松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」(「現代詩手帖」2017年12月号)
松尾真由美「まなざしと枠の交感」(初出『花章-ディヴェルティメント』2月)。タイトルにすこしげんなりする。「交感」は「意味」が強すぎる。「意味」にあわせてことばが強制的に動かされているのではないか、と身構えてしまう。
「このような」という始まりは、「このような」としか言えないものと向き合っているのだろう。「このような」が「どのような」ものなのか、そのあとのことばが語ることになる。
しかし、「このような」が「あざやかな」というのでは、私は納得できない。最初から「あざやかな」と始めてしまえば「このような」は不要になるだろう。余分なことが書かれていると思ってしまう。
「熱視」は「見つめる」という動詞で言いなおされたあと、「熱」の部分が「血の色の鋭敏さ」と「空想」と言い換えられ、さらに「なまなましい」と言い換えられる。それに「あざやか」が「血の色」「正午」ということばで交錯する。そこから「書物のページ」という「具体的なもの」が「空想」のように「浮き上がる」。このとき、それを「誰かが見つめている」のか、それとも「書物のページ」のなかから、登場人物としての誰かが松尾を見つめているのか。
「そのような/このような」関係。
「なまなましい」関係。「なまなましい」は、松尾にとっては「このような」感じ。どこかで「抽象」を含む。「抽象」を「なまなましい」ものとして感じるのが、松尾の「交感」の基本にある。「意味」で、「なまなましい」が動いている、と私は感じてしまう。
「香っていてあえいでいて」には「香る」という動詞と「あえぐ」という動詞が共存している。「共存」が「交感」ということなのだろう。
「書物のページ」は「花びら」という比喩になる。「花びら」が「書物のページ」の比喩かもしれない。比喩とは「共存」の言い直しである。その「書物のページ/花びら」が「剥がれる/剥がされる」という動詞のなかでさらに「共存」を深める。「剥がされる」は一種の「死」。だからこそ、それに抗うように「希求」ということばを輝かせようとするのだろうが、いっそう死んでしまった方が強い官能が残るのではないかと思ってしまう。
こんなところで「希求」なんかを求めてしまうと、それがたとえ「欠けら」であっても、道徳の教科書(流通の意味)でことばをととのえられているような気がして、興ざめしてしまう。
「頭」で書いていない?
いや、私が「頭」で読んでいるだけなのかもしれないが、「頭」で読んでしまう詩というのはつまらない。
*
朝吹亮二「空の鳥影」(初出「si:ka」3月)は、外国の風景だろうか。移動の途中(という感じがする)に見かけた鳥を描いている。
というような非常に抽象的な、ああ、こんな抽象的なことばにつきあうのはいやだなあと思う行があるのだが、これは即座に、
と具体的に言いなおされ、さらに
と具体化される。
なんにもない空に黒い鳥の影。鳥だけが飛んでいる。「なんにもない空に鳥が一羽飛んでいたんだ。それが印象的だった」を朝吹は、もう一度言いなおす。そのどこが印象的だったのか。
「このような/そのような」の「この」「その」を言いなおす。
「鳥」ではなく「鳥影」。「影」という一語が追加されているために、「空影」とでも言えばいいのか、「空のなかにある空/空が映し出した空の深淵(空隙、と朝吹は書いているが)」を見たような感じがする。それもただ「見る」のではなく、「臍」ということばがあるために、何と言うか、私の「肉体」が「空」になってしまった感じ。同時に「鳥」になって飛んでいる感じ。
「共振」と朝吹は書くのだが、「共存」、あるいは「一体」という感じ。「一体」になって動くから「共振」なのかもしれない。「空」と「鳥」は別々の存在だが、ふたつの存在の間に「音楽」がひろがる。「和音」が「共振」している、と言えばいいのか。
朝吹は「交感」ということばをつかっていないのだが、朝吹の詩の方が「交感」をつかんでいると思う。「空」と「鳥」と朝吹の三者が、ひとつの音楽を響きあわせている。
*
詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
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松尾真由美「まなざしと枠の交感」(初出『花章-ディヴェルティメント』2月)。タイトルにすこしげんなりする。「交感」は「意味」が強すぎる。「意味」にあわせてことばが強制的に動かされているのではないか、と身構えてしまう。
このような
窓のひろがり
あざやかな熱視をねがい
きっと誰かが見つめている
血の色の鋭敏さと空想の両眼と
正午に浮きあがる書物のページの
