05月の連休を利用して駆け足でアテネ、ウィーンをめぐってきた。アテネでプラトンとソクラテスの「亡霊」に会うのが目的だったのだが--そして、実際に会えたつもりなのだが、そのことは別の機会に書くことにして。
貴重な写真を公開します。
ウィーン美術史美術館でフェルメール「絵画芸術」を見た。
このとき、模写(レプリカ?)が製作されていた。その現場に出合った。写真は、模写(左)と本物と、その前の私。
この日の公開は「午後4時から」ということだったのだが、列ができるかもしれないと思い、3時40分に行ったら、たまたま一番乗りできた。(列はできていなかった。)公開は3時45分から約20分、4時5分まで。4時に行っていたら、あるいは4時以降に行っていたら見ることができなかった。
実は入場前にインフォメーションで聞いたら「きょうの公開は4時から。あすの予定はわからない」というあやふやなものだった。理由はわからない。「日本人がフェルメールを見たいといっているが見ることができるか」とトランシーバーで女性が尋ねてくれたのだが、そのときは詳細な事情は私の語学力ではわからず、まあ、四時まで待ってみるか、それまでほかの作品を見るかと思って入場し、偶然、その公開時間にめぐり会ったのである。(4時5分後は部屋の外から摸写しているのを見ることができた。)
このとき、私が考えたこと。
私は「ことばは肉体である」ということを考えるためにアテネに行った。そして、そのついでにウィーンに行ったのだが……。
ことばと絵の違いは何か。
ことばは誰でもが正確に転写できる。転写しながら他人に伝達できる。
ところが絵の場合は「正確」にはそれを他人に手渡すことができない。
私が目撃した「絵画芸術」の模写では、大きさ、形はそのままだし、色もそっくりである。そっくりであるけれど、たとえば女性の持っている本の色が私には少し違って見える。(私はいま色覚異常の検査を受け、原因を調べている状態なのでいるので正しい?色を識別しているとは言えないかもしれないけれど……。)
で。
そうすると、ことばの伝達、絵画(色と形)の伝達の場合、何が共通し、何が違うのかという問題が生じる。
ことばにおける肉体の役割、絵画における肉体の役割--伝達における肉体の役割が違っていることに気がつく。
ことばを「文字」をとおして伝達していくとき肉体の占める領域は少ない。下手な字であろうと上手な字であろうとことばのもっている「意味」を伝えるとき、上手下手は関係ない。つまりどんなふうに肉体を動かすかということはあまり関係がない。私がいま書いているようにワープロをつかうと、それはもっと差がなくなる。書道は別にして、ことばそのものをことばとして伝えるとき肉体の果たす役割には個人差が入り込む余地がない。
けれど絵画の場合は違う。どんなふうにして筆をつかえるか。どんなふうにして色を識別し再現できるかは個人の肉体の力によって違ってくる。
で。
絵の模写を通じて何かを誰かに伝えるとしたら何を伝えるのか。もし、ことばと共通項があるとすれば何が共通項になるのか。
技術。
私は、ふと技術ということばを思いついた。
フェルメールの模写が伝えることができるものがあるとすれば、それは絵画の技術である。どんなふうにして色を組み合わせるか。どんなふうにして筆を動かすか。
「技術」という点から見ていけば、ことばと絵画には共通のものがあるかもしれない。
どんなふうにしてことばを組み立てるか。どんなふうにことばを動かすか。
それは「技術」であり、思想である。
技術はいつでも思想なのだ。技術の中には思想がある。
それはアテネで見たパルテノン神殿にも通じる。
大理石を切り出し、ある形に加工する。それを積み上げる。それは技術である。技術であるけれど、技術だけではない。そこには数学(物理)の思想が入ってくる。また美術の嗜好(思想)も入ってくる。
技術としての思想は、たとえばパルテノン神殿の場合、それを建設する人間の肉体によって具体化される。
同じように、フェルメールの模写の場合も、それを模写(複製)をするひとによって具体化される。
ことばの場合、ことばが具体的な形をとらないためにわかりにくいけれど、ことばそのものの肉体のなかに、その技術は継承されているに違いない。
ことばを「文字」ではなく「声」という点から見つめなおすと肉体の関与はもっと強くなる。
私はウィーンではオペラ座で「椿姫」は「サロメ」を見た(聞いた)が、そのときことば(声)と肉体、肉体の技術ということについてあれこれ思った。
このことはいずれ書きたいと思うけれど、きょうの「日記」は、まあ、そんな思いよりも、いまウィーンの美術史美術館ではフェルメールの模写がおこなわれており、偶然が重なればそれを目撃できるということを紹介することが目的なので、これでおしまい。
