詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

石毛拓郎「ゆめつぶしうた」

2022-09-11 21:22:27 | 詩(雑誌・同人誌)

石毛拓郎「ゆめつぶしうた」(「飛脚」34、2022年08月15日発行)

 石毛拓郎「ゆめつぶしうた」は変な詩である。

さあ
つぶして ごらん
ゆっくりと
時を かけて
いまにも くさりそうな
熟れすぎた いちご
それ
それの ひとつひとつを
おまえの 指の 腹に
のせて

 変な詩、というのは、どうしたってここに書かれている「いちご」はほんもののいちごではなく、比喩、とわかるからだ。
 でも、ここからなのだ。
 比喩ならば、指し示すもの(暗示するもの)がある。比喩というのは、それではないもの(いま、ここにはないもの)を借りて、いまここにあるものをより鮮明にするためのものである。
 しかし、「いちご」が何か、私にはわからない。私がばかだからかもしれないが、「いちご」が何かすぐにわかるひとは、よほどかわったひとである。
 たぶん、石毛にも、わからない。
 でも、書いている。何か、わかることがあって、書いている。何が、石毛にわかってほいるのか。
 「つぶす」ということである。「つぶす」とどうなるか。

さあ
つぶして ごらん
すりつぶす ときの
指に ひろがる
うつろな いのち
血と肉
すりつぶされた いちごの
生きる ほこり
息を ふさがれた のぞみ
それ
それでも おまえの
指の 腹を のがれ
もえたぎる みちを うむ
生まれかわる よろこび

 「つぶす」が「すりつぶす」にかわっている。ひとはたぶん「つぶす」だけでは満足しない。「つぶす」のあと、もっと何かがしたくなる。「つぶす」力があるなら、それ以上のことができるはずだ。これは、残忍な、生きる喜びである。
 で、この「喜び」があるからこそ、「すりつぶされた」いちごにも、すりつぶされたあとにまだ残る何かを見て、それに反応してしまう。共感してしまう、いえばいいのかもしれない。SMみたいなのもだ。あ、私は、実際にはそれを知らないのだけれど、きっと似ていると思う。どこにでも「喜び」はあるのだ。「喜び」を見つけてしまうのだ。
 これは人間にとって、何を意味するのだろうか。

さあ
つぶして ごらん
指に ふるえて のこる
まっかな 血と肉の
つぶつぶ
つぶされても つぶれても
なお のこる
のこらねば ならぬ
それ
つぶつぶ
たねの ゆめ
血まみれに のこる
ぶつぶつ

 さて。
 この「つぶす」「つぶされる」、指といちご。私は、どっち?
 「つぶして ごらん」と言っているのは石毛? それともいちご。しかも、くさりそうな、熟れすぎたいちご?
 そのいちご、つぶしてしまわなければ、くさってつぶれてしまう。
 ベケットなら、そういうだろうか。
 ふいに、そう思いながら、また、それじゃあ、「つぶす人(ゴドー)」はやってくるの? やってこないの? とも思うのだ。
 最終連で、突然出てきた(と、言っても必然的になのだが)、「のこる」という動詞。これは「のこる」だけではなく「のこらねば ならぬ」という形で繰り返される。それは単純な動詞ではない。「意思」(あるいは決意)を持った動詞である。ウラジミールとエストラゴンにも「意思/精神」はある。
 で、その決意、あるいは意思、あるいは精神って……。

ぶつぶつ

 「つぶつぶ」が逆転して「ぶつぶつ」。「つぶつぶ」の中身と「ぶつぶつ」。
 
 私は、いま、この「ぶつぶつ」に励まされている。私の書いていることは、論理でもなければ、結論でもない。ただの「ぶつぶつ」のことば。不明瞭なことばの、口ごもり。この「口ごもり」を、私は生きるつもりでいる。
 どういう動詞にも、ほんとうは「決意」がある。「つぶす」にも「つぶす」意思が必要だ。そうであるなら、その「意思」に向かって、いつまでも「ぶつぶつ」と言ってみる。だれにも通じない、だれにも「ぶつぶつ」としか聞こえないことばで。「さあ/つぶして ごらん」と、ときどき、だれにも聞こえることばも交えながら。

 

 

 

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Estoy loco por espana(番外篇188)Obra, Jesus Coyto Pablo

2022-09-11 10:04:07 | estoy loco por espana

obra, Jesus Coyto Pablo
"Historias de una ciudad" mixta 2008

Hay dos formas de perspectiva.
Perspectiva de luz y oscuridad y perspectiva grande y pequeña.

