(この文章に登場する「ビジター」から、「コメントの引用は著作権の侵害である。削除しろ。プロバイダーやページ運営会社にも削除要請をしている」旨の発言がありました。
しかし、「ビジター」のコメントに反論を含めた意見を書くためには、引用は不可欠なものです。正確に引用しなければ、「コメントを改変された」と抗議がくるでしょう。
いったんコメント欄で対話をしておきながら、「コメントを引用するな」というのは明らかな矛盾であり、言論の暴力です。
コメントへの反論を拒むなら、最初からコメントをしなければいいだけのことです。プロバイダー、サイトの運営会社がどういう措置をとるのか見守りたいと思います。
なお、この「ビジター」は、私に対して「気狂い」「精神年齢が小学生レベル」「頭のおかしい左翼カルト」などの暴言を書き続けています。そのことを、お知らせしておきます。)
*******************************************
Face bookの知人、Hayaseさん(https://www.facebook.com/akira.hayase.9)が、こんなことを書いていた。
AIが人間の頭脳を上回り、AIロボットが人間の身体を上回り、人間の働く場所が失われた時に、果たして労働以外に人間の社会的存在理由を見出し得るのであろうか。
これは重大な問題提起だと思う。ビジターとの対話のなかで、
人間の社会性を根拠づけ得るものが、労働以外にあり得るのでしょうか。それが問題。
とも補足していた。私は、Hayaseさんの考え方に賛成である。人間を根拠づけるものに、労働(働くこと)はとても重要である。
これに対し、「あるビジター」が、こう反論していた。
労働以外でも人生は喜びに溢れています。道端に咲いてる名も知らぬ花の可憐な美しさ、頬を撫でるそよ風の爽快感、愛する人と生きる喜び…まさに「生きてるだけで丸儲け」って感じですw なんでそんなに起こってもいないことを想像して、悪い方に悪い方に考えるのか、僕には理解できませんが、「考えるな、感じろ!」と言いたいですね。
私は、彼の考え方には同意できず、こう書いた。
働く、というのは、人間関係の基本ですね。働いているときは、あまり実感がなかったけれど、年金生活になって痛切に感じる。働くということは、ことばを使うのと同じ。ことばなしに考えることはできない。働かなくというのは、ことばを失うということに等しい。どんな働きをするかで、人間の幅が決まる。それを乗り越える手段にことばがあるにしても、基本の労働がなければ、ことばの土台を失う。
以後、こういうやりとりがつづいた。(改行は省略)
あるビジター「それはあなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ。仕事中毒で、それ以外が空っぽ。よく「濡れ落ち葉」などと揶揄されたりしますが、仕事を引退したら妻の後をついて回るか、テレビを見るぐらいしかすることがない。確かにそうなったらあわれかもしれません。その点は一般に女性の方が逞しいですね。そういう個人の体験を「誰もがそうであるはずだ」と一般化するのは、あまりにも視野が狭すぎるのではありませんか?」
谷内「そうですか? 私のことをよくご存知なんですね。私は妻のあとをついて回ってもいませんし、テレビも見ません。「濡れ落ち葉」と言われたこともありません。いろいろなことをしていますが、仕事をしていたときとは印象が違います。出会う人との、接触の形が違います。」
あるビジター「ああ、失礼。前の文章は「仕事中毒で…」以降は谷内さんのことを言ってるんじゃなくて、一般論です。「このようなパターンに陥ってる人を『濡れ落ち葉』などといいますよね」と言うことで、あなたがそうだと言ってるんじゃありません。あなたのことを言ってるのは「それはあなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」までです。だいたい、あなたに会った事もないのにそんなことまでわかるはずもないですよね(^^;; ですが誤解されても仕方のない書き方だったと思います。その点は失礼しました。「お金のやり取りがある仕事じゃなくても、人生を豊かにする方法なんていくらでもある」と言う僕の基本的な意見は変わりません。この世界からお金というものが消滅したらどんなにいいだろう、とすら思いますよ。
参考:https://www.youtube.com/watch?v=yq4_FgHbu4U」
谷内「金がある、ないか、という問題と、仕事をする、しないかは、別問題でしょう。
金が少なくても有意義に生きることはできると思いますが、仕事をしない(仕事がない、働かない)で有意義に生きることができるかどうか、私は疑問に思っています。」
