものか」という役所広司の悲痛な叫びは、「空気」は必ず変わる。つまり人間は必ず変わる。そのとき、世界も(気がつかないかもしれないけれど)変わっているはずだという願いが、三浦友和の下手くそな演技によって「空気」ではなく「ストーリーの説明」に格下げされてしまった。「ストーリー」なんかなくていいのに、「ストーリー」という安っぽい説明が大手を振ってしまうことになってしまった。
ほんとうに、残念。
追加でもう一つ。ラストシーンの役所広司の顔の演技。それはそれでいいが、「空気」という点からいうと、重すぎる。私は、ふいに原田美枝子が主演した「愛を乞うひと」のラストシーンを思い出した。バスの中。原田が思い出を語っている。バスが道路を曲がる。その瞬間、夕日の色がカメラに飛び込んで画面全体の色のトーンが変わる。「心理状況(空気)」の変化と外の「空気」の変化が重なり、私は、やっぱりそこで泣いてしまったのだが、役所広司の出たこの映画では、そういう「空気」の変化が目まぐるしすぎて、なんだか過剰である。前半の抑制された「空気」の変化でしめくくってほしかったと思う。
まあ、こういう変化になってしまったのも、あの三浦友和の演技のせいだなあ、と私は思ってしまう。
役所広司の演じる主人公の妹が高級車で乗り着けてくるまでの部分は、ほんとうに傑作。前半をもう一度見に行ってもいいかなあ、と思っている。ぼんやりと見逃していた「空気」の変化があるだろう。まあ、そういうことを思い出させてくれるという点では、三浦友和は重要な仕事をしたのかもしれない。逆説的にではあるが。三浦友和の演技がなければ、前半がとてもすばらしい傑作、意欲作とは気がつかずに終わったかもしれない。