詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中川智正「炎天下」ほか

2017-02-14 10:06:58 | 詩(雑誌・同人誌)
中川智正「炎天下」ほか(「ジャム・セッション」10、2016年12月28日発行)


 中川智正「炎天下」を読む。俳句である。

冬北斗 わが頭上にも傾(かたぶ)ける

息よりも熱き風吸い初打席

 「冬北斗」は冬、「息よりも」は夏だろうか。季節は違うのだが、「孤独」を感じさせる。しかも、「周囲」が見える孤独である。自分と他者(他の存在)のあいだが完全に透明になったような「孤独」。

秋彼岸看守へ頼む針へ糸

 「看守」につまずいた。囚人?
 中川智正、という名前には見覚えがある。オウム真理教の幹部ではなかったか。同じ号のエッセイ「私をとりまく世界について」を読むと、たしかに、あの中川である。
 あ、俳句を書いているのか。
 「秋彼岸」は孤独と同時に、ひとへの「信頼」のようなものが感じられ、そうか、中川はオウム真理教にいたころとは違った人間になっているのだな、とも思う。
 もっとも、オウム真理教にいたころの中川についても、いまの中川についても私は知らないのだけれど。
 この句には、美しいものがある。看守になって、中川に針に糸を通してくれと頼まれ、針に糸を通してやりたいような気持ちになる。逆もいいかもしれない。刑務所に入って、物を繕う。うまく針に糸がとおらない。頼める相手は看守だけ。それで「すみません。針に糸をとおしてください」と頼む。ひとに自分の「無力」(おおげさかもしれないが)をさらけだし、ひとに頼る。この「頼る」気持ちが生まれ、それを実際に行動し、ことばにする。そこに不思議な美しさを感じる。ひとに「頼る」というのは、いいことだと思う。
 勝手な想像だが、オウム真理教の幹部だったころ、中川はひとに頼るということはしなかっただろうなあ。ひとに頼ることができる人間は、ひとを殺すことを考えたりしない。ひとに頼らない人間だけが、他人を殺すのだと思う。

大西日 千二百秒母と会い

 中川が、あの死刑囚の中川だと思うと「千二百秒」が強く響いてくる。「二十分」は短すぎる。「千二百」という大きな数字に頼っている。「二十分」と「千二百秒」は物理的には(数学的には)同じ時間だが、「千二百秒」の方が心理的に長い。いや、逆に早く過ぎていく感じがして「短い」かもしれない。そのときそのときで、「二十分」になったり「千二百秒」になったり、短くなったり長くなったり、どっちかわからなくなるけれど、きょうは「千二百秒」ということばに頼りたい、という感じ。ここにも「弱いもの」の「強さ」がある。
 「弱いものの強さ」を中川は発見していると思う。
 「冬北斗」にも「息よりも」にも、「弱いものの強さ」に通じるものを感じる。「弱さ」の自覚と言えばいいかもしれない。「弱い」と自覚するとき、世界は今までとは違った「充実」をみせる。「共存」というものが、ふっと、意識をつらぬく。
 「弱い」と「強い」が「求心/遠心」として動く。瞬間的に「世界」があたらしく生まれる感じ。
 「母に会う」ではなく「母に会い」と「終止形」でないところも「悲しさ」を呼ぶ。余韻が漂う。

祖母にだけ長く供えて熟柿(じゅくし)かな

 「長く」のなかにこころが動いている。

絞縄(こうじょう)の絵図を写せば蝉しばし

 「しばし」は「短い」。「祖母に」の「長く」と対比すると不思議な気がする。「長く」も「しばし(短い)」も、断定できない。相対化できない。「長い」は「短い」であり、「短い」は「長い」である。
 こういう不思議さを凝縮できるのは「俳句」の特徴かもしれない。

百合の香や見えぬ目をあけウインクし

 これは、おもしろい。百合が目の前にあるのではないだろう。香りがする。目をつぶって百合を思い描く。この目をつぶって百合を想像することを「見えぬ目」と言っている。目をつぶっているときは見えて、目を開ければ見えない。
 百合と中川が「一体」になっている。「一体」のなかで「ウインク」する。中川が? 百合が? 相対化し、断定しては、世界は動かない。ふたつを行き来し、行き来することで「ひとつ」になる。

脳が見る鶏頭(けいとう)もまた脳を見て

 「百合の」の句に通じるものがある。「論理」が強すぎるかもしれない。この「論理」の強さが、どこかで中川をオウム真理教と共振させることになったのかもしれない。

* 

 「ジャム・セッション」は先日紹介した江里昭彦が出している同人誌。江里は山口県に住んでいるのだが「琉球新報」を講読している。沖縄で書かれていることばを直接読んでいる。
 江里と中川がどのようにして出会い、どうやって一緒に同人誌を出すことになったのかわからないが、江里の、ことばに向き合うときの真摯さが中川のこころを揺さぶったのかもしれない。
 人間のなかでことばはどう動き、そのとき「世界」はどう見えるのか。ことばがかわるとき、「世界」はどうかわるのか。どういうことばをつかうべきなのか、を江里は問い続けているのだろう。
 その江里の「胸騒ぎするほどのさびしさ」から三句。

旅先の夜具のくぼみの万愚節

苦力(クーリー)あり髪のはえぎわまで湿疹

見えぬあり見えるあり盆地の凧の糸

 こういうものに気づいたとき、たしかに「さびしさ」は胸騒ぎになる。
 中川のことばに出会い、「胸騒ぎするほどのさびしさ」を江里は感じたのか。

 江里はまた、松下カロの『白鳥句集」から三十句を紹介している。ことばを添えずに、ただ並べている。私も江里にならって、その三十句のなかから少し「紹介」してみる。

白鳥のほんたうの色問はれけり

ひるあひる白鳥あひる白鳥あ

作法通りに白鳥は喉を突き

白鳥は新刊本の匂ひする


絞首刑は残虐な刑罰ではないのか? — 新聞と法医学が語る真実
中川智正弁護団,ヴァルテル・ラブル
現代人文社
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田中紀子「生い立ち」

2017-02-13 09:51:46 | 詩(雑誌・同人誌)
田中紀子「生い立ち」(「豹樹」27、2017年02月01日発行)

 きのう映画「たかが世界の終わり」を見た。そのあとで、田中紀子「生い立ち」を読んだ。

ナナカマドの樹は
そこで芽吹いたときから
葉をつけ
花をつけ
実をつけ
風のかたちに
撓みながら
伸びていった

どこからか
吹かれきた
一枚の枯葉
ナナカマドとあなたの隙間に
漂い落ち
差し出したあなたの手元からするりと
舞いあがる
あなたは
あとを追うことができると
わかった