(あすウィーンに行って模写の現場に立ち会えるかどうかは、私にはわかりません。)
貴重な写真を公開します。
ウィーン美術史美術館でフェルメール「絵画芸術」を見た。
このとき、模写(レプリカ?)が製作されていた。その現場に出合った。写真は、模写(左)と本物と、その前の私。
この日の公開は「午後4時から」ということだったのだが、列ができるかもしれないと思い、3時40分に行ったら、たまたま一番乗りできた。(列はできていなかった。)公開は3時45分から約20分、4時5分まで。4時に行っていたら、あるいは4時以降に行っていたら見ることができなかった。
実は入場前にインフォメーションで聞いたら「きょうの公開は4時から。あすの予定はわからない」というあやふやなものだった。理由はわからない。「日本人がフェルメールを見たいといっているが見ることができるか」とトランシーバーで女性が尋ねてくれたのだが、そのときは詳細な事情は私の語学力ではわからず、まあ、四時まで待ってみるか、それまでほかの作品を見るかと思って入場し、偶然、その公開時間にめぐり会ったのである。(4時5分後は部屋の外から摸写しているのを見ることができた。)
このとき、私が考えたこと。
私は「ことばは肉体である」ということを考えるためにアテネに行った。そして、そのついでにウィーンに行ったのだが……。
ことばと絵の違いは何か。
ことばは誰でもが正確に転写できる。転写しながら他人に伝達できる。
ところが絵の場合は「正確」にはそれを他人に手渡すことができない。
私が目撃した「絵画芸術」の模写では、大きさ、形はそのままだし、色もそっくりである。そっくりであるけれど、たとえば女性の持っている本の色が私には少し違って見える。(私はいま色覚異常の検査を受け、原因を調べている状態なのでいるので正しい?色を識別しているとは言えないかもしれないけれど……。)
で。
そうすると、ことばの伝達、絵画(色と形)の伝達の場合、何が共通し、何が違うのかという問題が生じる。
ことばにおける肉体の役割、絵画における肉体の役割--伝達における肉体の役割が違っていることに気がつく。
ことばを「文字」をとおして伝達していくとき肉体の占める領域は少ない。下手な字であろうと上手な字であろうとことばのもっている「意味」を伝えるとき、上手下手は関係ない。つまりどんなふうに肉体を動かすかということはあまり関係がない。私がいま書いているようにワープロをつかうと、それはもっと差がなくなる。書道は別にして、ことばそのものをことばとして伝えるとき肉体の果たす役割には個人差が入り込む余地がない。
けれど絵画の場合は違う。どんなふうにして筆をつかえるか。どんなふうにして色を識別し再現できるかは個人の肉体の力によって違ってくる。
で。
絵の模写を通じて何かを誰かに伝えるとしたら何を伝えるのか。もし、ことばと共通項があるとすれば何が共通項になるのか。
技術。
私は、ふと技術ということばを思いついた。
フェルメールの模写が伝えることができるものがあるとすれば、それは絵画の技術である。どんなふうにして色を組み合わせるか。どんなふうにして筆を動かすか。
「技術」という点から見ていけば、ことばと絵画には共通のものがあるかもしれない。
どんなふうにしてことばを組み立てるか。どんなふうにことばを動かすか。
それは「技術」であり、思想である。
技術はいつでも思想なのだ。技術の中には思想がある。
それはアテネで見たパルテノン神殿にも通じる。
大理石を切り出し、ある形に加工する。それを積み上げる。それは技術である。技術であるけれど、技術だけではない。そこには数学(物理)の思想が入ってくる。また美術の嗜好(思想)も入ってくる。
技術としての思想は、たとえばパルテノン神殿の場合、それを建設する人間の肉体によって具体化される。
同じように、フェルメールの模写の場合も、それを模写(複製)をするひとによって具体化される。
ことばの場合、ことばが具体的な形をとらないためにわかりにくいけれど、ことばそのものの肉体のなかに、その技術は継承されているに違いない。
ことばを「文字」ではなく「声」という点から見つめなおすと肉体の関与はもっと強くなる。
私はウィーンではオペラ座で「椿姫」は「サロメ」を見た(聞いた)が、そのときことば(声)と肉体、肉体の技術ということについてあれこれ思った。
このことはいずれ書きたいと思うけれど、きょうの「日記」は、まあ、そんな思いよりも、いまウィーンの美術史美術館ではフェルメールの模写がおこなわれており、偶然が重なればそれを目撃できるということを紹介することが目的なので、これでおしまい。
(あすウィーンに行って模写の現場に立ち会えるかどうかは、私にはわかりません。)