詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ナボコフ『賜物』(35)

2011-01-07 10:18:31 | ナボコフ・賜物
 3人の恋人が森で順番に自殺を試みる。そのシーン。

ルドルフはオーリャのもとに引き返すべく踵を返したが、彼女のことろに辿りつかないうちに、二人とも乾いた銃声をはっきりと聞いたのだった。ところがヤーシャの部屋で日常の風景はその後何時間もまるで何事もなかったかのように続き、皿に残ったバナナの抜け殻も、ベッドの脇の椅子に載った『糸杉の小箱』も『思い竪琴』も、寝椅子の上に置かれたピンポンのラケットもそのままだったのだ。即死だった。
                               (77-78ページ)

 これは書かなくてもわかりきったことである。誰かが自分の部屋から離れた場所で自殺する。そのとき、彼の部屋は彼がそこを離れたときのままであるというのはわかりきったことである。「もの」とは非情なものである。人間の感情など配慮しない。
 ところが、こんなふうに書かれてしまったものを読むと、あ、ヤーシャが最後の瞬間に思い浮かべたもの、見たものは、自分のその部屋だったという気がしてくるのだ。そこに書かれているのは「非情」とはまた別なことがらである、とふいに感じ、悲しみがおそってくる。
 雪の森で自殺する。そのとき、最後の瞬間に見るのは、森ではなく、記憶の部屋である。--ということが事実であるかどうかは、誰にも確かめられない。確かめられないからこそ、それが部屋であってもいいのだ。ヤーシャはきっとそれを見た、と感じてしまうのだ。
 だが、これは、いったい誰が書いたものなのか。誰のことばなのか。ヤーシャのことばではない。
 この不思議さに、私は衝撃を受ける。ナボコフの天才を強く感じるのはこういう瞬間である。
 部屋の描写をし、「即死だった。」と短く事実を書いて、世界はヤーシャの部屋から森へと引き返す。

即死だった。しかし、何とか生き返らせようとして、ルドルフとオーリャは茂みをかき分けて葦辺まで彼の体を引きずって行き、そこで必死に水を掛けたり、さすったりしたものだから、後で警察が死体を発見したとき、それは土と血と水底の泥にまみれていた。
                                 (78ページ)

 この視線の交錯はとても劇的だ。



ロシア美人
ウラジーミル ナボコフ
新潮社

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