 淡々とした描写。とても自然に読むことができる。そして、情景をくっきりと「見た」と思った瞬間、「あなたは/あとを追うことができると/わかった」。この三行で私はとまどう。あるいは感動すると言ってもいい。
 「わかった」の「主語」はだれだろう。「あなた」か。それとも情景を見ていた「わたし(田中)」か。さらには、「あなた」が「わかった」ということを「わたし」が「わかった」のか。
 きっと「あなた」と「落葉」を追いかけて去っていってしまう。
 そのことを、「あなた」がわかり、また「わたし」がわかる。「わかった」。
 「あなた」は去っていかなければならない。「できる」は単なる「可能性」ではない。一種の「決定」である。
 それが、「わかった」のである。

 こういうことはよくある。
 「できる」というのは「予感」に似ているが、「予感」はかならず実現しなければならない。実現してしまう。
 「ことば」ではなく「肉体」が直感でつかみとる。
 「手元からするりと/舞いあがる」の「手元」が「肉体」。「するり」は「肉体」が感じ取った絶対的な何かである。

 「たかが世界の終わり」のラストシーン、ギャスパー・ウリエルとマリオン・コティヤールが別れる瞬間の、まなざしの交流(わかりあうこと)を、思い出すのである。



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グザビエ・ドラン監督「たかが世界の終わり」(★★★★★)

2017-02-12 22:46:37 | 映画
監督 グザビエ・ドラン 出演 ギャスパー・ウリエル、レア・セドゥー、マリオン・コティヤール、バンサン・カッセル、タリー・バイ

 これは、つらいなあ。
 これがカナダ人? カナダに住むフランス語を話す人々、なのか。(私が感じているフランス人とはかなり「人格」が違う。)
 登場人物は5人。主人公以外はしゃべりまくる。ただし、話すことばの「質」は非常に違う。妹、兄、兄の妻、母親。マリオン・コティヤールが兄の妻。彼女だけが「肉親」ではない。そのために「距離」のとり方が違う。「距離」があるために、主人公をいちばん理解しているような感じがする。
 最後のシーン、何か言おうとするが、主人公のギャスパー・ウリエルの唇に指を当てて「しーっ」と身振りで沈黙を指示され、口をつぐむ。彼女だけが、「口をつぐむ」ということを知っている。
 他の家族は口をつぐめない。言わずにはいられない。だから、逆に、うまくしゃべれないという形で会話がぶつかり合う。
 こういう会話、自分の家族とできる?
 私は、できないなあ。したことがないなあ。そのために、なんだかどぎまぎしてしまう。

 まあ、それは置いておいて。

 4人は、なぜ、あんなに感情をむき出しにするのだろう。
 主人公はゲイ。自分が死ぬことをわかっている。それを家族に告げに来た。しかし、言い出せないまま帰っていく、というストーリーなのだが。
 家族は、そしてマリオン・コティヤールは彼の死期が近いということを知っているのだろうか。私は、映画を見ている観客よりも、強く、深く、そのことを知っているように感じてしまった。
 ギャスパー・ウリエルが死ぬとわかっている。12年ぶりに帰ってくる。なぜなんだ。もしかしたら、死ぬのではないか。死ぬ前に別れに来たのではないか。その「予感」のようなものが、ぐいとのしかかってくる。
 それをどう受け入れていいかわからない。
 ギャスパー・ウリエルが何か言おうとすると、それを抑え込んでしまう。言わせたくない。聞きたくないのである。愛しているから、憎んでしまう。
 ギャスパー・ウリエル以上に苦しんでいる。そのために、ことばをうまく発することができない。
 これが、アップの連続でつづく。表情の演技で延々とつづく。
 だんだん、「私は死ぬんだ」というギャスパー・ウリエルの「告白」は聞きたくない、という気持ちになってくる。言わないと、この映画は終わらない。けれど、聞きたくないという気持ちになる。
 それは、だれの気持ち?
 母の気持ち? 兄の気持ち? 妹の気持ち? それとも兄の妻、マリオン・コティヤールの気持ち? 区別がつかなくなる。
 だれに感情移入して気持ちをととのえればいいのか、わからない。
 こういう映画は、私ははじめてである。
 だれに感情移入していいのかわからないのに、そこにあふれる感情にぐいぐいと胸を締めつけられる。

 しかし、マリオン・コティヤールはうまいなあ。肉親ではない、部外者なのに、肉親のなかにまきこまれて、引き裂かれる。引き裂かれながら、その家族をつなぎとめようとする。彼女しか、それができない。だから、そうしなければならないのだが、できない。これを前半は、ひたすらしゃべることで、最後は口をつぐむことで、表現する。

 最後は、「愛の破綻」(愛を失う)を描いているようにも見えるが、「愛の確認」のようにも受け取ることができる。いや、私は「愛の確認」と受け止めた。
 兄も、妹も、母も感情をぶつけて、「家族」がばらばらになる。けれど、それはギャスパー・ウリエルが死ぬことで「家族」が「欠ける」ということに対する「不安」がそうさせるのである。
 マリオン・コティヤールは、「みんな、あなたを愛しているのよ」と言いたい。そのことばを、ギャスパー・ウリエルは「わかっている。言わないでもいいよ」と身振りでさえぎる。そこに、哀しい「和解」がある。彼が死んで「遺体」となって帰って来たとき、家族は悲しみのなかで「ひとつ」になる。(ギャスパー・ウリエルの「遺体」の帰郷は、ラストシーンの小鳥の死骸で暗示される。)「憎しみ」が消える。そうするしかない「家族」という愛。愛の確かめ方。

 こんな苦しみに耐えて生きているのがカナダ人? フランス語を話すカナダ人? (英語を話すカナダ人は違うかもしれない。)
 グザビエ・ドランを、もう一度見直してみないといけないのかもしれない。私は多くのものを見落としていたかもしれない。
 (KBCシネマ1、2017年02月12日)


 
 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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内政問題?

