詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

愛敬浩一「冬の始まり」

2018-09-03 10:29:40 | 詩(雑誌・同人誌)
愛敬浩一「冬の始まり」(「詩的現代」25、2018年06月07日)

 松岡政則『あるくことば』は一休みして、愛敬浩一「冬の始まり」について。
 「重なる」ということばについて書いていたとき、ふと、思い出したのである。どこかで、「重なる」と通じることばを読んだことがあるぞ、と。
 何だったか思い出せないが、不思議なことに本を開くと、そういうページ、そのことばはふいに目の中に飛びこんでくる。「頭」が覚えているのではなく「目」が覚えている。手に取った本の厚み(重さ)とか感触が、そういうものを引き寄せてくれる。ことばにならなかったことがばが、急に動き始める。
 「冬の始まり」は、こう始まる。

スティーブン・キングは言っている
「われわれは、現実の恐怖と折り合っていくための一助となるべく
ホラーを生産しているのだ」と。
そうだ
私が未だ詩などを書いているのも
確かに「現実の恐怖と折り合っていくため」かもしれない。

 繰り返される「折り合う」という動詞が、松岡の書いている「重なる」と通い合う。「折り合う」というのは「折って、合わせる」であり、この「合わせる」と「重なる」はほとんど同じだ。「折って、重ねる」。ただ「重ねる」のではなく、「折って」がある方が妙に「肉体」を刺戟する。おもしろい。「折る」というのは、何かしらの「無理」がある。そのままではなく「折って」、重ねる。「折る」方に、無理というか、工夫というか、相手に合わせるような力が働いている。
 では、この「折って、合わせる」(折り合う)というのは、具体的にはどういうことか。愛敬は、詩の中で「何を」折って、「何に」合わせようとしているのか。これはなかなか説明がむずかしいのだが。
 詩は、こうつづいている。

あの、震災の後の
あの数年前の
群馬の平野部でも大変だった、大雪の時
父はまだ生きていた。
あの日
後にも先にも
群馬の平野では
あんな大雪を見たこともなかった。
それでも
あの大雪を共に体験できたのは
良かったのかもしれない。
いやいや、もっと禍々しい物語が必要だ。
あの大雪には何か秘密がなかったか
雪の重さで
実家の
裏の物置が傾いたのには
何か別の意味がなかったか。

 父の死と大雪を重ね合わせようとしている。もちろん、父の死と大雪というのは完全に別なものである。そういうものが重なるわけがない。だから、重ねるために、何かを「折る」のだ。
 何かって、何?
 わからないけれどね。
 「禍々しい物語」か。大雪を、冬の現象ではなく、違うものとしてとらえる。大雪の物語をつくりだす。その物語のなかにあるものを「折って」、父の死の方に「合わせる」。
 こういうことって、「論理的(科学的?)」にはできないことなのだけれど、「心情」というのは論理でも科学でもないからね。

倒れた日の午前中にも、車を運転していたという父
いやいや、父は死んだ後でも運転すべきだった
職場から病院へ駆けつけた私に
「もうダメかもしれないって」と言った母の顔が
まったく別の恐怖に変わるように

 あ、ここに「恐怖」が出てくる。
 父が死ぬかもしれない。それは母にとっては、夫が死ぬという「現実の恐怖」である。それを受け入れる(それと折り合いをつける)というのはむずかしい。母親は、自分の恐怖を「折って」しまって、消してしまわないと、いけない。「死」が恐怖なのではなく、「死んでしまうかもしれない」が恐怖である。その気持ちがあるあいだは、父は死ねない。逆に言うと、父が生きているあいだは、母は夫は死ぬかもしれないという恐怖と向き合い続けている。恐怖が父を生かしている。というと、言いすぎになるが、何か、切り離せない力で「死ぬかもしれない(恐怖)」と「まだ生きている」がつながっている。これを「折って」、たたききらないことには「死」はやってこない。
 うーむ。

「もうダメかもしれないって」と言った母の顔が
まったく別の恐怖に変わるように
その時こそ
死んだ父が起き上がって
また、大雪を降らせ
我々を恐怖のどん底におとしいれても良かった。

 まあ、こういうことは起きない。
 で、「折り合い」がついたのか、つかないのか、わからないまま、父は死ぬ。
 そして。

三回忌も済んだのに
ごく普通に死んだだけなのに
身近な者が死ぬことが
こんなにも重く
いつまでも終わることもなく
いつまでも、いつまでも
腹の奥底の方で
疼くような
痛みが続き
ホラーよりもキツイなんて
考えもしなかった。
ああ、そうか
それが「冬の始まり」ということだったのか。

 愛敬は、彼自身の「折り合い」をつけようとしている。(母親は折り合いがついたかどうかわからないが。)大雪と父の死を結びつける。大雪を思い出すということで、父の死を記憶するということで、「折り合う」のである。「折り合う」ということは、その時を「忘れない」(覚えておく)と言いなおされている。
 これは、父の死と雪の日を「重ねる」ということでもある。でも愛敬は「重ねる」ではなく「折り合う」ということばを選んでいる。この微妙な違い、「折り合う」ということばをつかいたいというところに、愛敬の「肉体」が出ている。
 「折り合って」、そのあとどうなったか。恐怖は消え、かわりに「疼き」と「痛み」がやってきた。愛敬は「腹の奥底」と書いているが、それは「肉体」そのものに刻みこまれる。そういう「肉体の犠牲」が「自己を折る」ということであり、それによって死は現実として受け止められていく。「肉体」のなかで共存する。
 これ以上は、説明できない。私のことばは動いていかない。ただ、ここまで書いてきて、松岡と愛敬は、「肉体」そのものとして違った存在として生きているという「手触り」(手応え?)のようなものが、私の「肉体」のなかに残る。愛敬と松岡がたとえ同じことを書いているのだとしても、私の「肉体」には別々の「肉体」として残る。「重なる」と「折り合う」というふたつの動詞として、残る。
 
 「折る」というのは印をつけることでもある。枝折りは山歩きのとき道に迷わないように歩いたところにある枝を折って目印にする。私は本を読みながら、ページの角を折る。(ドッグイヤーをつくる)。それはやっぱり覚えておくためのものである。ドッグイヤーの場合は、枝折りと違って、紙を「折り合わせる」ということでもある。
 あ、こういうことは愛敬の詩とは関係ないことなのだが。
 でも、関係ないからこそ、実はほんとうは関係している。
 「肉体」の動きというのは、無意識のうちに「肉体」のなかに何かを積み重ねる。それが「動詞」のなかに反映している。それを感じるとき、私は「思想」に触れた気持ちになる。








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