詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(89)

2018-10-05 09:57:54 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
89 夢魔

 揚げ足を取るつもりはないのだが。

もの心ついてこのかた 夢のない眠りを知らない
それも一晩に四つ五つ 多いときには十以上も見る
平均五つとして 八十歳の今日まで百万は見ているはず

 この計算はあっている? 一年は三百六十五日。365 ×5×80=146000にしかならない。14万である。百万までは、ケタが一つ足りない。どうしてこんな間違いをしたのか。また、編集者はこの「間違い」に気づかなかったのか。
 高橋は「論理」を動かすとき、その「論理」を「事実」とは結びつけないのかもしれない。動かしたあとの「論理」が「事実」と合致するかどうかは確かめない。ことばがどこまで「論理」を装って動くことができるのか、その「偽装」の方に関心があるのだろう。

しかし 目覚めて書き取った夢は およそつまらない

 なぜだろう。
 夢はたぶんに「非論理的」なことばの動きである。
 ところが目覚めて動かすことばは「論理」的にしか動けない。「論理」から逸脱すると、最初の三行のように「間違い」になる。
 ここに問題がある。
 「平均五つとして 八十歳の今日まで百万は見ているはず」という推論(推定の結論)ではなく、「百万は見た」と読者に錯覚させるまで、「論理(ことば)」を暴走させないといけないのに、端折って「算数」という「既成の論理」に頼ってしまった。
 「論理」に頼ることを、「論理に敗北する」という。夢は「論理」を暴走させないといけない。

わが生涯がしらけた夢にすぎなかったと総括して あの世に行けば
こんどこそ夢のない充実した眠り つまりは無に溶けこめるか
夜ごと自ら悪い夢になって 生者の夢に侵入するのが関の山

 これでは眠らずに見る夢、「論理」を装っただけのことばである。


つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社



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