2017-02-12 21:31:13 | 自民党憲法改正草案を読む
内政問題?
               自民党憲法改正草案を読む/番外71(情報の読み方)

 2017年02月12日読売新聞(西部版・14版)は「日米首脳会談」一色。どんな成果があったのか、よくわからない。1面に、

「尖閣に安保」明記

 という見出しが躍っているが、私はどうしても、それでは「北方四島は?」と思ってしまう。いまは無人島の尖閣諸島と違い、北方四島は実際にロシア人が住んでいる。これは、このまま放置? 日米安保条約の適用対象外? 北方四島を「棚上げ」にした安保条約なら、尖閣諸島も棚上げにしておいた方がいいのでは、と私は思う。
 外交とはもともと「二枚舌」でおこなうものなのかもしれないが、「二枚舌」の先に中国敵視の世界観があるようで、どうも落ち着かない。

 気になったのは「日米首脳共同記者会見」の次の部分。

質問 昨日の連邦控訴裁判所の判断について質問したい。今回の判断は大統領の権限行使を再考することにつながるのか。今後、どのように対応するつもりか。
首相 我々は世界において、難民問題、あるいはテロの問題に協力して取り組んでいかなければならないと考えているし、日本は日本の役割を今までも果たしてきた。これからも世界とともに協力し、日本の果たすべき役割、責任を果たしていきたいと考えている。
 それぞれの国々が行っている入国管理、難民対策、移民政策については、その国の内政問題なので、コメントは差し控えたい。

 「入国管理、難民対策、移民政策」は「内政問題」と言い切れるのか。どの問題も、最低二国間にまたがる問題である。ひとつの国の問題ではない。二国間にまたがるなら国際問題である。
 さらに国、宗教を基準にして、「入国管理」が行われるならば、それは「人権問題」である。「人権問題」は「内政問題」ではない。「国境」を超える、人間社会全体の問題である。世界はどうあるべきか、という「思想」の問題である。
 「人権感覚」のない安倍は、平気で日本国内において人権抑圧をはじめるだろう。「テロ等組織犯罪準備罪」の新設は、その第一歩だ。諸外国から日本の人権弾圧を揉んだに漉されたら、安倍はきっと「内政問題だ」と言うにちがいない。
 そういうことを感じさせる。

 だいたいアメリカは、アメリカ国外で難民を生み出す行動をしている。外国の「内政」に干渉している。それもアメリカとは隣接してない遠い国である。それが原因で難民を生み出し、またテロも誘発している。「入国管理、難民対策、移民政策」はアメリカの「内政問題」ではない。むしろ「外交問題」だ。
 たまたま今回の質問は「入国管理」についてのものだが、「移民政策」に目を転じれば、それは日本にも響いてくる「外交問題」である。トランプはメキシコ国境に壁をつくろうとしている。アメリカとメキシコのあいだには「車産業」をめぐる「経済問題」があり、そこには日本の企業も深く関係している。ほとんど「日米経済問題」の様相をみせている。だからこそ、安倍はトヨタの社長とも会談したのではないのか。
 「入国管理」は、そのまま「経済管理」(貿易管理)へと流用できる。日本からの輸出がアメリカの経済を破壊している。高い関税をかけることで日本からの輸入を減らせ、という「政策」を打ち出したとき、安倍は、「どのような関税を設定し、自国の経済を守るかは、その国の内政問題なのでコメントを差し控えたい」と言うのか。アメリカが「アメリカ・ファースト」を実現するためにどんな政策をとろうと、それはアメリカの内政問題と言い切るのなら、それはそれでいい。しかし、安倍はそんなことはしない。アメリカの要求のままに「経済政策」をのんでいたら、今度は日本の経済界からそっぽをむかれる。「企業献金」がはいってこなくなる。
 安倍はここでも得意の「二枚舌」を発揮している。
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山下澄人「しんせかい」

2017-02-11 10:14:59 | その他(音楽、小説etc)
山下澄人「しんせかい」(「文藝春」2017年03月号)

 山下澄人「しんせかい」は第 156回芥川賞受賞作。退屈で、やりきれない。
 芝居出身の人で、「間」を描いている。「間」がテーマである。「間」そのものは、この小説のなかでも芝居の稽古のところに出てくる。そこに出てくる「定義」は無視して、私自身のことばで言いなおすと。
 「間」というのは、人間(個人)がもっている「過去」が「現在」のなかへ噴出してくる瞬間のことである。役者の「存在感」によって具体化される。
 芝居というのは小説と違い「現在」しかない。「現在」から「未来」へと動いていくしかない。「過去」は役者が「肉体」で背負って具体化する。小説なら「過去」として説明できる部分を、「ことば」ではなく「肉体」としてさらけだしてみせてくれるのが芝居。役者(存在感)次第でおもしろくなったり、つまらなくなったりする理由はここにある。
 その「間」、つまり「個人の過去」が噴出してくる瞬間を克明に描こうとしたのがこの小説。しかもただの「間」ではなく、「間抜け」の「間」を描こうとしている。そういう意味では「野心作」なのだが、「野心」が丸見えで、その分、退屈である。ぜんぜんおもしろくない。
 具体的に指摘すると。馬に乗って原生林に入っていく。そうすると「コツコツと固い何かで木を小刻みに叩く音が聞こえてきた。」(文藝春秋、 411ページ)何だろう。

大きな黒い何かが木の幹に縦にいた。鳥だった。それが動くたびに音がした。あれがこの音を出しているのだ。キツツキだ。げんにくちばしで木をつついている。木をつつくからキツツキというのだからそうだあれがキツツキだ。( 415ページ)

 キツツキと気づくまでの「間(時間)」が描かれている。その「間」のなかで動いた意識が、動いたままに描かれている。「木をつつくからキツツキというのだからそうだあれがキツツキだ。」という言い回し(文体)に、この小説で書こうとしている山下の狙いがある。キツツキと断定するまでの、あるいは納得するまでの、自分自身への「言い聞かせ」。そのことばの動きが、ゆるりとうねっている。「間延び」している。
 利発な(?)ひとなら、「木をつつくからキツツキだ」でおしまいのところを、「……というのだからそうだあれが」という「認識」をとおって「キツツキだ」にたどりつく。「間抜け」である。「間(認識の動き)」をくぐらないと結論に至らない。
 おかしなもので、こういう「間」を省略でき(抜かすことができる)るひとを、世間では「利発」という。そして、それを省略できないひと(抜かすことができないひと)を「間抜け」という。「間抜け」というのは「間」を多く抱え込んでしまうひとのことである。
 この「間抜け」という批判と、「間抜け」の実体との「齟齬(矛盾)」を描き抜くということを山下はやろうとしている。
 それはそれで「野心」に満ちていて、とてもいいのだけれど、この「間抜け」が、「現実」そのものを突き破っていかないから、退屈。「間抜け」が過激になればおもしろいのかもしれないが。
 たとえば、ベケットの「ゴドーを待ちながら」は「間抜け」を「時間の重力」にまで凝縮している大傑作だが。

