パソコンがダウンした。電源を切ろうにも、マウスも反応しない。私はたまたま予備のパソコンをもっていたから対応できるが、予備のパソコンのないひとはどうするのだろうか。
ウィルス対策のメーカーと話していてわかったのだが、パソコンの(ハードディスクの)寿命は4-5年くらいらしい。もちろん、こまめなメンテナンスをすれば、もっとのびるのだろうけれど。
しかし、そんなことを熟知してパソコンを買うひとが何人いるだろうか。
そう思ったとき、また、別の風景が見えてきた。
私は年金生活者で、預金もない。こういう人間が、デジタル社会にどう対応すればいいのか。パソコンが動いているあいだはなんとか社会についていけるかもしれない。スマートフォンが動いているあいだは、やはりついていけるかもしれない。
しかし、そういうものがいったん故障したら? 動かなくなったら?
情報から完全に取り残されてしまう。「苦情」も、いまは電話ではなく、メール対応だ。だれに助けを求めるにも、デジタルをとおしてでしかつながらない。
もし、それが不安なら。
ここからだね、私がいいたいほんとうのことは。
常にデジタル危機を「生きた」状態にしておかないといけない。しかも、デジタル情報はどんどん拡大していて、それに対応するためには「新しい機器」が必要である。私は「初代」のiPadをもっているが、それはもう目覚ましにつかっているだけだ。得たい情報は、「初代」では入手できない。アプリが更新されていて、そのアプリに「初代」は対応していない。だから、私は泣く泣く別のiPadを買ったが、これにしたっていつまで「最新アプリ」に対応できるかわからない。
スマートフォンも同じだ。私は2年前、スペインへ旅行したが、旅行するためにアプリが必要だった。それは古いスマートフォンでは対応しない。しかたなく、新しいスマートフォンを買った。それも、いまでは「旧式」だ。
つまり、デジタル情報社会を生きていくためには、実は、常に新しい機器を買わないといけない。
これって、強欲な資本主義のひとつの形ではないのか。新しい製品を買わせ続けるための「方便」なのではないのか。
なんにでも寿命はある。それは知っている。洗濯機だって冷蔵庫だって、いつかは故障する。しかし、デジタル機器ほどのスピードで「更新」を強要されるものはないだろう。
いつだったか、老後(60歳以降)をそれなりに生活するためには、夫婦二人で2000万円の貯蓄が必要といわれたことがあったが、その2000万円に、この「デジタル機器の更新費」は含まれているか。きっと、想定されていないだろう。
貧乏になって、初めて見えてくる「社会の罠」というものがある。そのひとつが、このデジタル機器の寿命(更新の必要性)だ。もし政府が本気で「デジタル化社会」の推進を考えているのなら(つまり、メーカーの言いなりになって、デジタル機器の売り上げで景気回復を狙っているのでないなら)、老人がどうやって「デジタル機器を更新するか」ということを明示しないといけない。
今後、私が体験したようなことは、どんどん起きてくる。パソコンやスマートフォンはもっている。しかし、それが動かない。そうすると、故障したパソコンやスマートフォンをもっているひとは、情報を手に入れることができないし、情報の交換もできない。これは、考えてみれば、高齢者に「政府批判/政治批判」をさせないための、新しい方法なのだ。
新しいデジタル機器を買えない老人は、政治に文句を言えない。「苦情はメールで受け付けています」と、ひとことで拒否されてしまう。そういう世の中が、すぐそこまで来ている。「デジタル格差」というのは、デジタル情報に対応できる「知識/知的能力」があるかどうかだけの問題ではなく、「経済能力」があるかどうかも含めているということを思い出さなければならない。