詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy loco por espana(番外篇186)Obra, Jaume Marzal

2022-09-06 19:57:16 | estoy loco por espana

obra, Jaume Marzal

 

La pintura fluye hacia abajo.
Me parece que una persona aparece aquí y ahora.
Todavía no está presente del todo.
Es como si estuviera empezando a existir.
Una fuerza que se mueve hacia el ser.

流れ落ちる絵の具。
それは、まるで人物が、いま、ここにあらわれてくるように見える。
まだ完全には存在しいない。
これから存在することをはじめる、という感じだ。
存在することへ向かって動く力。

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読売新聞の特ダネ記事の書き方(その読み方)

2022-09-06 09:38:00 | 考える日記

 2022年09月06日の読売新聞(西部版・14版)に、安倍国葬を巡る、岸田支持の記事が書かれている。
↓↓↓↓
「国の儀式」に国葬想定/内閣府設置法 法解釈 2000年文書に明記
↑↑↑↑
 この見出しを読んで、いったい、何人が書かれている記事の内容を正確に把握できるだろうか。詳しく読み直したりはせず、簡単に「安倍国葬」に「法的根拠がある」と思うだろう。
 記事(前文)を読むと、こう書いてある。(番号は、私がつけた。)
↓↓↓↓
①政府が、2001年1月の内閣府設置法施行前から、内閣府所管の「国の儀式」の一つに「国葬儀(国葬)」を想定していたことが分かった。②00年作成の内部文書に明記されていた。③安倍晋三・元首相の国葬実施が決まる前から、政府の法解釈が維持されていることを示すものだ。ただ、国民に理解は広がっておらず、丁寧な説明が求められる。
↑↑↑↑
 ①注意しなければならないのは、まず「分かった」という書き方である。どうしてわかったのか。「読売新聞の調べでわかった」とは書いていない。独自に調査したのではない。だれかから教えられたのだ。つまりリークされた「特ダネ」なのである。
 ②は、内部文書の作成時期が安倍殺害前なので、時系列的にみて、国葬の根拠になるということだろう。しかし、それはあくまで「内部文書」である。つまり、公開されていない。そんなものを「根拠」といわれても、誰も納得できないだろう。③に関係するが「内部文書」なのだから「国民に理解は広がっておらず」は当然のことであり、こういう「内部文書がある」だけでは「丁寧な説明」にはなりえない。
 で、これは①につながるのだが、読売新聞はどうやってその「内部文書」を手に入れた? 書いていない。つまり、記者が自分で調べたのではなく、政府関係者が「これを書いてくれ」と提示したのだ。言い直すと、政府に代わって、読売新聞が「丁寧に声明」しようとしている。政府の「代弁」をしている。
 記事を読んでいく。
↓↓↓↓
④内部文書は00年4月、政府の中央省庁等改革推進本部事務局内閣班が作成した「内閣府設置法コンメンタール(逐条解説)」。同法4条が所管事務に挙げる「国の儀式」には〈1〉天皇の国事行為として憲法が定める儀式〈2〉閣議決定で「国の儀式」に位置づけられた儀式――の2種類があると説明。〈2〉の例として、「『故吉田茂元総理の国葬儀』が含まれる」としている。
⑤岸田首相は7月14日、この解釈に沿い、国の儀式として安倍氏の国葬を行う方針を発表し、同22日に閣議決定された。
↑↑↑↑
 ④は「内部文書」の説明。問題の「内閣府設置法」というのは「平成11年(1999年)」にできている。「内部文書」は読売新聞の報道では「00年(平成12年)4月」に作成されている。最初からあったのではなく、あとでつくられたもの。だから法案ができたときは、だれもそれを知らない。もちろん法案を審議するとき、その問題が討議されたかもしれないが、それならば、多くの国会議員が知っているだろう。どうも、そうではないように思える。
 問題の内閣府設置法の4条(3項33号←これは、記事には書いておらず、表の中に書いてある)というのは、詳しく見ていくと。
↓↓↓↓
第4条 内閣府は、前条第1 項の任務を達成するため、行政各部の施策の統一を図るために必要となる次に掲げる事項の企画及び立案並びに総合調整に関する事務(内閣官房が行う内閣法(昭和22年法律第5 号)第12条第2 項第2 号に掲げる事務を除く。)をつかさどる。
(略)
3 前二項に定めるもののほか、内閣府は、前条第2項の任務を達成するため、次に掲げる事務をつかさどる。
(略)
三十三 国の儀式並びに内閣の行う儀式及び行事に関する事務に関すること(他省の所掌に属するものを除く。)。
↑↑↑↑
 内閣設置法を読むだけでは「国の儀式」が何を指すかは「特定」できない。だからこそ、「内部文書」が必要なのだろうが、その「内部文書」が法の成立後にできているということは、法が成立する前は、そのことが審議されなかったことを意味するかもしれない。審議済みであれば、「内部文書」よりも、その「討議議事録」を明示する方が、「法的根拠」になる。つまり、このことは国会で審議しており、野党も了承済みと言えるのだが、そういう書き方をしていない。
 だからこそ、政府のだれかからリークされたことを、そのまま、書き流しているのだと推測できるのである。
⑤は、あたかも岸田が最初からそれを知っていたかのように書いているが、もし最初から知っていたのだったら、いまごろになって「丁寧に説明する」ではなく、最初の段階で、「国葬」は内閣府設置法4条にもとづく。該当項目は3項33号。2000年の「内部文書(逐条解説)」に明記されている、と言える。
 そうしなかったのは、知らなかったからである。
 国葬が問題になってから、すでに一か月以上たつが、その間に、誰もこの「内部文書」のことを言わなかったのは、だれもが知らなかったからである。やっと「内部文書」を見つけ出し、読売新聞に提供し、あたかも「特ダネ」のように報道させている。政府関係者(あるいは岸田)がいま公表すれば、なぜ、それを最初に言わなかったのかと批判されるからである。でも、読売新聞に「スクープ」させれば、そういう批判は避けられる。私のように、読売新聞は政府の代弁をしているというような批判がせいぜいである。

