詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アキ・カウリスマキ監督「枯れ葉」(★★★★)

2023-12-31 12:51:56 | 映画

アキ・カウリスマキ監督「枯れ葉」(KBCシネマ、スクリーン2、2023年12月30日)

監督 アキ・カウリスマキ 出演 アルマ・ポウスティ、ユッシ・バタネン

 アキ・カウリスマキの映画は、いつも情報量が少ない。北欧家具のように、とてもすっきりしている。と書いた後でこんなことを書くと矛盾しているが、この映画は「映画に関する情報」だけは盛りだくさんである。映画そのものも登場するが、たくさんの映画がポスターで登場するし、ラストシーンにはチャプリンの「街の灯」がチャプリンという犬と一緒に登場する。その映画がらみのシーンでは、ふたつのシーンが私は気に入っている。
 ひとつは主役の恋人二人がゾンビが登場する映画を見るのだが、それが終わった後、劇場を出てきた別の観客が「ブレッソンの田舎司祭の日記に似ている」とかなんとか言うのである。私は思わず笑いだしてしまった。そうすると、連れの別の男が「いや、ゴダールのはなればなれ(だったかな?)だ」と言うのである。笑いが止まらなくなった。まあ、人の感想だから、なんだっていいのだが。
 もうひとつは、女の電話番号をなくした男が、映画館の前で女をまってたばこを吸っている。その吸殻がたくさん落ちているのを女が見る。男がここにいたのだとわかる。そのあと、男と女は再会する。そのときの「落ちているたばこの吸殻」がとてもいい。何もいわないけれど、何もかもがわかる。
 イタロ・カルビーノの「真っ二つの子爵」に何やら謎々を残して「決闘の場所(待っている場所)」を示すシーンが出てくる。もし、その謎々を相手が見つけなかったら、謎々が解けなかったらどうなるのか、というようなことを作者は心配していない。同じように、このたばこの吸殻が落ちているときに女がそこを通り掛からなかったら、などということを監督は気にしていない。主人公なら、そこを必ずとおる。そして、その「意味」を理解する、と信じている。実際、映画を見ている観客(私)は、女がここで「あ、男が、ここに来ていた。いつか、ここで再び会える」と思ったに違いないと思い、その後、その「予測どおり」に男と女が出会うのを見るのだが。
 なんというか、この「予測を裏切る笑い」と「予測どおりの安心」の組み合わせが絶妙である。おかしくて、かなしい。かなしくて、うれしい。ちょうどチャプリンの映画のように。しかし、チャプリンの映画のように「ほのぼの/ジーン」という感じではなく、むしろキートンのように「ドライ」なのがカウリスマキの味である。キートンの登場人物が「無表情」のように、カウリスマキの登場人物も無表情である。
 恋愛映画なのに!
 何度も出てくるカラオケシーンが傑作。だれひとり「楽しそうに」歌っていない。「盛り上がる」ということが全然ない。まるで、他人の歌なんかに興味がないという風に、自分が歌っている歌にさえ興味がない、という感じがしてしまう。最後の方に登場する女二人組の、タイトルも何も知らない曲は、これはもしかすると大ヒットするような美しい曲かもしれないと感じるのだが、あまりにもふたりがつまらなそうに歌うので、とてもおかしい。
 私はあまのじゃくなのかもしれないが。
 映画のラストシーン(ハッピーエンド)は、それはそれなりにいいのかもしれないが、男が電車にはねられるシーンで終わってもよかったかなあと思う。ほんとうにはねられたのか、そして死んでしまったのかわからないまま、単に何かが衝突する音が聞こえるというシーンで終わった方が、この映画らしくていいかなあとも思う。(実際、私はそこで映画が終わったと思い、そのあとまだ映画がつづいたので、かなりびっくりしてしまっのだが。)やっと実りそうな恋、それに出会ったふたりなのに、その恋に裏切られてしまう。ただ、あのとき、ふたりは出会った。こころが動いた。秋の枯れ葉が散るときのように、最後の輝きを見せた。その記憶が残っている、という感じの映画だったら、私はもっと感動したかもしれない。

 


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 「パーフェクトデイズ」(3)