En la perspectiva luminosa, lo cercano se oscurece y lo lejano se aclara. De este modo, la mirada se desplaza naturalmente de la oscuridad a la luz. Este método también es utilizado por Jesús para la luz.
Otro método de perspectiva es el de grandes y pequeños. Dibujar la distancia pequeña y el primer plano grande. El ojo se desplaza del objeto más grande al más pequeño, creando una sensación de perspectiva. Sin embargo, el cuadro de Jesús es todo lo contrario. En primer plano se dibuja un niño con un yate. Más allá del pequeño yate está la proa de un gran yate. Y el gran yate no se ve en su totalidad.
Las dos perspectivas se cruzan.

Tal vez la perspectiva de la memoria sea una superposición. El movimiento de la memoria no es fácil de unificar. La memoria no distingue entre lo cercano y lo lejano; Jesús recuerda a un niño con un yate. El chico se acuerda entonces de la proa del yate. O recuerda que las letras de la vela del yate están invertidas, como letras reflejadas en un espejo.
Estas letras de espejo son el símbolo de la imagen.
La memoria es como la escritura en espejo. Veo algo. Para verlo con claridad, tengo que poner lo que veo de nuevo en una forma que pueda entender en mi mente. Las letras espejo tienen que convertirse en las letras correctas.
¿Pero es lo correcto? Las letras de la vela se ven al revés cuando se ven desde la parte inferior de la vela. ¿No es eso lo correcto?

Método y percepción. Corrección. Memoria y corrección. Corrección. O lo que significa estar equivocado.
Cuando miro la obra de Jesús, siempre me molesta, porque sé que no soy el único que se ha equivocado, sino que soy el que ha acertado.
Y me gusta este disgusto. Me gusta saber que hay cosas que no entiendo.

遠近法には、ふたつの方法がある。
明暗の遠近法と大小の遠近法。

光の遠近法では、近くを暗く、遠くを明るく描く。そうすると視線が暗いところから明るいところへ自然に誘われる。その視線の動きの中に遠近感が産まれる。Jesusも、光については、この方法をとっている。
もうひとつの、大小の遠近法。遠くを小さく、手前を大きく描く。大きいものから小さいものへと視線が動き、遠近感が産まれる。しかし、Jesusの絵は逆だ。手前にヨットを持った少年が描かれている。その小さいヨットの向こうに、大きなヨットの舳先がある。そして、その大きなヨットは全体が見えない。
二つの遠近法が交錯している。

たぶん、記憶の遠近法は、重なり合いなのだ。記憶の動きは簡単に統一できない。記憶には近くと遠くの区別がない。Jesusがヨットを持った少年を思い出す。そのとき、少年はヨットの舳先を思い出す。あるいは、ヨットの帆に書かれた文字が鏡に映った文字のように逆になっていることを思い出す。
この鏡文字は、この絵の象徴的存在である。
記憶は鏡文字のようなものなのだ。何かが見える。それをはっきり見るためには、もう一度見えたものを頭の中で理解できる形にしないといけない。鏡文字は、正しい文字にしないといけない。
しかし、それは正しいことなのか。帆に書かれた文字は、裏側から見れば逆に見える。それは正しいことではないのか。

方法と認識。正しさ。記憶と修正。正しさ。あるいは、間違うことの意味。
Jesusの作品を見るとき、私は、いつも動揺する。
そして、私は、この動揺が好きである。わからないものがある、とわかることは楽しい。

 

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