 さて。
 読売新聞の「見出し」にもどる。
↓↓↓↓
「国の儀式」に国葬想定/内閣府設置法 法解釈 2000年文書に明記
↑↑↑↑
 この見出しは「文書」とは書いているが「内部文書」とは書いていない。ここが「大きなウソ」の第一歩。「文書」という表現にであえば、たいていの読者は「公式文書」と思う。「法解釈」に関係する文書なら、なおさらだろう。
 しかし、その文書は「内部文書」なのである。だれも知らない。関係者しか知らない。それを「法的根拠」というのは、どうしたって無理がある。
 さらに「内部文書」で「吉田茂の国葬儀」が含まれると書いているからといって、それが安倍に適応できるかどうかは別問題である。統一教会の宣伝マンをやっていた、森友学園、加計学園、桜を見る会(前夜祭)などの「未解明」の問題がある。そういう問題を棚上げにして、「内部文書」を適用した、というのは、単なる政府の言い分である。
 「特ダネ」をリークされたら、それを報道することの「意味」も検討しないといけない。新聞にしろテレビにしろ、「知っていること」の全てを報道しているわけではないはずだ。そこに取捨選択がある。だとしたら、何を捨て、何を報道するか、そこから考え直さないといけない。
 読む方も、なぜこの記事は書かれているか、を考えながら読まないといけない。今回の読売新聞の記事は、「私は政府関係者からこんな内容のことをリークされた、私は政府関係者に通じている」ということを読売社内でアピールするためのものだったんだろうなあ。こうやって記者は、政府に気に入られながら出世していく、そして癒着がさらに深まっていくということだろう。
 「作文」を読むのは、ほんとうに楽しい。

 

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Estoy loco por espana(番外篇185)Obra, rafamarinas.escultura

2022-09-04 19:00:49 | estoy loco por espana

Obra, rafamarinas.escultura

¿De dónde vienen estas formas de árbol?
Las formas silenciosas, como si supieran que esten siendo talladas.
Ellos tienen VOCEZ, PALABRAS, pero sus voces son tan silenciosas que aún no las oigo.
Sólo me dicen que estan aquí.
si pudiera.....quiero tomarlos en mi mano, sostenerlos, esconderlos y llevarlos a casa.
Siento que quiero dejarlos en mi escritorio y tener un diálogo lento con ellos.
Entonces,¿lo que oiré es la voz de los árboles o de la de RAFA?
Cuando lo imagino, un profundo silencio se extiende en mi corazón.

