日刊ゲンダイに興味深い記事があった。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/291931
「10代20代の半数はテレビを見ない」
というのである。
私もテレビを見ないが、私のような老人がテレビを見ないのと、若者がテレビを見ないのでは「意味」が違うと思う。
記事には、いろいろなことが書いてあるが。
私が私なりに要約すれば、これは別なことばで言えば「時間」を共有しなくなったということだね。
昔は、たとえば人気ドラマがあると銭湯ががらがらになった、といわれた。
銭湯も単に体を清潔にする場所ではなく、一種の「時間の共有」だった。
銭湯で「時間を共有」するかわりに、各家庭で、銭湯で出会う人と「時間」を共有している。
だから、次の日、前日見たドラマの話をすることで、「時間の共有」を確認する。
「時間の共有」が「生きる」ことの「共有」だった。
いまは、「時間」ではなく「コンテンツ」の共有に代わっている。
昔も「コンテンツ」を共有してはいたけれど、コンテンツ以外の「時間」の共有こそが人間をつないでいた。
みんな「おなじこと」を「同じ時間」にしている。
これがなくなるのは、大変な変化だとも言える。
時間を共有するというのは、いっしょに生きているということを感じることだからね。
「時間の共有」感覚がなくなると、きっと「他人の肉体感覚」というのも消えるな。
側にいる人が「肉体」をもった人間ではなく、単なるある「コンテンツ」を知っているかどうかだけでつながることになる。
ネットで問題になる「炎上」というのは、そういう類のものだな。
ことばを書いているのは、肉体を持って生きている人間であるということを忘れて、肉体を欠いたことばが暴走する。
古いことばだけれど「裸のつきあい」というのは、とても大切なのだ。
それが、「若者のテレビ離れ」というのは、ある意味で「裸のつきあい」の機会を減らしていくことになる。
飛躍した論理のように見えるかもしれないが、私が若者に感じる不気味さは、「他人の裸を知らない人間」の不気味さなのだ。
「裸の肉体」を「共有」したことがない体験の不気味さなのだ。
そういうことを思い出させてくれる記事であった。