詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田原「梅雨」(つづき)

2006-01-18 00:58:12 | 詩集
 きのう1月16日に読んだ田原の詩が、まだ気にかかる。気にかかって落ち着かない。

 田原「梅雨」の不思議さはどこから来ているのだろうか。繰り返し読んでみたがわからない。そこに書かれていることばは日本語である。辞書を引かなければわからないことばなど、どこにもない。全部理解できる。理解できたつもりになる。しかし、ほんとうはわかっていない。ただ魅了される。

風にたわむ傘の上で口ごもる雨の滴りは

 この「口ごもる」の響きのやわらかさ、懐かしさは、こころを切なくさせる。
 しかし、その他の行は、私の日本語を洗い流してしまう。私の見ていたもの(日本語を通して見ていたもの)を消し去ってしまう。
 林嗣夫は「ぼくの目玉はやっとぼくの目玉になった」(『定本 学校』)と書いたが、私の目玉は私の目玉になることを迫られている感じがする。私自身の肉眼になれ、と迫られている感じがする。
 こんな不思議な印象は初めてである。

 田原という詩人は、もしかすると日本人ではないのかなあ、日本とは違うところで日本語を身につけた人なのかなあ、と思う。

*

 現代詩手帖1月号に、日本人ではない人の詩が載っている。W・N・ハーバード「真夏の夜の灯台」(熊谷ユリヤ訳)。

冬。高台の古い灯台が、潮風の言葉と
光の言葉を話す季節。すすり泣く
四角い塔の胴体から、一枚、また一枚と、
寒さの膜を脱いでゆく。

 「寒さの膜」という表現に私はびっくりする。えっ、そんなふうにことばは動かせるのかと驚く。だが、これはあまりに日本語と異質すぎて、日本語以外のことばを日本語に翻訳したものだと思い、奇妙な安心感も覚える。
 (私が書くなら「寒さの衣を脱いでいく」になるかなあ、と思ったりする。)

 田原のことばは、そういうものとは違う。まったく異質の文化のことばを翻訳したものとは違うような感じがする。熊谷訳のW・N・ハーバードの詩には、翻訳詩に共通する何かがあって、それが「寒さの膜」というようなことばにさえ、一種の安心感を与える。
 ところが田原の「垂直に落下する梅の香り」にはそういう安心感はない。
 どこかで何かが通じているはずなのに、その何か、私と田原を区別し、同時につなぐ何かが見えない不思議さがある。

 こう書きながら、私の書いている文章は、あ、これは感想でも、批評でも、なんでもないなあ、という気持ちになる。何もまとまらない、単なるメモ、私だけの「日記」のなかのメモ、という気持ちになる。

垂直に落下する梅の香りは梅雨に濡れない

 この行を反芻するとき、私は田原の見ている風景を見ているのだろうか。見させられているだろうか。私自身がそれまで見てきたものを否定されているだろうか。何が何だかわからないが、私が見てこなかったものを見ている一人の人間がいる、という驚きになぜか震えてしまう。

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