この木の形は、いったいどこからやってきたのだろうか。
まるで彫り出されるのを知っていたような、静かな形だ。
自己主張しているが、その声はとても静かで私にはまだ聞こえない。
ただ、「私はここにいる」とだけ告げる。
手にとって、できるならそのまま抱いて、隠して、家に持って帰りたい。
机の上に並べ、ゆっくりと対話したい、という気持ちになる。
そのとき、私が聞くのは木の声だろうか。それともRAFAの声だろうか。
想像すると、胸の中に深い沈黙が広がる。

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Estoy loco por espana(番外篇184)Obra, Teofilo Buendia Giron

2022-09-04 12:33:03 | estoy loco por espana

obra,Teofilo Buendia Giron

Cuando veo una obra de arte, no puedo evitar querer tocarla.
Dos obras de Teófilo.
El tablero negro me parece al "monolito" de 2001: Una Odisea del Espacio.
Cuando lo toco, ¿entra una nueva sabiduría en mi cuerpo?
Siento una inteligencia tensa.
Tengo la impresión de una madera que se ha condensado y ha alcanzado la dureza del hierro, una madera que ha trascendido la madera.
Pero cuando la toco, puede haber una suavidad que es exclusiva de la madera.
Trabajo de marquetería.
¿La suave irregularidad que se siente al tocarla hace que me olvide de las juntas de madera?
¿Cómo cambiaría la vista (colores diferentes) y el tacto (conexiones suaves), después de mirarlo y tocarlo con las manos?
Tengo muchas ganas de tocarlo.

作品を見ると、どうしても触ってみたくなるものがある。
Teofiloの二つの作品。
黒い板は「2001年宇宙の旅」の「モノリス」のよう。
触ると、新しい知恵が私の肉体の中に入ってくるか。
張りつめた知性を感じる。
凝縮して、鉄の硬さにまで達した木、木を超越した木という印象がある。
しかし、触ると木独特のやわらかさがあるかもしれない。
寄せ木細工の作品。
触るときに感じる滑らかな凹凸は、木の接合部分を忘れさせるか。
視覚(色の違い)と触覚(なめらかな接続)は、見ているときと、手で触ったあとではどう変わるだろうか。
どうしても、触ってみたい。

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天皇退位と統一教会

2022-09-04 00:29:56 | 考える日記

 ある知人から、統一教会をめぐり、天皇退位にも関係しているのだろうか、と質問を受けた。私が「天皇の悲鳴」で天皇退位問題について書いていたからだと思う。
 私は、大いにありうると思う。
 そのことを書く。

 平成の天皇退位でいちばん問題なのは、だれが「生前退位」ということば(NHKのスクープのときにつかわれた)を思いついたかである。前の皇后が誕生日に「生前退位ということばに傷ついた」と言うまでは、マスコミは「生前退位」ということばをつかいつづけた。皇后の非難で、はじめて「生前退位」ということばをつかうと、それが天皇の本意ではない(皇室では、そのことばはつかわない、と当時の皇后は言った)ことがわかる。読売新聞が大慌てで「退位」に切り替え、朝日新聞が即座に追随した。
 さて、「生前退位」を思いついたのは、だれなのか。NHKが自ら「思いついた」とは思えない。だれがNHKに対して「生前退位」をリークしたのか。安倍の関係者だと私は思っているが、「生前退位」ということばを安倍が思いつくとは思えない。
 ブログに書き、それを大幅に簡略化した「天皇の悲鳴」でも書いたが、だれか「黒幕」がいる。それは、もしかしたら「統一教会関係者」であるかもしれない。
 それを「印象付ける」のが「令和」への元号切替日である。5月1日という、何がなんだかわからない日である。ところが、この日は統一教会の創立日である、という。もちろん、ただの偶然かもしれないが、「必然」かもしれない。統一教会は、天皇を韓国に呼び寄せ、謝罪させるというようなことを「主張」として掲げている。統一教会の創立日に、前の天皇が退位する、新しい天皇が即位するなら、それは前の天皇を「退位させた日」として、統一教会の「歴史」に記すことができるだろう。統一教会の創立記念日に、平成の天皇は退位した。天皇は、統一教会の「支配下」にある、ということを世界に知らせることができた、と言うだろう。あるいは、5月1日に即位した令和の天皇は、統一教会の操り人形である、と宣伝することができるかもしれない。その日を狙っているのだろう。
 荒唐無稽、と感じるかもしれないが。
 しかし、日本は韓国に服従しなければならない、日本の女性は韓国の男性と結婚し奉仕しなければならない、と主張し、他方で国家議員や地方自治体の議員を思うままにあやつっているのだから、それくらいはやるだろう。
 元号変更日を5月1日にした「理由」を安倍は、だれもが納得する形では説明していない。(私が納得していないだけかもしれないが。)令和の天皇の誕生日は「区切り」が悪い。4月1日は年度替わりだが「統一選」と重なり、社会が騒々しい。そんなことが、5月1日の「根拠」になるはずがない。5月1日って、ゴールデンウィークの真っ最中。みんな、どこかへ旅行したい。天皇なんか関係ない、が国民の思いだろう。6月1日でも、7月1日でもいいのに、なぜ5月1日か。
 統一教会が、この日がいいと「推薦」したのかもしれない。