2023-12-31 12:00:53 | 映画

 ブログの読者から「三目並べ」の、どこがそんなによかったのか、と質問された。私はまず、こう質問してみた。「同じ公衆トイレをつかうことがある?」「ない」。これが、まず一番のポイントである。同じ公衆トイレを定期的に(毎日)つかうひとなどいないだろう。しかし、三目並べの紙をトイレの隙間に最初に挟んだ人は、そのトイレを定期的につかっている人である。とても孤独な人だと思う。トイレとは、人が孤独になれる場所だが、町中の(公園の?)公衆トイレをつかう人は、何が理由なのかわからないけれど、ともかく孤独な人だと思う。その人が、ふと思いついて「三目並べ」のゲームを誘いかけた。それに役所広司が答えた。
 この交流は、互いに誰が相手であるか知らない。わかるのは相手が必ずそのトイレに来るということだけである。「私はここにいた」(私はここにいる)ということを、ゲームを通して知らせあう。それは同時に「私はあなたが生きていることを知っている。一緒に生きている」と伝えることでもある。名前も知らない。顔も知らない。しかし、生きている。世界には、そういう人の方が多いのである。ガザで何人もの人が殺されていく。そのひとの名前も顔も、私は知らない。しかし、その人たちには名前があり、顔があり、生きていた。そのことを私は忘れている。世界には、名前も顔も知らない人が大勢生きている。そのことを私は忘れている。しかし、三目並べを始めた人も役所広司も、その「誰か」を短い時間だけれど、決して忘れない。一緒に生きたことを忘れない。そして、三目並べが終わったとき「ありがとう」とことばを残す。そのつながりが、とてもいい。世界はつながっている。つながれば、そのことが必ず世界を変えていく。たとえば、このつながりがパレスチナとイスラエルの戦争を終結させる直接の力になることはない。そうわかっているが、私は、このつながりが戦争を終結させるとも信じたいのである。人が触れ合えば、人がつながれば、世界は変わっていく。そのとき「ありがとう」ということばが自然に生まれてくれば、とてもうれしい。
 少し言いなおしてみる。
 三目並べを始めた人が誰なのか、どんな人なのか、まったく知らされないのがとてもいい。何も知らなくても、その人の「動き」を見れば、私たちはその人がどんな状態なのかわかる。道で誰かが腹をかかえて、うずくまっている。あ、からだの調子が悪いのだ。他人なのに、そのことが、わかる。そうわかったとき、人は、どうするか。思わず声をかける人もいれば、知らん顔をして通りすぎる人もいる。役所広司は、思わず声をかける人間である。そういう「共感力」をもった人間である。そこにはただ「共感力」だけがある。そして、その「共感力」というのは、精神とか、心とかというものではなく、何か「肉体」そのものの反応なのである。トイレだから、どうしても、精神とか、こころではなく、「肉体」ということばが動いてしまうのだが、その「肉体」が「肉体」に出会ったとき、「肉体」が反応する。「反射神経」みたいなものである。「反射神経」だから、そこには「正直」がある。
 この「正直」は、この映画では、たとえば役所広司が立ち寄る居酒屋(立ち飲み屋?)でも描かれている。役所広司は何も注文しない。しかし、役所広司がいくと、いつも決まったものがすぐに出てくる。もう、ことばはいらない。ことばなしで、すべてが通じる。そういうとき、そこには「正直」がある。私の書いている「正直」の定義は、ふつうの人が考えている「正直」とは違うかもしれない。しかし、私は、それをあえて「正直」というのである。ことばをつかわなくても理解し合える何か。理解し合うのは、何も飲み物、食べ物だけではない。そこに生きている人間の「人格」(肉体)を認め合うのである。
 それはトイレの三目並べそのものではないだろうか。三目並べは「決着(勝敗)」のないゲームである。必ず「引き分け」で終わる。そういう意味では「無意味」である。でも、「勝敗」が世界を支配するとしたら、それは何か「動き」そのものが間違っている。「勝敗」にならない動きが大事なのだ。ただ、いっしょに生きている。そして、生きていることを尊重する。顔を合わせなくても、名前を知らなくても、「そこにいる」人を尊重する。「あいさつ」されれば、「あいさつ」を返す。あの三目並べは、そういう「あいさつ」のようなものだ。孤独なもの同士が出会い、あいさつする。そのとき、世界が一瞬だけかもしれないが、ぱっと明るく変わる。明るく変わったことを、他の人は知らない。しかし、役所広司は知っている。だから、「ありがとう」を読んで、彼の顔が輝く。
 で、またまた三浦友和の出で来るシーンへの不満なのだが。
 石川さゆりと三浦友和が抱き合っているのを役所広司が見る。なんだか、様子がすこしおかしい。ふつうの再会の喜びではないことがわかる。同時に、役所自身も、はっきりとではないが何かを感じる。そこから突然ラストの、役所広司の泣き笑いの長回しになってもよかったのではないか。何か起きたのか、誰も知らない。真実はわからない。それでいいのではないだろうか。三目並べの相手が誰かわからない。それで十分なように、人が出会って分かれていく。そのときの喜びと悲しみ。それで十分なのではないだろうか。
 「答」は、あるとき、どこか知らないところから突然あらわれるものだろう。それは役所広司が寝る前に読んでいる本のようなものである。ふと出会ったことば、それが読者のなかで、遠くの何かを呼び寄せる。ああ、そうだったのかと思う。それが「正解」かどうかは、どうでもいい。「正解」などない。ただ、何かを求める「気持ち」が、そのときそのときの「答え」を作り出す。三目並べのように。

 この映画には、ほかにもおもしろいシーンがたくさんある。役所広司が部屋を掃除するとき、新聞紙をクシャクシャにしてバケツの水で濡らす。それを畳の上に散らばす。そのあと、箒で掃き集める。埃を舞い上がらせずに集める工夫である。昔なら茶殻でやったことである。ここには、まあ、昔からの知恵が引き継がれているのだが、その知恵の奥には、「ものを最後までつかいきる」という思想が生きている。新聞紙を捨てる、茶殻を捨てる。でも、その前に、その新聞紙、茶殻にひとばたらきしてもらう。それは役所広司が新刊本ではなく古本を買うところ、そして読むところ、あるいは昭和のカセットテープを聞くところにもあらわれている。つかえるまでつかう、どうつかえるか考える。それは三目並べにも通じるかもしれない。トイレに捨てられていた紙屑、と思うか、それともそこには何か、新しい「生き方」があるかもしれないと思うか。それが何になるか、わからない。けれども、なんとか「つかってみる」。それは、なんというか、「新しい自分自身の生き方」を広げることでもあると思う。
 生きているということは、なんとすばらしいことだろうと実感させてくれる映画であった、ともう一度書いておく。

 


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする