江里昭彦「脱じぱんぐ」ほか(「左庭」12、2008年12月15日発行)
江里昭彦「脱じぱんぐ」は俳句。10句のなかから2区。
「接吻」と「猫舌」のとりあわせが意表をつかれる。「二枚かな」の念押し(?)も楽しい。
先日読んだ武田肇や高岡修の俳句は、私には古すぎる印象があって、どうも落ち着かない。「文学」のなかから「文学」を蒸留しているような感じがして、透明ではあるけれど、その透明さがちょっと不潔な感じがするのである。
江里の句からは、そういうものを感じない。「接吻」ということばは、もういまの日本人はつかわないけれど、そういう古さに、「猫舌」という、ほんとうに限られた状況でしかつかわれないことばがぶつかると、あ、日本語っていいなあと思う。「キス」と「猫舌」は音があわないけれど、「接吻」と「猫舌」は音があう。耳の中で音楽になる。その音楽は、華麗なメロディー、かろやかな旋律というものではなく、あ、こういう音楽があったのか、という驚きの響きである。それは、驚きの方が大きくて、まだメロディーにはならない。メロディーになる前の、あらゆる音が一瞬消える瞬間の、生まれる前の音楽である。
ここにも不思議な発見がある。「文学」から「文学」を蒸留してくるという知的技巧ではなく、江里自身の肉体でつかみ取ってきた世界がある。
特に「ひく」という優雅ではない音いい。「弾く」と漢字で書くと窮屈だが「ひく」というひらがなが、とてもやわらかくて、肉体を刺激してくる。「腿」は「もも」と読ませるのかなあ。私なら「また」と読ませたい。「もも」だと音が暗い。「また」だと「「ABARERUKARAMATANIHASANDEHIKUGAKKI」と「あ」の響きが明るくなる。もちろん、「もも」と暗い音を交えることで音の領域が広がってより音楽っぽいという感想もあるだろうけれど……。
*
江口は「祥月命日」というエッセイも書いている。父が亡くなり、共同墓地の一角を継承するための手続きをした、と書いている。共同墓地の様子を、思い描いている。その部分。
「家ごとの表情はさまざまである。」がとてもいい。墓の様子なのだが、単に墓の様子ではなく、生きて暮らしている現実の「家(家庭)」の姿が浮かび上がってくるところがいい。あ、そうなのだ。どんなときでも、人間は死んでしまった人間ではなく、いま、生きている人間のことを思い浮かべるのである。死んでしまった肉親よりも、生きている、赤の他人のことを思い浮かべるのである。
これはまた、そんなふうに江里もみられるということを意味している。だから、先の引用のあとには、次の文がくる。
笑ってはいけないのだろうけれど、私は笑ってしまう。この笑いは、生きている人間に対する共感である。生きているって、おかしい、という共感である。
江里の俳句には、どこかそういう「気分」がある。生きている人間をみつめて、感じていることを書いている--そういう安心感がある。
*
岬多可子「あてどなく」は「漢字」を題材に書きはじめている。
文字で始まった世界は、どうしても「頭」のなかで動くので苦しい。「不穏」「不安」も肉体を刺激せず、「頭」をちくちくする。「ふあん」「ふおん」も、見紛うほど似ている、ということなのかもしれないが、こういうことばの動きは、私には窮屈に感じられる。
どんなふうにして岬は「頭」からことばを解放するか。3連目。
うーん、岬は、縄をなったことがあるのかな? そういう経験があって、「なわれてまよう縄は/ みずからの重みに垂れ下がる」と書いているのかな?