 そこで。
 次は国葬である。9月27日って、何の日? だれか統一教会の歴史に詳しい人はいない? 岸田はなぜ9月27日という日を選んだのか。何が出てくるか、ちょっと楽しみだ。

 ということは、さておき。
 話をもとに戻そう。安倍が統一教会の「言いなり」になっていたということがわかった以上、「天皇生前退位」から、見直してみる必要がある。そのとき、「手がかり」は何度も書くが「生前退位」ということばをだれが思いついたか、である。
 それがわかれば、すべてがわかる。
 この「パンドラの箱」の蓋を、ぜひ、NHKに開けてもらいたい。NHKがスクープしたとき、だれが「退位」ではなく、「譲位」でもなく、「生前退位」ということばを提案したのか。それを、NHKは知っているはずだ。いま、あれこれ統一教会絡みの報道をして「アリバイ」づくり(あとだしジャンケンの自己保身)をNHKはしている。これも、もしかすると「生前退位」問題を隠蔽するためのものかもしれない。そう考えると、最近の、突然のNHKの豹変ぶりもわかる。なんとしても「生前退位」にまで問題をさかのぼらせてはならない、という意図が動いているのかもしれない。

 

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杉恵美子「盆休み」、池田清子「仇討ち」、永田アオ「ウランバーナ」、徳永孝「金(キム)先生」、木谷明「かなちゃん」、青柳俊哉「十字」

2022-09-03 13:33:20 | 現代詩講座

杉恵美子「盆休み」、池田清子「仇討ち」、永田アオ「ウランバーナ」、徳永孝「金(キム)先生」、木谷明「かなちゃん」、青柳俊哉「雨と窓」、(朝日カルチャーセンター、2022年08月29日)

 受講生の作品。

盆休み  杉恵美子

あなたの子供だった私がいて
白い砂浜で桜貝を拾い
きれいに並べた

あなたの親だった私がいて
小さな手を必死で握って
波に乗せて遊んだ

記憶の中から抜け出して
私は砂浜で波の音を聴いている

なんの証もいらない
なんのことばもいらない

 受講生に感想をたずねると、たいてい全体的な印象を言おうとする。たとえばこの詩なら、「砂浜で昔のこと、母親と子供が一緒に遊んでいることを思い出している様子が静かに語られていて、気持ちがいい」というような「要約」である。
 私は、詩は要約ではないと思っている。今回は、「全体の感想ではなく、どの一行、どのことばが印象に残ったか、好きかだけを、まず言ってみる」ということからはじめた。
 この詩では①小さな手を必死で握って②なんの証もいらない③記憶の中から抜け出して(票の多い順、同数のときは先に出てきた行)だった。
 理由は①子育てのたいへんな感じがつたわってくる。子育てのことを思い出した。②楽しい思い出なので、ほんとうに書いている通り③時間の中から抜け出している感じがよくわかる。
 私は、③が好き。「記憶の中から抜け出して」ということばは、意味はわかるが、ふつうはこういう表現はなかなかしない。少なくても「日常会話」では言わないと思う。友人とお茶を飲みながら海水浴のことを話しているとき「そういえば、こういうことがあった」と語り合う。そのとき、ふつうはなんというだろうか。私は、こういう質問を受講生にするのが好きなのだが(自分なら、何と言うか、と質問することが好きなのだが)、「表現」がそこにあると、なかなか「自分のことば」で語るのがむずかしい。この行でも、みんな、かなりとまどったが、私は、ふつうは「昔のことを思い出しながら」だと思う。
 「記憶」は「過去、昔、思い出」であり、「抜け出す」は「思い出す」だろう。「思い出す」は「主観的」である。しかし、「抜け出す」は「客観的」である。「思い出す」という行為は、精神的な行為であり、それは「外」からは見えない。しかし「抜け出す」ということばは「肉体」を抱えている。肉体の動きは見える。「記憶」は見えないが、それに「見える肉体」が重なる。「抜け出す」には「肉体」が含まれている。だから、次の「私は砂浜で波の音を聴いている」という行にふれるとき、実際に砂浜で波音を聴いている杉の姿が見える。何を思い出しているか、それは聴かないとわからないが、砂浜に座っている姿が見える、ということがとても大切。私の、その砂浜に連れて行ってくれるからだ。
 そして、この「肉体」が見える感覚は、その前の連の描写をさらに強くする。実際に、桜貝を拾っている肉体、手を握っている肉体、つまり、動詞(肉体の動き)が、はっきり見える。こういうことばは、強い。動詞がはっきりつたわってくると、そこに人間がいる感じが強くなる。
 そして、ここから不思議なことも起きる。
 単純に読めば、一連目は「私は子供だったころ、母親と一緒に海水浴に行って、桜貝を拾った」であり、二連目は「子供を連れて海水浴に行ったとき、子供の手をしっかり握った」である。しかし、「子供」と「親」は瞬時にいれかわる。一連目も二連目も「私」が主語なのだが、「私」は同時に「親」であり「子」である、という感じがする。
 言い直すと、桜貝を拾っているのは「子供だった私」だが、そのとき同時に母親の視線を実感している。子供の手を握っているのは「親だった私」だが、そのとき同時に必死に手を握って離さない子供の力も実感している。思い出(記憶)のなかでは「親」と「子」が共存しており、それは区別がない。「親と子」で「一組」なのである。切り離せないのである。だからこそ、それは、瞬時に入れ代わり、交錯する力を持っている。
 こういうことを描写するには「思い出す」だけではだめなのだ。そこから「抜け出し」、それを「客観的」にとらえ直す必要がある。