 この「キツツキ」の「間抜け」のあとに、逆の「間抜け」が出てきて、その「衝突」というか、「対比」がこの小説の一番の読ませどころである。
 主人公は栄養失調で農作業中に倒れてしまう。それに気づいた農家のひと(雇い主)が救急車を手配したくて電話をかける。農家の人は主人公の名前を知らない。そこで、

「進藤です」
 を繰り返した。
「進藤です!」
「進藤です!」
 しかしそれは
「じんごうげす」
 にしか聞こえない。
「じんごうげす!」
「じんごうげす!」                       ( 417ページ)

 進藤さんの意識のなかでは、スミト(主人公)が倒れた、病院に運ばなければという意識が動いている。全力で突っ走っている。「説明」しなければいけないことがたくさんあるのに、その「説明方法」がない。ともかく「進藤です」と名前を告げることで、相手に察知してもらうしかない。しかし、急ぎすぎているので、いつものように「じんごうげす!」となまったままに言ってしまう。他人に理解してもらうという配慮が抜けて、他人に伝えたいという思いが先走る。そのために混乱する。
 これは、一般的な「間抜け」。そんなに急ぐなよ。落ち着け、といわれる瞬間だ。しかし、ここで「間」をきちんととってしまうと、今度は「劇」が消えてしまう。
 このシーン、舞台での上演を想像してもらうとわかりやすいが、「じんごうげす!」に「間」があっては間延びしてしまう。電話で対応しているひとの声を突き破って「じんごうげす!」が動くとき、緊迫感が出る。
 ここだけ、主人公の視点からふっきれた「他人」が登場している。「間」の違いが「他人」をつくりだす。
 
 「間」はいつでも「適切」であることが求められるものなのだ。

 この小説が退屈なのは、主人公のなかで「間」の変化がないからである。「間抜け(間延び)」のまま。「じんごうげす!」のような「認識」を突き破って、ことば、肉体が動く瞬間がない。「間」のない「間抜け」がない。
 「ゴドー」でさえ、「肉体」がことばを突き破っているのに。

 倉本聡の「富良野塾」をやめた(やめさせられた?)きっかけのなかに、「じんどうげす!」のような「緊迫の間抜け」があるのかもしれないが、私は小説からは読み取れない。
 倉本聡、「富良野塾」という「過去」がなかったら、「小説」になっているかどうかもわからない。芝居で言えば、倉本聡、「富良野塾」という存在感(肉体)によりかかっている作品ということになる。



 「選評」もひどい。川上弘美が積極的におしているのだが、「なんだかいいんですが、うまく説明できないんです」としか言っていない。ことばで金をとっているのだから、「うまく説明しろ」と私は思わずどなってしまう。。吉田修一は「空振り」という比喩で評価しているが、倉本聡、「富良野塾」というスター投手(?)に素人が「空振り」するなんてあたりまえ。「空振り」に「華」がなければ、意味がない。私は直接見たわけではないが、新人の長嶋が金田相手に三回連続「空振り」をしたときのような「華」がなければ「空振り」とは言えないだろう。
 なんだか山下の先生(?)の倉本聡、富良野塾、文藝春秋の「売り上げ」に配慮して受賞作を決めたという感じのする、こざかしい選考評である。こざかしいは「間抜け」ということでもある。
 村上龍がかろうじて「批判」しているが、はっきりと「だめ」といわないはだらしない。こんな口籠もり方は、やはり「間抜け」に見えてしまう。


しんせかい
クリエーター情報なし
新潮社
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危険な共同声明

2017-02-10 12:48:28 | 自民党憲法改正草案を読む
危険な共同声明
               自民党憲法改正草案を読む/番外71(情報の読み方)

 2017年02月103 日読売新聞(西部版・14版)1面に、次の見出し。

あす日米首脳会談/「尖閣に安保」共同文章に/最終調整 中国けん制前面/南シナ海懸念も表明

 目が痛いので記事は引用しない。
 これは、とても危険な「共同声明」になる。
 尖閣諸島をめぐっては中国とのあいだと「領有権」問題が確定していない。そこに日米安保条約を適用するのは「運用」の問題だが、「明文化」することは別問題。
 ほとんど「宣戦布告」に等しい。

 安倍は、同じように「北方四島は安保条約の適用範囲である」と明文化するか。
 明文化した場合、ロシアの実効支配にあることを、どう国民に説明するか。占領されたまま、放置しておく理由を説明できるか。
 説明できないから、「北方四島は安保条約の適用範囲である」とは明文化しない。

 尖閣諸島には、現在、人は住んでいない。
 そういうところは、わざわざ「安保条約の適用範囲」と明文化しないで、安倍の好きなことばで言えば「静かに環境」置いておけばいい。領土問題は「棚上げ」にしておけばいい。
 外交問題には「棚上げ」「保留」という「解決方法」がある。それがいちばん安上がりで安全な場合もある。
 もちろん、中国が占領してくる(基地を造る)ということになれば、そのとき日米で対応すればいい。明文化しないでも、そういう「保障」をとりつけるのが外交というものだろう。水面下で「確約」をとっておけばいい。
 これを信頼関係という。
 明文化しないと、アメリカが守ってくれるかどうかわからないというのであれば、安倍とトランプの「信頼関係」というのは、たかが知れている。

 「尖閣に安保」を明文化するというのは、中国を刺戟するだけである。
 安倍は、中国と戦争したいだけなのである。中国と戦争をするために、なんでもしようと画策している。
 日本の安全のことなど、何も考えていない。

(目の調子が悪いのだが、どうしても書かずにはいられない。)

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閻連科『年月日』

2017-02-05 11:52:14 | 詩集
閻連科『年月日』(谷川毅訳)(白水社、2016年11月20日発行)