あるビジター「???一般に「働いてお金をもらうのが仕事」ですよね?「お金を受け取らずに働く」のは仕事ではなく奉仕活動、ボランティア、または趣味ですよね?もしかして「ボランティア、趣味の活動」も含めて「仕事」と言ってます?「仕事」の定義が違うんじゃ、話が噛みあうわけないよw 僕は「お金をもらう活動だけが仕事、ボランティアや趣味の活動は仕事ではない」という定義で話をしています。そうでなく「報酬があろうがなかろうが、自分のしたいことをすればなんでも仕事」だというなら、僕の言ってることと谷内さんの言ってることに最初から違いはないですよ。僕が言ったことに対して「疑問に思う」必要もないでしょう? また「AIに仕事を奪われる」ことを恐れる必要もありません。報酬がなくてもいいなら、たとえ効率が悪くても、AIがやったほうが出来が良くても、自分がやりたいことをなんでも勝手にやれば、それが生きがいになる。何か問題がありますか? 考えれば考えるほど、「AIが普及すればするほど理想社会に近づく」としか思えませんが。「誰もやりたがらないけど、誰かがやらなければならない仕事」はAIやロボットに任せればいいですし。嘆く必要などどこにもないでしょう?」
「濡れ落ち葉」以降は、私への批判ではない。しかし、「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」は私への批判だと言っている。何を知っていて、私が仕事以外のことをしてこなかったと言っているのか、私はやはり知ることはできないが。こういう批判的発言を根拠も示さず言ってしまうのは、人間観の違いといえば違いですむのだけれど……。
私への批判は別にして(特に反論したいとも思わないけれど)、私は、あるビジターの発言、ボランティアについてふれた部分は、活動をしている人に対してたいへん失礼だと思う。ボランティア活動をするということと、そのひとが日常どういう仕事をしているか、どんなふうにして仕事をとおして「ひと」をつくっているかということに対して、具体的に何も触れずに書いているのは、とても失礼だと思う。そういうことについて書いておきたい。
最初に書いたように、あるビジターは「『お金をもらう活動だけが仕事、ボランティアや趣味の活動は仕事ではない』という定義で話をしています」とことわっているが、Hayaseさんはそうした考え方で問題を提起したのではない。だから、かみ合うはずがないのだけれど、「お金をもらう活動だけが仕事、ボランティアや趣味の活動は仕事ではな」という言い方に、私は、人間として許せないものを感じる。金を得る「仕事」であろうが、無給の「ボラティア」であろうが、それは「ひと」の「働き」である。「ひと」は「肉体」と「時間」をつかっている。どうつかっているか、それに目を向けないといけない。
ひとは働く(労働する)。その対価として金を手に入れるかどうか(その額の大小)よりも考えなければならないことがある。働くとき、それがどんな仕事であれ、ひとは「もの」に向き合う。あるいは「ひと」に向き合う。そして、その「向き方」をととのえる。自分の「生き方」をととのえる、ということである。自分の生き方をととのえることを、簡単に私は「思想をととのえる」(思想をつくる/人間をつくる)と言いなおしている。
ボランティア活動をしているひとは、「人間をつくる」ことを実践してきたひとであり、活動をとうしてさらにその「人間を成長させている」ひとである。もちろんボランティア活動をしているひとは、「私は私を成長させるために活動している」とは言わない。それは、すでに「ひと」ができている(完成している)からである。ひとは、だれでも困っているひとに出会ったら(その存在を知ったら)、そのひとのために自分のできることをするというのが、私には、当たり前のことであってほしいと思っている。その当たり前のことを、当たり前のこととも言わずに実践しているひとに対し、私は感謝する以外に何もできない。
私は、たとえば、水害にあったひとたちのためにどんな活動ができるか。何も知らない。私の肉体の動かし方を知らない。それは、私が、これまで仕事をとおして学んできたものと、災害復旧のために何をすべきかということを結びつけることができないということである。何もできない、だから寄り添って被害者の声に耳を傾け、「私はあなたのそばにいます」ということさえ、実は、私にはできるかどうかわからない。私は、そんなふうに見知らぬひとに「寄り添う」ということを仕事で身につけてこなかった。仕事以外でも、そういうことのために時間を割いてこなかった。簡単に言えば、私はボランティア活動をしているひとのように、「ひと」にはなっていないのである。私は、自然に、そういう振る舞いができる人間ではない。ボランティア活動をしているひとより、はるかに劣った人間である。
「ひと」になるための方法はひとつではない。そして「ひと」の形もいろいろあるだろう。それは「金を稼ぐ」こととは、基本的に別問題である。
東日本大震災のとき、たとえば山本リンダが、慰問に行った。彼女は歌を歌う。「狙い撃ち」のリクエストが来た。「えっ、ここでこんな歌を歌っていいのか」。彼女は悩んだ。けれどみんなに求められて歌った。それがひとを元気づけた。そこには、山本リンダの「ひと」が実践されている。歌う仕事、歌をとおしてひとと触れ合う。長い間つちかった「ひととの向き合い方」。学んできたもの(彼女の肉体になっている思想)を、そのまま実践し、ほんとうに「ひと」になっている。仕事とは、そんなふうにして、「ひと」をつくるのである。それぞれの人間が「ひと」になり、そうして「ひと」に出合う。そのとき、「ひと」と「ひと」のあいだには、「もの(山本リンダの場合歌)」があり、その「もの」だけではなく「ひと」との接触の仕方がある。
