磯崎憲一郎「終の住処」(「文藝春秋」2009年09月号)
芥川賞受賞作。ひさびさに、あ、おもしろい芥川賞作品だと思った。文章がいい。ていねいで、落ち着いている。
ストーリーは、あって、ない。ストーリーはどうでもいいのである。
ここに磯崎の書こうとしていることが集約している。「永遠の時間、過去・現在・未来いずれかの時間のなかで確実に起こること」は、人間は予め知っている。単純化していうと、人間は産まれ、死ぬ。これは、誰でもが知っている。そして、その間には、恋愛があり、結婚があり、ということも誰もが知っている。もちろん、そういうことをしない人もいるけれど、人の一生には、知らないことなど起きない。知らないことは、起きても、それがなんであるかはわからない。
たとえば、9・11の同時テロ。起きてしまったことについて、私たちは何事かを知っているが、それが自分の生活とどんなふうにつながっているかは、誰も知らない。いや、わかっている人もいるかもしれないが、わからない人がほとんどである。どうして飛行機が何機も乗っ取られ、それが凶器になったのか。その劇的な変化と、自分の生活をつないで、生活のこととして語れる人は、誰もいないと言ってしまってかまわないくらいに、とても少ないはずである。
ところが、そういう特別なことではなく、日常のことは、人は誰でも、何かが起きる前から知っている。この小説のテーマである結婚というか、男女のなかのことなど、特にそうである。男と女は出会ったときから、次に何が起きるかを知っている。知っていて、結婚するのである。そして、「やっぱりなあ」というような後悔(?)を抱きながら生きていく。(もちろん、逆に、「かならず夢がかなうとわかっていた」ということもあるのだが。)
この、やっぱりなあ、というとき、その「やっぱりなあ」の向こう側(?)には、ことばにならないたくさんの思いがある。「やっぱりなあ」と思った瞬間、その思いの中に一気に結びついてくる過去の記憶というものがある。その結びつき方は、ある意味では、非論理的で、いい加減なものだが、突然、過去が現在と脈略をもち、同時に未来をも支配するということが、これもまた、ことばにできないくらいの「ひらめき」で頭のなかを駆け回る。
これをことばにするのは、とても難しい。そこでは時間が収縮したり、逆にとてつもなく延びたりする。ことばにすると、どうしても非論理的で、くだくだとした愚痴(?)のようなもの、きいていてうんざりするようなもの、ぞれでどうしたの、といいたくなるようなものになってしまう。
こういうことを、磯崎は、ていねいに書いている。
たとえば。
遊園地に妻と子供と一緒に遊びに行った。おもしろいことは何も起きない。さあ、帰ろうというときになって、
妻のことばをきっかけに、男は思いめぐらしている。一度は、「きっとそうだ」と思い、すぐに、その間違いに気がついてそれを否定している。ここでは、男の思い、錯覚がていねいに再現されているだけで、現実には何も起きていない。こういうことを、磯崎はていねいに書くことができる。
こうしたことがら、いろいろな思い込み、錯覚、しかも、それは一瞬のことなので、現実にはなんの影響も与えないようなことは、いつでも人の思いの中にしまい込まれていて、ことばになることはない。そういう、ことばにならなかったことばを、すくいだし、小説の中にきちんと整理している。
誰もが知っている、誰もが思っている--けれど、まだ誰も書かなかったことを書く。それが文学のおもしろさだ。醍醐味だ。
芥川賞受賞作。ひさびさに、あ、おもしろい芥川賞作品だと思った。文章がいい。ていねいで、落ち着いている。
ストーリーは、あって、ない。ストーリーはどうでもいいのである。
妻はもう何年も前から知っていたのだ。「別に今に限って怒っているわけではない」おそらく妻は、俺と結婚する以前から結婚後に起こるすべてを知っていた、妻の不機嫌とは、予め仕組まれた復讐なのだ。妻は俺に復讐するために結婚した、しかし復讐せねばならないだけの理由、つまり俺の浮気は、じっさいには結婚した後に起こった。--この論理はあきらかにおかしい、因果関係が、時間の進行方向が反転している。しかし永遠の時間、過去・現在・未来いずれかの時間のなかで確実に起こることならば、ひとりの女といえどもそれを予め知ることが不可能などと誰がいえるだろう?