 閻連科『年月日』は大旱魃の村に残り、一本のトウモロコシを育てる七十二歳の老人と目の見えない犬の話。
 ガルシア・マルケスの『百年の孤独』を連想させる。『百年の孤独』は雨が降り続くのに対し、『年月日』は旱魃がつづく、と「設定」は違うのだが、「寓話」を感じさせる。「毎日毎日数珠つなぎに出てくる太陽」という、主人公の暮らし(土の匂い)を感じさせる描写が強い。もっとも「数珠つなぎ」ということばで私が思い出すのは仏教の数珠、私の父や母がつかっていた数珠であり、中国ではかならずしも数珠が日常的ではないかもしれないが。(原文がどうなっているのかわからないが。)で、この「数珠つなぎ」ということばによって、私はこの作品の舞台を、知らず知らずに「日本の田舎(私の生まれ育った土地)」に置き換えて読んでしまう。私の育った田舎では「大旱魃」はなかったが、農村の暮らしは、どこか共通したものがある。そういう共通のものをとおして、私は「寓話」のなかへ入っていくのだが……。

トウモロコシが夜のうちにミシミシパリパリ音を立てながら大きくなり、さらに指二本分ほど伸び、(4ページ)

 ここで、完全に『年月日』の世界に飲み込まれてしまう。私の中にある田舎の暮らし(百姓の暮らし)の大部分が洗い流され、一部だけが「ストーリー」になっていく。「意味」になっていく。そして、それが私の「肉体」の「内部」をえぐり始める。
 トウモロコシは育つのが早い。すぐ大きくなる。それは知っている。しかし「夜のうちにミシミシパリパリ音を立てながら大きくなり」というのは知らなかった。植物が大きくなるときの「音」を聞いたことがなかった。
 もしかしたら聞こえたのに、聞かずに育ってしまったのだ。なんだか、ここで私は悔しくなる。もっと耳をすましてトウモロコシが育つときの様子を見ればよかった。中学生の頃、急に身長が伸びる。そのとき、体のなかで骨や筋肉が「ギシギシ」というか「ミシミシ」というか音を立てているように感じる、と言われれば、そういうことを思い出す。それと同じことがトウモロコシに起きている。そうなのだろうと思う。主人公の老人は、トウモロコシそのものになっている。老人でありながら、トウモロコシになって生きている。この人間と自然の「一体感」というのは、農業をやっているひとにとっては共有できる感覚だと思う。その「共感」というか、自然と人間をつなぐものに「音」がある、「音」をとおして「共感/実感」しているということに触れ、私の「肉体」そそのものが生まれ変わる感じがする。
 随所に出てくる音をつかった表現が、描かれている世界を新鮮に、強烈にする。いままで気がつかなかった世界が音と一緒にはじまる。それは、読んでいる私の「肉体」そのもがたたき壊され、生まれなおす感じなのである。そうか、耳を鍛えれば、こういう音が聞こえるのか。世界はこんなに豊かに鮮やかになるのか。私は耳をつかわずに生きてきたなあ。こういう音を聞く閻連科の肉体はすごいなあ。強靱だなあ。驚きながら、私は興奮してしまう。

日の光は活力を取り戻し、強く硬く照りつけ、地面からはプチプチと、サヤマメの皮が日の光にさらされてはじけるようなはっきりとした音がしていた。(16ページ)

 「プチプチ」は硬い地面にぶつかった光の反射音。これにサヤマメがくわわることで、「物理(抽象)」が「暮らし」そのものになる。サヤマメのはじける音というのは、百姓ならば「肉体」で覚えている。だから「肉体」で納得してしまう。

耳を葉っぱにつけてみると、先じいにはその斑点が増えていくチリチリという音が聞こえた。(69ページ)

 たとえば風疹になったとき、斑点が肌に増えていく。そのとき「肉体」の内部では熱が出てくる。「チリチリ」という音が、あのとき聞こえていたかもしれない。トウモロコシの描写なのに、人間が病気のときの「実感」が重なってしまう。実際に風疹のときは気づかなかった(気にしていられなかった?)音が、確かに「肉体」にあったのかもしれない。これもトウモロコシと人間の「肉体」が一体になった音である。人間がトウモロコシになって、発し、聞いている音。

両者(オオカミと老人)の視線はぶつかり、がらんとした峡谷の中に、目に突き刺さるようなヒリヒリする黄色い音をこだまさせた。(78ページ)

 視線が衝突するという描写は慣用句だが、「ヒリヒリする黄色い音」は「流通言語」を突き破る。「ヒリヒリ」は「音(耳)」というよりも「触覚(肌)」で感じるもの。「黄色」は「耳」ではなく「目(視覚)」でつかみ取るもの。「音」なのに、そこに触覚と視覚がとけあっている。そして、それが強い力で迫ってくる。
 こういう「感覚」をことばにできる「肉体」があるのだ。閻の「肉体」のなかでは感覚が「器官」の区分を超えて、融合し、動き、新しく生まれている。そのなまなましさが強烈に迫ってくる。

 もちろん、やさしい音、静かな音もある。

トウモロコシの苗は一日一日と伸びてゆき、静かな夜にはその伸びゆく音がかすかに優しく聞こえてきた。ぐっすり眠った赤ん坊の寝息のようだった。(28ページ)

 トウモロコシと赤ん坊が一体になっている。

静かな夜中に響く鋤の音は、単調ではあるが朗々としていた。民間芸能の独演会のように山々の遠くまでゆったりと伝わっていった。(46ページ)

 「ゆったりと伝わっていった」が、とても気持ちがいい。

 閻のことばで、世界全てが生まれ変わるような感じだ。その特徴は「既成の感覚(流通感覚)」によって分節された「流通現実」をいったん未分節の世界に引き戻し、「未分節の感覚(融合した感覚)」によって新しく生み出すところにある。
 次の例は、聴覚と視覚の融合が生み出した新しい現実世界。鞭を太陽に向かって振り回す場面。

鞭は、空中でへびのようにくねると、先端が青白い音をヒュンヒュン響かせ、日の光がナシの花が散るように飛び散り、あたり一面日の光のかけらで埋め尽くされ、村中に年越しの爆竹の音が響き渡っているようだった。(40ページ)

 この感覚の融合は、光に重さまで与えてしまう。

日の光が強くなると光が重さとなってのしかかってくるのだ。(略)日の出のとき、小屋のまわりでは二銭、昼時になると四銭ちょっと、日が沈むときにはまた二銭に戻った。(48ページ)

 こういういきいきとした新しい感覚で生み出される世界のなかで、老人と犬は一本のトウモロコシを守りながら、「寓話」はこんなふうに結晶していく。

わしの来世がもし獣なら、わしはおまえに生まれ変わる。おまえの来世がもし人間なら、わしの子どもに生まれ変わるんだ。一生平安に暮らそうじゃないか。先じいがそこまで話すと盲犬の目が潤んだ。先じいは盲犬の目をふいてやり、また一杯のきれいな水を汲んで盲犬の前に置いた。飲むんだ。たっぷりとな。これからわしが水を汲みに行くときは、おまえがトウモロコシを守るんだ。( 104ページ) 