ボランティアとは外れるが、山本リンダには、もうひとつ忘れられないことがある。「どうにも止まらない」がヒットしたとき、NHKはへそだしルックでは出演させなかった。しかし、生放送の紅白歌合戦のとき、彼女はへそだしルックで出場し歌った。生放送だから禁止している暇がない。それを承知で、彼女は、彼女のへそだしルックと歌を応援してくれたファンに応えた。このNHKへの反逆には、彼女の「思想」が実践されている。彼女を支えてくれたのはNHKではなくファンだという思いがある。「仕事」を「思想」を鍛えるのである。
これは、どんな「仕事」にもある。そして、その「仕事」が様々であればあるほど、「社会(ひととのつながり)」はしなやかで、生きやすいものになるだろう。複数の「思想」が共存する土台は、複数の仕事にこそある。
AIの「仕事」への進出。私は、具体的にいろいろ知っているわけではないが、たとえばファミリーレストランへ行くと、ロボットが注文した料理を運んでくる。いや、店に入ったときから、番号(席)を指定され、料理を注文し、支払うときも、かつてのように「生きている人間」に出合うことはほとんどない。私は、そのとき、ああ、こんなふうにして私は誰かと接することを忘れていくのか、忘れさせられるのかと感じる。「ありがとう」というとき、あるいは「お願いします」というとき、相手の目を見る。そういう肉体の動かし方を忘れさせられるのかと思う。それは、それまでウェイターとして、あるいはレジの担当者として働いていたひとも同じだろう。仕事をとおして身につけた何か、仕事をとおして何かを身につけるということができなくなる。そんなことを知らなくても「ひと」としての「感性」の鍛え方はあるから、人生の楽しみ方もあるというかもしれないが、私はそういうことは信じられない。自分の肉体をとおして身につけた何かをとおしてしか、「ひと」に接することはできない。
自然を見ても、ひとがつくった芸術を見ても、そのときの「見方」には、ひとが経験してきたことが含まれる。自分が経験しなくても、他人が経験してきた「仕事」の向き合い方も、そこに反映される。
谷川俊太郎が出演する映画「谷川さん、詩をひはつ作ってください」のなかに、親子で野菜を作っているひとが登場する。息子は「父は仕事が早いが雑だ、私は遅いがていねいだ。それでしょっちゅうけんかをする」ということばがある。同じ野菜をつくるにしても、肉体の動かし方が違う。野菜への向き合い方が違う。そうした違いが、明確に意識できないけれど、野菜ひとつ買うときの私の「態度」にも反映される。こっちの方が形がいい。これは形が不格好だが、色が充実している。どちらを選ぶにしても、そこには、それをつくったひとがいて、私は野菜を選ぶだけではなく、その「見えないひと(会ったことのないひと)」を選び、そういうひとがもっと増える社会を無意識に望んでいる。どんな「感性」も「仕事」をとおしてつくられる。
もちろん、それは「金の儲け方(どれだけ儲けるか)」にも反映されるかもしれない。しかしAIの問題は、「金の儲け方」ではなく「ひとの働き方」と、労働の変化によって、ひとのつくられ方(ひとの作り方)の違いでもある。
こういう問題を語るときに、「お金をもらう活動だけが仕事、ボランティアや趣味の活動は仕事ではない」という「基準」を持ち出すのは、持ち出されたボランティアに対して、たいへん非礼なことをしていると私は感じる。「お金」以外の基準で、ボランティア活動をするひとたちは働いている。「金を稼ぐ労働」ではなく「ひととしての仕事(はたらき)」をしている。いったい「お金をもらう仕事」というとき、あるビジターは、どんな「仕事」を想定し、その「仕事」の意味を何を基準にして区別しているのだろうか。
そのことが、あるビジターのことばの背後に隠れていると思う。
*******************************************
(この文章に登場する「ビジター」から、「コメントの引用は著作権の侵害である。削除しろ。プロバイダーやページ運営会社にも削除要請をしている」旨の発言がありました。
しかし、「ビジター」のコメントに反論を含めた意見を書くためには、引用は不可欠なものです。正確に引用しなければ、「コメントを改変された」と抗議がくるでしょう。
いったんコメント欄で対話をしておきながら、「コメントを引用するな」というのは明らかな言論の暴力です。
コメントへの反論を拒むなら、最初からコメントをしなければいいだけのことです。
プロバイダー、サイトの運営会社がどういう措置をとるのか見守りたいと思います。
なお、この「ビジター」は、私に対して「気狂い」「精神年齢が小学生レベル」「頭のおかしい左翼カルト」などの暴言を書き続けています。そのことを、お知らせしておきます。)