なまなましい胸のいたみ
香っていてあえいでいて
剥がされた花びらは
なお希求の
欠けらとなる
「このような」という始まりは、「このような」としか言えないものと向き合っているのだろう。「このような」が「どのような」ものなのか、そのあとのことばが語ることになる。
しかし、「このような」が「あざやかな」というのでは、私は納得できない。最初から「あざやかな」と始めてしまえば「このような」は不要になるだろう。余分なことが書かれていると思ってしまう。
「熱視」は「見つめる」という動詞で言いなおされたあと、「熱」の部分が「血の色の鋭敏さ」と「空想」と言い換えられ、さらに「なまなましい」と言い換えられる。それに「あざやか」が「血の色」「正午」ということばで交錯する。そこから「書物のページ」という「具体的なもの」が「空想」のように「浮き上がる」。このとき、それを「誰かが見つめている」のか、それとも「書物のページ」のなかから、登場人物としての誰かが松尾を見つめているのか。
「そのような/このような」関係。
「なまなましい」関係。「なまなましい」は、松尾にとっては「このような」感じ。どこかで「抽象」を含む。「抽象」を「なまなましい」ものとして感じるのが、松尾の「交感」の基本にある。「意味」で、「なまなましい」が動いている、と私は感じてしまう。
「香っていてあえいでいて」には「香る」という動詞と「あえぐ」という動詞が共存している。「共存」が「交感」ということなのだろう。
「書物のページ」は「花びら」という比喩になる。「花びら」が「書物のページ」の比喩かもしれない。比喩とは「共存」の言い直しである。その「書物のページ/花びら」が「剥がれる/剥がされる」という動詞のなかでさらに「共存」を深める。「剥がされる」は一種の「死」。だからこそ、それに抗うように「希求」ということばを輝かせようとするのだろうが、いっそう死んでしまった方が強い官能が残るのではないかと思ってしまう。
こんなところで「希求」なんかを求めてしまうと、それがたとえ「欠けら」であっても、道徳の教科書(流通の意味)でことばをととのえられているような気がして、興ざめしてしまう。
「頭」で書いていない?
いや、私が「頭」で読んでいるだけなのかもしれないが、「頭」で読んでしまう詩というのはつまらない。
*
朝吹亮二「空の鳥影」(初出「si:ka」3月)は、外国の風景だろうか。移動の途中(という感じがする)に見かけた鳥を描いている。
不可視の
夢は零れて
天空と深淵をつなぐむすびめはほどけて
というような非常に抽象的な、ああ、こんな抽象的なことばにつきあうのはいやだなあと思う行があるのだが、これは即座に、
たとえば落雷とかね、たとえば
旋風とかね、たとえば
と具体的に言いなおされ、さらに
空っぽの
空の
黒い鳥
と具体化される。
なんにもない空に黒い鳥の影。鳥だけが飛んでいる。「なんにもない空に鳥が一羽飛んでいたんだ。それが印象的だった」を朝吹は、もう一度言いなおす。そのどこが印象的だったのか。
「このような/そのような」の「この」「その」を言いなおす。
不可視のやさしい手をさしのべてはかき消えていくのさ、
うっとりする鎌鼬のように
そう、どこにでもある空を映す空隙の洞
空を映す透明なリュートの胴
空の
臍、飛ぼうとする形のまま
天空と深淵を結んで
共振する、空の
鳥影
「鳥」ではなく「鳥影」。「影」という一語が追加されているために、「空影」とでも言えばいいのか、「空のなかにある空/空が映し出した空の深淵(空隙、と朝吹は書いているが)」を見たような感じがする。それもただ「見る」のではなく、「臍」ということばがあるために、何と言うか、私の「肉体」が「空」になってしまった感じ。同時に「鳥」になって飛んでいる感じ。
「共振」と朝吹は書くのだが、「共存」、あるいは「一体」という感じ。「一体」になって動くから「共振」なのかもしれない。「空」と「鳥」は別々の存在だが、ふたつの存在の間に「音楽」がひろがる。「和音」が「共振」している、と言えばいいのか。
朝吹は「交感」ということばをつかっていないのだが、朝吹の詩の方が「交感」をつかんでいると思う。「空」と「鳥」と朝吹の三者が、ひとつの音楽を響きあわせている。
現代詩手帖 2017年 12 月号 [雑誌] | |
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思潮社 |
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詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
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