ここに磯崎の書こうとしていることが集約している。「永遠の時間、過去・現在・未来いずれかの時間のなかで確実に起こること」は、人間は予め知っている。単純化していうと、人間は産まれ、死ぬ。これは、誰でもが知っている。そして、その間には、恋愛があり、結婚があり、ということも誰もが知っている。もちろん、そういうことをしない人もいるけれど、人の一生には、知らないことなど起きない。知らないことは、起きても、それがなんであるかはわからない。
たとえば、9・11の同時テロ。起きてしまったことについて、私たちは何事かを知っているが、それが自分の生活とどんなふうにつながっているかは、誰も知らない。いや、わかっている人もいるかもしれないが、わからない人がほとんどである。どうして飛行機が何機も乗っ取られ、それが凶器になったのか。その劇的な変化と、自分の生活をつないで、生活のこととして語れる人は、誰もいないと言ってしまってかまわないくらいに、とても少ないはずである。
ところが、そういう特別なことではなく、日常のことは、人は誰でも、何かが起きる前から知っている。この小説のテーマである結婚というか、男女のなかのことなど、特にそうである。男と女は出会ったときから、次に何が起きるかを知っている。知っていて、結婚するのである。そして、「やっぱりなあ」というような後悔(?)を抱きながら生きていく。(もちろん、逆に、「かならず夢がかなうとわかっていた」ということもあるのだが。)
この、やっぱりなあ、というとき、その「やっぱりなあ」の向こう側(?)には、ことばにならないたくさんの思いがある。「やっぱりなあ」と思った瞬間、その思いの中に一気に結びついてくる過去の記憶というものがある。その結びつき方は、ある意味では、非論理的で、いい加減なものだが、突然、過去が現在と脈略をもち、同時に未来をも支配するということが、これもまた、ことばにできないくらいの「ひらめき」で頭のなかを駆け回る。
これをことばにするのは、とても難しい。そこでは時間が収縮したり、逆にとてつもなく延びたりする。ことばにすると、どうしても非論理的で、くだくだとした愚痴(?)のようなもの、きいていてうんざりするようなもの、ぞれでどうしたの、といいたくなるようなものになってしまう。
こういうことを、磯崎は、ていねいに書いている。
たとえば。
遊園地に妻と子供と一緒に遊びに行った。おもしろいことは何も起きない。さあ、帰ろうというときになって、
「せっかく来たのだから、観覧車にだけは乗っておきましょう」そのとき妻は、たしかに丘の頂上を見上げていた、しかしことばは別の遠い場所で話された過去の言葉のように、遥かに聞こえた。--そうか、しまった! もしかしたらこの観覧車は家(うち)の窓からでも、夕焼けのオレンジ色の稜線からわずかに飛び出る小さな黒い半円形として見えているのではないだろうか? きっとそうだ、そうに決まっている。結婚して、新居を構えてからの六年間というもの毎日、妻は遠くにこの観覧車が見えることだけを支えにして生活してきた、いつも妻が見ていた遠くの一点とは、まさしくこの観覧車にほかならないのではないか! --だが落ち着いて、冷静になって考え直してみれば、彼の家の窓が開いている南側は、この遊園地のある町とは真反対の方向だった、観覧車などは彼の家から見えるはずがないのだ。
妻のことばをきっかけに、男は思いめぐらしている。一度は、「きっとそうだ」と思い、すぐに、その間違いに気がついてそれを否定している。ここでは、男の思い、錯覚がていねいに再現されているだけで、現実には何も起きていない。こういうことを、磯崎はていねいに書くことができる。
こうしたことがら、いろいろな思い込み、錯覚、しかも、それは一瞬のことなので、現実にはなんの影響も与えないようなことは、いつでも人の思いの中にしまい込まれていて、ことばになることはない。そういう、ことばにならなかったことばを、すくいだし、小説の中にきちんと整理している。
誰もが知っている、誰もが思っている--けれど、まだ誰も書かなかったことを書く。それが文学のおもしろさだ。醍醐味だ。
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