仇討ち  池田清子

「起きよ、スケツネ」
と言って よく起こされた
多分 すがこの「す」つながり

最近 大河で
曽我兄弟の仇討ちがあった

そうか
鎌倉時代の話だったのか
曽我の十郎、五郎という名前を思い出した

でも
お父さん
娘を殺めて どうするよ 

 ①「娘を殺めて どうするよ」(親子の会話のよう、大河ドラマを思い出、ユーモアがある、詩をまとめている)②「起きよ、スケツネ」(父を思い出す、父親を連想させる響きがある)。
 私はテレビを見ない、歴史もうといので、よくわからなかったのだが、印象に残ったのは「多分 すがこの「す」つながり」という行。長い間、なぜ「すがこ」なのに「スネツケ」と呼ばれるのか、わからなかった。そうか、寝ていたために、仇討ちにあった歴史上(鎌倉時代?)の人だったのか。「起きないと、仇討ちにあうぞ、殺されるぞ(寝坊していると、殺されるぞ、ろくなことがないぞ)」という意味だったのか。父のことばの「意味」を思い返している。
 でも、それは、ほんとう?
 「多分」。それは確かめようがない。だが、こういうときの「多分」は父と子だから、絶対に間違いがない。それでも「多分」と言う。この「多分」のなかに、「つながり」がある。「確信」につながる力がある。
 それが最終行の、軽い感じにつながっていく。「娘を殺めて どうするよ」は「仇討ち」から連想されていることばだが、反論しながら、父だから子を殺したりはしないという「確信(安心)」がある。逆に、優しさを思い出している。それこそ「ユーモア」のなかに。

ウランバーナ  永田アオ

盂蘭盆(ウランバーナ)って
インドの偉いお上人様が
死んで地獄で逆さ吊りされて
飢えてたお母さんを助けるために
インド中のお坊さんに御馳走をして
ありがたいお説教をしてもらって
お母さんを浄土にあげることが出来た供養なんだって
そんな偉いお上人様でも
インド中のお坊さんに頼らないと
一人のお母さんも救えないんだから
私は
悪いことしないわ
だって地獄に落ちても
誰もそんなことしてくれないもの
がんばって
いい人になるわ

ねえ
本心とおもう?