 涙が出ます。

 (目の具合が悪くて、しばらく休むつもりだったのだが、読み始めたらおもしろくてやめられない。感想を書かずにいられない。でも、ほんとうに、しばらく休みます。検診が終わったあとで、状況を見て再開します。)

年月日
クリエーター情報なし
白水社
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しばらく休みます(代筆)

2017-02-03 23:58:49 | その他(音楽、小説etc)
しばらく休みます。(代筆)
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岩田亨『聲の力』

2017-02-03 10:28:11 | 詩集
岩田亨『聲の力』(角川書店、2016年04月25日発行)

 岩田亨『聲の力』は歌集。ことばを声に出すことによってつかみとった力。それをもう一度ことばに返す。そうやってできた歌集。
 ということなのだが。
 私は岩田の声を聞いたことがない。また、私は黙読しかしない。だから、この歌集を読んでも、そこに書かれていることの半分もつかみ取ったことにはならないと思うのだが、感想を書いてみる。

聲を撃つ夜(よ)の地下室の空間の響きよ無限の世界へ届け

 「聲の力」という連作の第一首。この歌集の全体を引き受ける短歌。
 「意味」は「理解できる」。「の」の繰り返しによって、ことばが「音楽(リズム)」に変わっていこうとしているのも「理解できる」。「夜(よ)」と「響きよ」の「よ」が遠くで響きあっているのも「理解できる」。
 でも、それは「頭」で「理解する」のであって、「わかる」という感じにはならない。実際に声を聞けば違った印象になるかもしれないが、「肉体」に迫ってくる感じがしない。声がとどくという感じではなく、遠くで「意味」が動いている感じがしてしまう。
 目で読んでいるせいかもしれない。

わが内に未知なるものが目覚めるか宙に放てる聲の力に

詩人らが一時間余り撃つ聲を聞くときわれは目をつむりたり

大いなる聲の波動を受け止めてわれの内なる何かが変わる

 書かれている「意味」は理解できる。でも、私の「肉体」は反応しない。
 かなり意地悪な読み方になってしまうが、「詩人らが」の一首、「目をつむりたり」というのでは、その詩人の作品(声)はたいしたものではない。目を開けていては集中できないとしたら、声に魅力がないということだろう。声が強いとき、思わず声の方を「見る」。つまり人間は「目」でも「聞く」。耳に聞こえてくる以外のものを「肉体」の「全身」をつかってつかみ取ろうとする。そういう「反応」を引き出さないとしたら、作品はあまりおもしろいものではなかった、ということにならないか。
 「大いなる聲の波動を受け止め」たのは岩田の何か。「われの内なる何か」では抽象的すぎる。
 岩田は「聲」とわざわざ複雑な漢字をつかっているのだが、こういう漢字をつかうとき、「抽象的な意味」がすでにまぎれ込んでいる。抽象に抽象が反応している。「頭」でことばを「理解している」という感じがしてしまう。

 「祈り」という連作は啄木の三行短歌のように三行で書かれている。「改行」がある。私が「黙読」しているせいかもしれないが、この方が「音」を感じた。

しみじみと
わが原罪を浄化する
太陽の風 月よりの波。

しんしんと
わが精神を凝らせる
聖地にて聞く 神々の聲。

期せずして
わが魂をゆるがせる
女神イシスの強きその意志。

 改行がリズムの変化になる。リズムが自然に聞こえ、リズムの力を得て、ことばが一瞬「意味」から開放される。「原罪」「浄化」「精神」「意志」というような「漢字熟語」には明確な「意味」があるのだが、その「意味」を一瞬忘れて、「音」そのものとして私は感じてしまう。
 「現代詩」のリズムがことばを軽やかにしている。
 「軽やか」なものではなく、「重いもの」「厳しいもの」を書こうとしているのかもしれないが。

 で、ここから「短歌」にもどって考え直すのだが。

 短歌は通常改行を含まず、一行で書かれる。そのとき、ことばは一行の中で、どんなぐあいに動いているのか。ただ一直線に突き走るのか、うねるように動くのか。そのとき、「ことばの肉体」はどんなふうに私の「肉体」に響いてくるか。
 私は一直線に走ることばも好きだが、一行(一首)のなかで「うねり」がある短歌の方が好きである。「うねり」が「肉体」のなかで、力を矯めて、矯めることによって、より強くなって動き始める感じ。「反動」のようなものが「肉体」につたわってくる。

藁屋根を支える梁を包みゆき囲炉裏のけむり立ちのぼりたり

 「支える」「包む」という「動詞」は「動かない」。それが「立ちのぼる」というまっすぐに動く「動詞」を引き出してくる。こういう「動詞」どうしの反応が「肉体」の奥へ響いてくる。
 田舎の家と囲炉裏と煙を描写しているのだが、そこにつかわれる「動詞」は「肉体」に響いてくる。私の「肉体」は「煙」になって梁を「包み」、「立ちのぼる」。そのとき「藁屋根」も「支える」。実際に支えているのは「梁」だが、その「梁」を「包む」ので、煙が「支える」という感じにもなる。「包む=抱擁」は、「支える」。
 こういう流れるようなうねりは「改行」してしまうと味が落ちる。

ゼッケンの紐結びつつ永田町一番出口を急ぎ出でたり

 「結ぶ」という「とまる」動き。それが「出る」という動きに変わる。「一番」も「急ぎ」も、その動きをあおる。「とまる」動き、「結ぶ」がその全体の「底力」となっている。「つつ」も効果的だ。

海外への派兵の決定なされたる今日多喜二忌の案内とどく

 こうの作品は「派兵決定」という烈しいものに、「忌の案内」というものがぶつけられ、「動きをとめる」力が働く。内向する、といえばいいのか。踏みとどまれ、という「いのり」のようなものがうまれる。「多喜二」という固有名詞が「いのり」の形を決定づける。
 「改行」しても読めるけれど、「一行歌(短歌)」の方が力が強くなると感じた。

歌集 聲の力 (新運河叢書)
クリエーター情報なし
KADOKAWA
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伊口すみえ「冷蔵庫には昨日の中身が詰まっている」、深沢レナ「病室」

2017-02-02 08:59:08 | 詩(雑誌・同人誌)
伊口すみえ「冷蔵庫には昨日の中身が詰まっている」、深沢レナ「病室」(「プラトンとプランクトン」3、2016年11月23日発行)

