詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(83) 

2014-06-13 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(83)          

 「あの家の横を」は、むかし馴染んでいた町をふたたび歩く詩。歩くとどうなるか。過去を思い出す。「若かった時、頻繁にかよったところだ。/エロスのおそろしい力が/私の身体をとらえたところだ。」しかし、過去を思い出すだけではない。

古い通りを通った。
店、横丁、石、
壁、バルコン、窓。
みんなにわかに美しく見えた。

 これは、「町」が変わったのではなく、カヴァフィス自身が変わったのだ。「見えた」は「外観」の変化ではなく、カヴァフィスの「内面」の変化である。「美しく見えるようになった」のだ。
 「店、……」からつづく単語の羅列。名詞の羅列。どんな形容詞ももっていない。それが、「内面」の変化の「証拠」である。外見上の特徴(変化)はない。書きようがない。「外観」はそのままで、カヴァフィスの「こころ」が、それを美しくする。

愛の魔法だ。みにくいものは何一つなかった。

 このことばがつづくとき、「みにくいもの」とは「店、……」のように、眼で見える「形(存在)」ではない。「こころ」のことである。エロスを求める力。そのエロスがどんなものであれ、それはみにくくはない。美しい。それは「愛」なのだから。
 若いときは、どこか「こころ」の奥底に「やましさ」のようなものを感じていたのかもしれない。けれど、いまなら、こういえる。「あれは、すべて美しかった」。そして、その美しさは、過去からいまへ蘇ってくる。過去といまがとけあって、カヴァフィス自身を若返らせる。「みんなにわかに美しく見えた。」を私は「みんな若く美しく見えた。」と誤読しそうになる。

あのドアの前でしばらく立っていた。
窓の外をそぞろ歩きしながらとどまっていた。
私の全存在が内にこもっていた官能の情熱を放射した。

 「官能の情熱」がよみがえり、それが「内にこもっていた」ことを気づかさせてくれる。すべては失われてはいなかった。すべては失われることはない。すべては、あらゆる瞬間に時間を超えて、新しくよみがえる。
 この「再生」が詩。
 生まれ変わり、生きなおすとき、その先にあらわれるのは「過去」か「未来」か。区別がない。「過去/いま/未来」がひとつになって「私の全存在」として動く。

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