 ①「盂蘭盆(ウランバーナ)って」(音が美しい、こういう漢字とは知らなかった)②「悪いことしないわ」(後半、詩が、自分の演技にはまっていく、その導入。「わ」がとてもいい)③「いい人になるわ」④「本心とおもう?」(いずれも、詩人のこころの動きに反応したものか。⑤について、「裏が見えたみたいな」感じがするという反応があったが、この「裏」は②について「演技」ということばと通じるだろう。)
 私は「私は」という、ぽつんとおかれたことばが印象に残った。それまでの行は「って」「されて」「して」「もらって」というような、だらだらした(?)口語の口調で、いつ終わるのか見当がつかない。それが「私は」という短いことばで変化する。絶妙な「息継ぎ」だと思う。連を変えての「ねえ」にも同じ響きがある。これから、ちょっと違うことを言います、という感じ。
 こういうことを、永田は、「意味」ではなく、リズムの変化で表現することができる。鍛えられた「耳」を感じる。
 さて。
 「がんばって/いい人になるわ」は「本心」かどうか。これは、なぜか、「本心ではない」という見方が多かった。どうして? その理由を聞きそびれたが。
 たぶん。
 「誰もそんなことしてくれないもの」というのが、「本心」だからかもしれない。
 作者に、どの行が一番書きたかったか、と聴いたら「誰も……」だった。詩全体の中では、この行だけが「真実(正直)」。言い直すと。前半は、だれかから聞いたこと。伝聞。それに対する感想が「私は」からはじまるのだが、感想にはうそ(他人に向けたことば)もあれば、自分に向けたことばもある。自分に向けたことば「正直」である。そして、ここには痛烈な「批判/毒」が含まれている。
 あの世には極楽と地獄があるらしいが、この詩が「地獄」からはじまっているのも、とてもおもしろい。

金(キム)先生 徳永孝

キム先生は良い教師です
先生は個々の生徒の特性に合わせた指導をします
先生は話題が豊富で関連する単語や文法がスラスラ出てきます
頭が良くて回転が速いからだと思います

先生は努力家です
語学学校と実践で半年で日本語をマスターしました

キム先生は先生の夫を愛しています
先生は美人で話し好きです
先生は時々物をくれます

わたしはそんなキム先生が大好きです

 ①「先生は時々物をくれます」(形がある、いい先生だと思う)②「わたしはそんなキム先生が大好きです」(結論が明確に書かれている)③「キム先生は良い教師です」(
一行で、すべてを言い切っている)
 私は「先生は時々物をくれます」が非常に気になった。「形がある」という感想は「具体的だ」という意味かもしれない。私が違和感を覚えたのは、「物」をあたえるのが教師の仕事ではないと思っているからかもしれない。
 また「答え」を教える(与える)のでもない、と思っている。教師がすることは、「考え方」にはいろいろある、その「いろいろ」を探り出すことだと思っている。まあ、これは詩とは無関係なことかもしれないが。

かなちゃん  木谷明

猫は自由に家を出入りしていて
それは他所のねこ
足踏みミシンの上にいた猫をさわりたくて猫もうなずいて
ガタンッ
板が落ちて
猫は窓からとび出して
かなちゃんは泣きました 猫がかなちゃんのせいにして逃げたことを。
それから 猫が苦手です


庭の裏手の新婚さんのおたくに上がり込んで
おばちゃんの横にマルチーズという犬がいました
黒くて丸い目を見つめました
いぬはかなちゃんに寄って来ませんでした
赤ちゃんがいたかどうかは あいまいです

大人になったかなちゃんの家に
イヌもネコもいません
でも かなちゃんは思っています
だっこしたかったかな。
  (*三行目「足踏み」の原文は「足」のかわりに猫の足跡マーク、絵文字が2個)

 ①「かなちゃんは泣きました 猫がかなちゃんのせいにして逃げたことを。」(裏切られた感じが出ている、詩のモチーフ、感情のキーが書かれている)②「だっこしたかったかな。」(犬猫への近づき方のわからなさが出ている、ほんとうはどっちなのか。最後の「かな」が疑問の「かな」なのか、名前なのかわからないところ)③「赤ちゃんがいたかどうかは あいまいです」(この一行だけ意味がわからない。)
 ③の「意味がわからない」をめぐって、受講生に質問した。作者にも聞いた。メモが消えて、どういう意見が出たか再現できないのだが、私は、単純に「かなちゃんは犬に夢中になっていたので、そのとき赤ちゃんがいたかどうか覚えていない」と読んだ。そして、この一行が全体を引き締めていると思った。この一行はなくても、最終連は「結論」として成り立つ。しかし、この一行によってかなちゃんの気持ちの集中度がわかる。大切な行だと思う。
 最終行の「かな」の疑問と名前のかけことばのような工夫もおもしろいが、この詩では猫、犬が漢字、ひらがな、カタカナと書き分けられている。その書きわけというか、ごちゃごちゃ感が「かな」の疑問と名前のごちごちゃにつながっていくのが、おもしろい。くべつのつかない「自然」がある。
 「猫がかなちゃんのせいにして逃げたことを。」は、猫がそう言ったわけではなくて、かなちゃんが考えたこと。この「主客」の混同も、とてもおもしろい。混同する(わからなくなる)ことのなかに、「ほんとう」が隠れている。