 伊口すみえ「冷蔵庫には昨日の中身が詰まっている」はゼリーが食べたいと思い、ゼリーをつくる詩。

ゆっくりと かき混ぜる
混ぜながら 細胞が1つ死んで
(3つか4つかもしれない)
また誰かいい子が その細胞を埋めた

 「細胞」はゼリーの細胞か。かき混ぜている「わたし」の「肉体」の細胞か。よくわからない。「わたしの肉体の細胞」と思うとき、同時に「わたしの生きる世界」の比喩のようにもみえる。「いい子」ということばが、そんなことを考えさせる。

(熱くてなかなか固まらない)
鍋からのぼる湯気が 夜を吸いとり
わたしの中で 細胞はふつふつと
生まれていく

 「死んで」と「生まれていく」は反対のことだから、死んでいくのはゼリーの細胞、生まれていくのはわたしの細胞ということになるのか。
 しかし、これも「比喩」とみることができる。
 「いい子」が現実なのか、比喩なのか。
 たぶん、両方なのだろう。
 こういう言い方はいい加減かもしれないが、断定してしまうときっと違うものになる。あるときはゼリー、あるときはわたし、あるときは誰か。入れ換えながら、漠然とつかみとるのが詩へ近づくことになると思う。

今朝起きると
昨日まで食べたかったものが
もうすっかり食べたくなくなっている
鍋底をかき混ぜた右手は重く
丹念に溶かした欲望は消えて
昨日合った辻褄が
今日はもうちぐはぐだ
ぷるぷるに固まったゼリーを
ひとさじ口に運んでみる
すぐに唾を飲んで 舌に残る甘さを追い払う
スプーンを置き 透明のラップを器にかける
食べたかった私は 誰だろう

 一連目(省略して引用したので、全行ではないのだが)の、ゼリーともわたしとも「世界のあり方(世界で起きていること)」ともとれることが、

昨日合った辻褄が
今日はもうちぐはぐだ

 という「論理」を追いかけることばを中心にして、「わたし」の方にぐいっとしぼりこまれてくる。「辻褄」を考えるのは、「わたし」だから。
 それでも、それがそのままわたしになるわけではなく、「食べたかった私は 誰だろう」(ここだけ、漢字)ということばで、開放される。昨日のわたしと今日のわたしは「同じ」ではない。ゼリーが「桃のジュース」と「ゼラチン」のまざったものであるように、昨日のわたしと今日のわたしが混ざって一つになっている。それを「今日のわたし」と言ってしまうと簡単なのたが、言えない。「肉体」は「ひとつ」なのに、それが「ひとつ」だからといって、わたしが「ひとつ」とは言えない。
 ここでもやっぱり、断定はしないで、入れ換えながら「誰」という形の定まらないままにしておくのがいいのだと思う。
 わたしという存在は「ひとつ」、そう知っているけれど、その知っていることを語ろうとするとわからなくなる。わからないときだけ、しかし「ひとつ」であることが鮮明になる。そういう「矛盾」の美しい拮抗がある。

冷蔵庫の扉を開けると
縮こまっていた冷気が
わたしの真新しい細胞をくすぐった
一番奥にある皿を引き抜き 流しへ捨てて
黄色いゼリーの入った容器を
空いた隙間に 無理やり突っ込む
隣には いつかの食べかけの皿たちが
隙間なく身を寄せ合っている

 散文性の強い描写だが、この散文性が「論理(辻褄につながる動き)」を支えていておもしろい。ほんとうは「飛躍」したいもの、「暴走」したいものが、ことばの奥に動いている。「論理(散文)」ではつかみ取ろうとしてもつかみとれない何かがあるのだが、それをいきなり爆発ささせるのではなく、ていねいに確かめようとしているところが、「矛盾の美しい拮抗」を感じさせる。
 その拮抗を抱えたまま、詩は、こんなふうに終わる。

その表面にピタリとはりついたラップは
どれもこれも白く曇り
皿の中身は
素知らぬ顔で
わたしの冷蔵庫を埋めつくしている

 その皿は、「細胞」だろうか。そうだとすると、わたしは「冷蔵庫」になってしまわないか。
 いや、冷蔵庫をわたしの比喩と考えればいいのか。
 何か、混同してしまう。
 食べ残しの皿、ラップのかかった皿が「細胞」の比喩。わたしは冷蔵庫の比喩。それとも冷蔵庫がわたしの比喩。
 ラップは? 白い曇りは?
 単なる描写?
 そんなことはないなあ。
 全部がわたしであって、わたしではない。わたしではないからこそ、わたし。「細胞」がうまれかわりながら、「全体」はうまれかわらずに「ひとつ」に維持されている。何と何を入れ換えて説明すれば論理的(辻褄)になるのかわからないが、それが「生きる」ということなのか。

 「論理の関節」を外してしまって書くのではなく、「論理の関節」をひねりながら、「肉体」そのものの、内側と外側を「浸透させ合う」という感じの文体が、とても気に入った。
 日常のことばをていねいに働かせているのも気持ちがいい。



 深沢レナ「病室」は認知症の母親に手こずる詩。「蛇が出る」「指輪を看護婦に盗まれた」と訴えかけてくる。何とか寝かしつけて病室を出る。その最終連。

ベッドの脚をするすると伝いリノリウムの床へと降りて
かろうじて窓から入り込む風で開いたドアの隙間から部屋の外に出ていくと
廊下に新品のエタノールの匂いが充満していて大きく息を
すっ
と吸い込むと鼻の奥が痛み
それが気持ちよかった

 最後の「それが」がとてもいい。なくても「意味」は通じる。しかし、ないともの足りない。「痛み」をしっかりと反芻している。そのあとで気持ちが動く。
 そして、ここまで読んできて、それまでの繰り返しが何だったかがわかる。私が要約したように「認知症の母に手こずる」では実感にならないのである。起きたことを、反芻する。ことばにする。そのとき、初めて気持ちになる。そういう詩。長いので最後の数行だけの引用になってしまったが。



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井坂洋子『七月のひと房』

2017-02-01 17:05:40 | 詩集
井坂洋子『七月のひと房』(栗売社分室、2017年01月25日発行)

 井坂洋子『七月のひと房』に一篇、変わった詩がある。「入口」。

 彼は腐った藁の上に身を横たえるときも、目を離さず天空をに
らんでいた。月のひかりがまっすぐに射し込み、床一面、反射で
明るい。淫らな空想をして亢奮するのを、月の女神はじっとごら
んになっているのだ。
 彼は牢番の子として、鉄条網に沿って何周かしたあと、きまっ
て自涜したくなった。

