詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

細田傳造「土管」

2022-09-21 16:49:04 | 詩(雑誌・同人誌)

細田傳造「土管」(「妃」24、2022年09月22日発行)

 「妃」は、高岡淳四の詩が載らなくなってからは、私にはなんとなく「遠い」存在なのだが、細田傳造の詩が載っているので救われる気持ちになる。何篇かあるが、「土管」がいちばんおもしろい。
 ひとには忘れられないことがある。その忘れられないことを、そのまま書いている。このときの「正直」が、とてもいい。

原っぱに土管が
置いてあった
入ってみた
蛇がいた
長くて太い青大将
棒で突っついてどかした
恨みぽい目を俺に向けて
のそのそ出て行った
手枕して俺は眠った
おいコドモ
声がして棒で突っつかれた
首を上げて見ると
色の悪い顔をしたおとなの
男と女が臭い息をしている
おれらが使う出て行けとほざく
土管を出た

 さて。
 どこが「正直」? 全部正直だが、「棒で突っついてどかした」と「棒でつっつかれた」が呼応するところがいいなあ。細田は、なんというか「反省能力」とでも呼びたくなる特別な力をもっていて、それが細田を瞬時に、細田と対象を入れ換える。簡単に言うと、あっと言う間に、他人の立場に立って自分を見ることができる。
 蛇を棒で突っついたときは、たぶん、無意識。じゃまなヤツ。それを取り除くにはいろいろな方法があるはずだが、細田は棒で突っついた。自分の手で直接、蛇のからだにさわっているわけではない。棒で突っつかれて、細田は、そのことに気がついた。棒で突っつくとは、どういうことか。そのとき、細田には、その意味がわかった。ことばではなく、別なもので。
 で。
 ここから、いろんなことを書くことができる。「色の悪い顔」とか「臭い息」とか「ほざく」の延長線に、棒でつっつくことの暴力の意味を拡大していくことができるが、そんなことは、細田はしない。それをしてしまえば、それは細田の自身の姿にもなる。ことばの暴力に身を任せて、自分自身を切り離して、「意味の拡張」を展開する詩人もいるが、それは、どこかでウソをつくことである。自分を被害者にしたてることで、自分を守ってしまうことである。細田だって、自由を楽しんでいた蛇を追い出したのである。棒でつっついて。
 ここから一気に転換する。

青空
風が涼しくて
遠くで雲雀が鳴いている

 土管の狭い密室とは大違いだ。蛇のように「恨みぽい目」をしていたに違いない細田はきれいに払拭されている。絶対的な青空、空間の存在が、それを吹き払ってしまう。
 大きく深呼吸して、細田はつづける。これは、過去のことか、それともきょうのことか。

あの日の青大将はもう生きていないだろう
蛇の寿命は二十年
すまないことした

 ほんとうに「すまない」と思っているかどうか。ここが、大事。(あとで、つまり次の連で大事になってくる。)

あの日の
熾盛(さかり)のついたアベックはどうかな
百歳ちかいなふたりとも
生きていねえだろう
ざまあかんかん

 ここでは「男と女」(アベック、という古いことば、もうつかわれなくなったことばを細田は書いている)は、蛇と同じ。「生きていない」。人間を蛇にたとえてしまうと、それは「意味の暴力」になってしまうが、細田がここでしているのは「比喩」による「同一視」ではなく、逆のこと。蛇の絶対性と、人間の絶対性を「相対化」している。「蛇と人間」が「同じ」なのではなく、「蛇と人間」も「同じ」なのだ。「が」ではなく「も」。「死」の前では。
 「ざまあかんかん」といいながら、細田は男と女を完全否定はしていない。完全否定するなら、もっとほかのことばがある。「ざまあかんかん」と言うことで、二人を受け入れている。セックスの欲望がおさえられなくなれば、セックスをする。しかし、やがては死ぬのだ。その「死ぬ」という絶対的な事実の前では、蛇も男と女もかわりはないし、細田もかわりはない。そういうことは、もちろん、人間はめったに意識しない。めったに意識しないが、ある瞬間に、ふと思いつくことがある。そんなことを思いつくなんて思わずに、ひとはいろいろな出会いを繰り返している。
 というようなことを書き続ければ。
 あ、これは、これで私のウソになる。
 蛇に対して「すまないことした」と思い、男と女に「ざまあかんかん」と思う。そのことばの「切り替え」のスピードの中にあるものに、私は感心した、とだけ書くべきだったのだろう。二連目の、「土管の外」の美しい世界、その三行が絶対的な美しさが、この詩をしっかりと支えている。その「絶対的な美しさ」は「正直」の美しさなのだ。
 蛇を棒で突っつくのも正直、蛇にたいしてすまないと思うのも正直、あの男女はもう死んでいる(ざまあかんかん)と思うのも正直。蛇と男と女に対する表現(気持ち)は反対に見えるだけに、それを併存させるというのは、とてもむずかしい。意味が強くなると、それは併存できずに、暴力になる。そのむずかしいことを、細田は、「ばかな話(どうでもいい話)」のように書くことができる。さらり、と。
 細田は高岡淳四のことを知っているだろうか。高岡にも、細田に通じる「正直」があった、と私は記憶している。

 

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