十字  青柳俊哉

焼かれる夏 鳥籠の中の
白いコーンスネークの静けさ いつ死んでもいいと思う 
神のように水に沈む 水になるまで 

この夏 ふたり目の娘の赤ん坊がうまれる 
哲学的な眼の中に 白い十字の十薬が花をひらく
ルビー色の泡のように水にうかぶ わたしたちの世界

溺れかかる 菅沼のきゅうりの細い手 
ヨーコは頭を洗う 恋するおとこの子の長い髪を海に雪ぐ
さよさよさよさりさりさりりりり 

呼ばれる手は水平線の丸みのむこうへ
海底で磨かれるものの 動こうとしない 
終焉の十字の軽さ

 全員が「さよさよさよさりさりさりりりり」が好きだと言った。「響きが新鮮」浄化される感じ」「オリジナリティがある」。
 「響き(音)」をどう感じるかは、それまでどういう音を聞いてきたかということと関係するかもしれない。この行は「さ」が中心になって「よ」と「り」が交代する。濁りがなくてうつくしいのは、ら行、や行が濁音を持たないことも関係しているかもしれない。それが「さ」の透明感を高めている。
 私は「神のように水に沈む 水になるまで」が気に入っている。「水に沈む 水に」は「ず」という濁音が三回出てくるのだが、なぜだろう、「水に沈む」が「水に澄む」という音になって聞こえてくる。「し」が欠落し、その瞬間に濁音が清音にかわる。同じ濁音にはさまれ、濁音が強調されるために、真ん中の音が自己主張しなくなるのだろうか。といっても、これは私の「耳」の感覚であって、青柳が書こうとしていることとは違うかもしれない。
 だからこそ、私は、感想には、そういうことを書くのである。作者の意図を読み取るだけが詩ではない。そこにあることばから、何を感じるかが大事なのだと思う。

 

 

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記事非公開(いやあな気持ち)

2022-09-02 09:49:54 | 考える日記

 2022年08月28日(日曜日)に投稿した「Estoy loco por espana (番外篇182 )Obra,  Jose Manuel Belmonte Cortes」が「非公開」になった。
 「理由」は推定できるが、確定できないので、goo 事務局(?)に問い合わせている。たぶん、写真が問題なのだろうと思う。「彫刻」の写真なのだが、その彫刻があまりにリアルなので、人間の写真と勘違いして、だれかが「通報」したのだろう。
 これは、まあ、私にとっては災難だが、ベルモンテにとっても「名誉」かもしれない。リアリズムに徹底している作風が、そのまま「リアルだ」と評価されたのだから。
 私がアップした写真(たぶん、ベルモンテが撮影)は、まだ、不鮮明だが、実際に作品を肉眼で見ると、笑いだしたくなるくらい「リアル」である。モデルのLuisが包茎であるかどうかは知らないが、その包茎の皮の形までがリアルなのだ。手抜きがいっさい、ない。
 もちろん作者が「著作権違反(無断転写)」を訴え、そのため「非公開」に設定されたということも「理論的」にはありうるが、現実的には、絶対にない。もう何度もベルモンテの作品は紹介してきているし、今度の作品は近く出版する本にも掲載する。それはベルモンテも知っている。

 いま、いやあな気持ちでこれを書いているのは。
 いったいだれが、ベルモンテの作品を「わいせつ」と判断したかということだ。なぜ、そう判断したか、ということだ。
 判断した人は、少なくとも私の書いた文章を読んでいない。写真しか見ていない。文章を読めば、それが「彫刻」であるとわかる。性器を露出した男の彫刻なら、世界にいくつでもある。ミケランジェロのダビデ像はあまりにも有名だ。だれもがその写真を撮るだけではなく、自分の姿といっしょに一枚に収めたりする。

 goo ブログの投稿が、一日当たりいったい何件あるか知らないが、私のような読者のすくないページをgoo 事務局がいちいち閲覧しているとは考えにくい。
 読者のだれかが「通報」したのかもしれない。それはそれでかまわないが、通報する限りは、文章も読み、アップされている写真が「実際の人間」のものか、「彫刻」かくらいは理解してほしい。goo 事務局も、「通報」があったから「非公開」にするというのではなく、「通報」が正しいかどうか、きちんと判断してほしい。さらに、どこに問題があるのか「規約違反」と言うだけではなく、具体的に指摘しないと意味がないだろう。

 

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弔問外交とは?

