詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(85)

2018-10-01 08:07:02 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
85 記憶

 猫はエジプト文明とともに人間のそばにいるようになった、と高橋は書いている。そして、こうつづける。

寄り集まってくる背中や首の 喜び逆立つ毛並を
歴史をいつくしむ手つきで 弱く 強く 撫でる
この感触をこの毛たちは いつまで憶えていようか
私の手のひらや 指のはらは 憶えて忘れないだろう

 「この毛たちは いつまで憶えていようか」に驚いた。
 「手のひらや 指のはらは 憶えて」いる、ということばのつかい方をするから、猫の毛が何かを覚えている、というのは「論理的」には成り立つ。ことばの運動としては、ありうる。
 この「論理」を読めばわかるが、私自身のことばを動かして、こういう運動ができるかといえば、私には「できない」というしかない。だから驚いた。私は(私のことばは)こんなふうには動かない。
 猫の目は、猫の手(脚)は、猫の舌は、あるものを覚えている、というのなら、私のことばも動くだろう。目、手、舌が動くとき、「肉体」のなかに動くものがある。それと同様なことが猫にも起きるだろうと、想像する。これは猫と「一体」になるということだ。
 で、ここから逆に考えるのだが。
 私の「毛」は何かを覚えているだろうか。私の「毛」は何も覚えていない。「毛」のなかには「感覚」がない。だから切られても痛くない。
 猫の「この毛たちは いつまで憶えていようか」に驚いたのは、猫に理由があるのではなく、「毛」に理由がある、ということになる。

 うーん。
 高橋は猫について考えるとき、「猫の毛」とまで「一体」になる。そして、その「一体感」は高橋の「毛」にまで影響を及ぼし、「毛」も何かを憶える(感じを記憶する)ものとしてとらえなおされている。
 高橋の猫への「一体感」は、それほど強い。

 人間には「猫派」と「犬派」がいるという。高橋は、完全な「猫派」なのだろう。
 犬について書くときは「文学」を利用して「ことば」のなかだけに閉じこもるのに、猫について書くときは「肉体」全部を使い、さらにふつうの人間が無感覚の領域にまで猫の感覚を広げていく。猫が高橋に乗り移り、猫そのものになる。
 高橋はかつて猫だったことがあるのかもしれない。


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