「頭」からことばを解放しようとして「文学」のなかへ入って行ってしまっているような気がする。ちょっと、苦しい。
ここから、岬は、もう一度ことばを動かす。
「蔓」を捨て去って、死んだ蝉の腹部にまでことばの「蔓」をのばして行って、「夢」だけを救い出している。この「夢」は、しかし、悪夢だね。悪夢にたどりつくことで、 1連目の「不穏」「不安」もやっと落ち着く。でも、こういうことばの運動は苦しいねえ。つらいねえ。楽しくないねえ。
もっと肉体を感じさせることばが読みたい。
江里昭彦「脱じぱんぐ」は俳句。10句のなかから2区。
接吻につかう猫舌二枚かな
「接吻」と「猫舌」のとりあわせが意表をつかれる。「二枚かな」の念押し(?)も楽しい。
先日読んだ武田肇や高岡修の俳句は、私には古すぎる印象があって、どうも落ち着かない。「文学」のなかから「文学」を蒸留しているような感じがして、透明ではあるけれど、その透明さがちょっと不潔な感じがするのである。
江里の句からは、そういうものを感じない。「接吻」ということばは、もういまの日本人はつかわないけれど、そういう古さに、「猫舌」という、ほんとうに限られた状況でしかつかわれないことばがぶつかると、あ、日本語っていいなあと思う。「キス」と「猫舌」は音があわないけれど、「接吻」と「猫舌」は音があう。耳の中で音楽になる。その音楽は、華麗なメロディー、かろやかな旋律というものではなく、あ、こういう音楽があったのか、という驚きの響きである。それは、驚きの方が大きくて、まだメロディーにはならない。メロディーになる前の、あらゆる音が一瞬消える瞬間の、生まれる前の音楽である。
暴れるから腿にはさんでひく楽器
ここにも不思議な発見がある。「文学」から「文学」を蒸留してくるという知的技巧ではなく、江里自身の肉体でつかみ取ってきた世界がある。
特に「ひく」という優雅ではない音いい。「弾く」と漢字で書くと窮屈だが「ひく」というひらがなが、とてもやわらかくて、肉体を刺激してくる。「腿」は「もも」と読ませるのかなあ。私なら「また」と読ませたい。「もも」だと音が暗い。「また」だと「「ABARERUKARAMATANIHASANDEHIKUGAKKI」と「あ」の響きが明るくなる。もちろん、「もも」と暗い音を交えることで音の領域が広がってより音楽っぽいという感想もあるだろうけれど……。
*
江口は「祥月命日」というエッセイも書いている。父が亡くなり、共同墓地の一角を継承するための手続きをした、と書いている。共同墓地の様子を、思い描いている。その部分。
しばしば参る者があって掃除がゆきとどいている所、供花が枯れたままの所、墓石のめぐりが雑草だらけの所、区画を所有しても墓石を購入する資金がないのか、いつまでたっても朽ちた卒塔婆が立っているところなど、家ごとの表情はさまざまである。
「家ごとの表情はさまざまである。」がとてもいい。墓の様子なのだが、単に墓の様子ではなく、生きて暮らしている現実の「家(家庭)」の姿が浮かび上がってくるところがいい。あ、そうなのだ。どんなときでも、人間は死んでしまった人間ではなく、いま、生きている人間のことを思い浮かべるのである。死んでしまった肉親よりも、生きている、赤の他人のことを思い浮かべるのである。
これはまた、そんなふうに江里もみられるということを意味している。だから、先の引用のあとには、次の文がくる。
いずれ私も、いろんな意味で試されることになるのだな、と思う。
笑ってはいけないのだろうけれど、私は笑ってしまう。この笑いは、生きている人間に対する共感である。生きているって、おかしい、という共感である。
江里の俳句には、どこかそういう「気分」がある。生きている人間をみつめて、感じていることを書いている--そういう安心感がある。
*
岬多可子「あてどなく」は「漢字」を題材に書きはじめている。
<蔓>が<夢>と見えて
延びていった先端が
支えを求めてさまよっているのは
不穏で不安で
文字で始まった世界は、どうしても「頭」のなかで動くので苦しい。「不穏」「不安」も肉体を刺激せず、「頭」をちくちくする。「ふあん」「ふおん」も、見紛うほど似ている、ということなのかもしれないが、こういうことばの動きは、私には窮屈に感じられる。
どんなふうにして岬は「頭」からことばを解放するか。3連目。
求めて かなわなければ
<蔓>は<蔓>と
<夢>は<夢>と
絡み合うしかなく
●われて迷う縄は
みずからの重みに垂れ下がる
(谷内注・●は「糸」偏に、「陶」のツクリの部分を組み合わせて漢字、「なう」)
うーん、岬は、縄をなったことがあるのかな? そういう経験があって、「なわれてまよう縄は/ みずからの重みに垂れ下がる」と書いているのかな?
「頭」からことばを解放しようとして「文学」のなかへ入って行ってしまっているような気がする。ちょっと、苦しい。
ここから、岬は、もう一度ことばを動かす。
蝉がつながったまま堕ち もう秋
腹部 黒く腫れた塊から
こほこほと
ふきこぼれてくるのだろうか
夢って
「蔓」を捨て去って、死んだ蝉の腹部にまでことばの「蔓」をのばして行って、「夢」だけを救い出している。この「夢」は、しかし、悪夢だね。悪夢にたどりつくことで、 1連目の「不穏」「不安」もやっと落ち着く。でも、こういうことばの運動は苦しいねえ。つらいねえ。楽しくないねえ。
もっと肉体を感じさせることばが読みたい。
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