2022-09-02 09:07:46 | 考える日記

 ゴルバチョフが死んで、また「弔問外交」ということばが飛び交ったが……。
 安倍の「国葬」のときほどは疑問に思わない。安倍の「国葬」での弔問外交って、いったい何? たしか岸田が「弔問外交のチャンス(?)」というようなことを言っていたと思うけれど。
 何が疑問かというと、弔問外交というのは、弔問に行って、そこでなかなか会えない人と会い、交渉するということだと思う。
 たとえばゴルバチョフの「国葬」があると仮定する。岸田が参列する、と仮定する。バイデンも習近平も来る。そこで3人がことばを交わす。これは、たしかにチャンスだね。プーチンとも話せたら、それはすごいなあ、と思う。
 でも、これって「弔問」というくらいだから、「弔問」に行ったひとのすることだね。
 安倍の「国葬」。だれが来るか知らないけれど、岸田が、やってきた人たちと会談できるのか。たとえば、プーチン、バイデン、習近平、だれかわからないけれどイギリスの新首相が弔問に来たとして、岸田は、そのひとたちとどうやって会う? 時間調整は? 100国から弔問が来たとしたら、どう処理する?
 「喪主」ではないが、「国葬」の責任者(?)である岸田が、弔問客と会談している時間なんかあるのか。もちろん岸田以外の閣僚が会談するということも含めて「弔問外交」と呼ぶのだとしても、日本のだれかが外国のだれかと会うこと、そこで何らかの「会談の成果」が産まれるなんていうことは、まあ、考えられないね。

 簡単に言い直せば。
 ふつうの葬儀でも(私は、自分の肉親の葬儀を含めて、まだ10回くらいしか葬儀を体験していないので、実態を知らないのだが)、弔問に行って、遺族(喪主家族)と会談するというのはなかなか少ないのではないか。たいていは、そこで会った旧友、知人と「せっかく会ったのだからちょっと話そうか(飲もうか)」が「弔問外交」ではないのか。
 一般の葬儀とは違うが、「主催者側」に「外交/交流」をしている時間的余裕があるとは、私は想像できない。
 つまり。
 岸田は「弔問外交」の機会というけれど、岸田がほんとうにどこかの国の首脳と会談して、そこで何らかの「成果」をあげることができるのか。せいぜいが「私が日本の首相の岸田です」と言うことくらいしかできないだろう。まあ、顔合わせをして、名前を言う、つまり「面識」をつくるということが「外交」の「成果」と言うのがそれはそれでかまわないが、そんなことをしないと岸田であることを知ってもらえないのだとしたら、それこそ問題だろう。「存在感」がないということを証明するものだ。
 私は、ばかだから、他人のことばをそのまま信じたりはしない。
 安倍の「国葬」も、「国葬」なんかではない。国会で審議して、実施するわけではないのだから。岸田が発案し(?)、閣議で決定したのだから、「閣議葬」にしかすぎない。そこに税金をつぎこむのは、職権の濫用だ。
 でも、その岸田の職権が、はたして「弔問外交」で発揮できるか。岸田はバイデンと会談することに「閣議決定した」というようなことは、できないね。さらに、バイデンはこなかったがマバマが来たので(来ないだろうけどね)、岸田・オバマ会談を「日米首脳会談である、と閣議決定した」なんていうことがありうるわけがない。
 岸田に対して、「それはおかしい。そんなことは認めるわけにはいかない」と、だれも言わないから「閣議決定」が通ってしまう。これは、言い直せば、岸田が国民を支配していると思っているからだろう。バイデンやオバマに対して「日米首脳会談を閣議決定した」と主張し、「だから国葬に参列しろ」とは言えないでしょ?
 こんなことを書くと、アメリカ相手と、国民相手では「条件」が違う、というかもしれないなあ。そんなことは知っている。しかし、アメリカを相手にするとき、それなりの「手続き」が必要だというのなら、国民を相手にするときも、ちゃんとした「手続き」が必要なのだ。日本は「議院内閣制」の国なのだから、国会で審議し、その決定に従うという「手続き」が必要なのだ。
 「手続き」を踏まないことを、「独裁」と呼ぶ。
 安倍の「国葬」は、「独裁」の具体的な始まりなのだ。あの戦争法でさえ、国会で審議し、議決している。

 

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