 散文形式で書かれている。なぜ一篇だけ散文形式の詩を組み込んだのだろう。この作品と他の作品はどんなふうに呼応しているか。あるいは呼応していないのか。よくわからない。
 「淫らな空想」は後半で、こう書き直されている。

 月の女神の尻を割った入口を、舌で浚うという彼の空想も、日
がたつにつれて色褪せてくるばかりである。

 こういう「散文」形式の作品を読むとわかりやすいのだが、人は、たいてい言いたいことを繰り返す。
 「淫らな空想」と「自涜(する)」ということばは、最初は別々にあったが、「月の女神の尻を割った入口を、舌で浚う」では「ひとつ」の「文」のなかにある。そのとき、何か「論理(言いたいこと)」のようなものが「世界」を統一する。そうすることで散文性が強くなる。散文は「結論」を求めて動いてしまう。
 詩は、逆である。「結論」を突き破るものだろう。
 この作品の最後の部分は、こうなっている。

 女神の尻を割った入口がぴったりと閉ざされて、そこから日常
の時刻がうすい水を撒きはじめるのだ。

 この行が「結論」を破るものかどうか、即断はできない。「うすい水」の「うすい」に井坂らしさを感じる。そこに詩があると感じるが……。

 で。と、ここから私は飛躍する。(と、いうことばで、強引に「論理」を動かす。)
 この作品を読んで、それで私は「結論」に満足したかというと、そうでもない。「散文」として破綻はしていないが、「結論」には興奮はしない。
 では、なぜ、この作品について何かを書いてみようと思ったのかというと。
 「結論」、あるいは「言い直しの論理」という「散文性」とは違うものが井坂のことばの中にあり、それが詩を動かしているということが、この作品から導き出せるかもしれないと感じたのだ。それが井坂の作品の「水先案内人」になるかもしれない、とふと思ったのである。

 どういうことかというと。

 作品の書き出しにある「身を横たえる」は夜になり、眠る、ということ。彼の上には「天窓」があり、「月」が見える。月は明るく、床さえも「反射」で輝いている。ほんらい暗いはずのものが明るいという矛盾。あるいは「変質/変化」が、「空想」を刺戟する。そこにないものを「見える」と感じさせる。感覚が「矛盾」を意識すると、「矛盾」を「矛盾」ではないものにしようとして、「空想」が始まるのかもしれない。「空想」のなかの「論理」が世界を整えなおすといえばいいのか。
 この不思議な「論理」と、そういう「論理」ではいやだという「肉体(感覚)」の拮抗のようなものが、ことばのなかで動いている。
 ほの暗いもの、生暖かいもの、ぬるいもの。そういう「嗜好」が、井坂のことばの奥を動いているのが感じられる。「論理」の「明晰さ(明るさ)」くぐもらせる。そういう「嗜好」が何かと「共感」しようとしている。ともに生きようとしている感じがする。
 「腐った藁の上」の「腐った」や「牢番の子」の「牢番」。その「肯定的」なものを含まない何か。そこに踏みとどまろうとする何か。もちろん、それはそれで「肯定的なものを含まない」という「論理」にもなっているのだが。
 ただ、それは「絶対的」ではない。「肯定的なものを含まない」ということを貫いて、世界を完結させるわけではない。それをめざしているわけではない。

 ゆるさの維持、持続、と言いなおせばいいのかもしれない。

 他の作品に移る。「ゆるさの維持(持続)」というか、共感かなあ。それを、たとえば「六月の耳」の次のような部分に、私は感じる。

こさめの音に耳をすませる
それだけでいっぱいになってしまう
ふつうの雨はうるさいから
ちょうどいい降りぐあい

 これを「散文」で言いなおすのは難しい。「ふつうの雨」は「耳をすまさなくても」音が聞こえる。「小雨」は耳をすまさないと、よく聞こえない。しかし「耳をすますと」、その小さな音が耳を「いっぱい」にする。
 ここには不思議な矛盾がある。そして、その矛盾が「肉体」をくぐりぬけるとき、「矛盾」ではなく「ちょうどいい」ものになる。
 「矛盾」を「ちょうどいい」ものにする「肉体」に井坂は寄り添っている。
 そう言えると思う。
 「肉体」が「矛盾」を整え直している。そのとき、その「肉体」そのものが、不思議なてざわりで見えてくる。他人(井坂)の肉体なのに、あ、この肉体は知っている、と感じる。私は「覚えている」と感じる。覚えているものを「思い出す」感じ。
 (ということを、何とか、「入口」で書いた「矛盾」と「空想」と「整える」につなげたいのだが、舌足らずの私のことばでつながったかな?) 

 詩は、このあと、こうつづいている。

かさをさして
買いものにでた
ばあちゃん きをつけて
しきいの子ガエルをふまないように
孫娘の声がする
三びき いた
商店街も
立ち寄りたい店もなくなってしまった
のを ふしぎと思わないが
あめがふると昔がもどってくる
耳なりがやむよ
とおじいさんはいう
もどると
右腕をたたんで枕にし 横向きに寝ている
おじいさんの耳も 庭のアジサイも
こさめにかこまれて薄くひらいていた

 「孫娘の声」の部分は、この詩の「起承転結」の「転」にあたる。いったん「音」ではなく「声」(さらに、カエルという異質のもの、ただし「雨」という共通を含む)を経て、音にもどる。

あめがふると昔がもどってくる
耳なりがやむよ

 これは

こさめの音に耳をすませる
それだけでいっぱいになってしまう

 と対になっている。
 「うるさい音(耳鳴り)」を消して、静かな雨音が耳をいっぱいにする。その静かな音が聞こえるうれしさ。「昔」の健康な耳がもどってくる。
 それはそのまま「音」がもどってくると「誤読」したい感じである。
 この「もどる」を起点にして、最後の四行が「結(論)」を突き破っていく。「散文性」を否定し、詩そのものとして開かれていく。
 耳をいっぱいにした音が、自らの力で「花」になって開いていくような感じ。「うすく」とあえて、強いものを弱く、しずかに浮かび上がらせるところが「井坂節」というのかもしれない。「ほのか」とか「ぬるい」とか「ゆるい」という感じ。それが「肉体」にやさしい。「肉体」というよりも「肌」を実感させる。

黒猫のひたい
井坂洋子
幻戯書房
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