詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy loco por espana(番外篇191)Obra, Joaquín Llorens

2022-09-19 18:08:59 | estoy loco por espana

Estoy loco por espana(番外篇191)Obra, Joaquín Llorens
2022年09月19日(月曜日)

Obra, Joaquín Llorens

 

Cada obra transmite un mensaje diferente según el lugar donde se mire.
Esta obra solitaria se encuentra en el centro de un gran salon.
Me acerco al trabajo.
Cuando veo el pequeño semicírculo de la parte inferior, no puedo ver el de la parte superior.
Hay cosas que se pueden ver y cosas que no se pueden ver.
Cuando me coloco en una posición en la que puedo ver dos semicírculos pequeños, los semicírculos más grandes son una placa fina y no puedo ver la forma del semicírculo.
Desde la posición opuesta, veo la superficie curva del tablero que cubre los semicírculos grandes, y no los puedo ver.
Desde una determinada posición, siempre hay algo que no se puede ver.
Este hecho acentúa la soledad de esta obra.
Me oye una voz tranquila que dice: "Tengo un secreto".

どの作品も、それをどこで見るかによって、つたわってくるものが違う。
この孤独な作品は、広い会場で、中央に佇んでいる。
その作品に近づいてみる。
作品の周りをぐるりと回ってみる。
下の小さな半円が見えるとき、上の小さな半円は見えない。
見えるものと見えないものがある。
小さな半円を二枚見える位置に立てば、大きな半円は薄い板になり、半円の形は見えないだろう。
逆の位置からは、全体を覆うようなカーブした板の面が見えても、大きな半円の存在は見えないだろう。
ある位置からは、必ず見えないものがある。
その事実が、この作品の孤独を際立たせている。
「私には秘密がある」と語る静かな声が聞こえる。

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草間小鳥子『源流のある町』

2022-09-18 23:16:26 | 詩集

草間小鳥子『源流のある町』(七月堂、2022年10月08日発行)

 草間小鳥子『源流のある町』を読みながら、思う。このひとには書きたいことがたくさんあるんだなあ、と。しかし、その長々とつづく行に、私が読みたいなあ、と思うことは書かれていない。長い詩だなあ、と思うだけなのである。なぜ、こんなに長く書くのだろうか。それは、きっと「意味」をこめたいからだ、と思う。
 でも、私は、何を読んでもそうなのだが、意味には関心が持てない。「意味」になるまえの、わけのわからなさに耐えているのに立ち会うのが好きだ。
 たとえば、詩集のタイトルになっている「源流のある町」。

実生の葱に
ようこそ、と声をかける子ども
姉の子どもは数人いるが
実在するのはこのひとり
勢いよく鉢に水をやる
流されてゆく芽もあるところは
人とおなじだ
「どうして」とだれも言わないだけ
土が水を吸うささめき
水が土を通るさざめき
わたしたちにも川は流れているのに
末端の支流まで水は迸るのに
聞こえないね、なにも
手を合わせても 頬を寄せても
耳をふさぐと川の音がする

 いいなあ、と思う。つづきが読みたいなあ、と思う。でも、「つづきが読みたい」というのは、つづきを読むことは違う。
 この感想が草間に届くかどうかわからないが、私は、そう書いておきたい。「実生」や「実在」という硬いことばが、ここではなんともいえず効果的だ。
 「廃村」のはじまりも私は好きだ。

もうずっと長いこと
しずかな手紙をしたためている
幸せな終息もあるのだと
ちいさく暮らしを畳みながら
起点も終点も曖昧にかさなる通奏低音のなかで
わたしたちの村は
たんなるひとつの小節だった

 長く書くのは、「これではわからない」ということなのだろうが、わからなくてもいなあ、と私は思う。
 この一連目のあとに、

これは夕凪
あれは反射光

 この二行だけを置いてみたら、どうだろうか。

 

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Estoy loco por espana(番外篇190)Obra, Calo Carratalá

2022-09-18 09:32:38 | estoy loco por espana

Obra, Calo Carratalá
Oleo sobre cartón seis piezas de 50 cm x 70 cm cada una . Año 2007


Calo sólo dibuja algunas hierbas.
Sin embargo, a mí me parece que la hierba se extiende por todas partes delante de mí. Veo la hierba cubriendo la tierra y abrumando el espacio.
Mientras que los cuadros de Calo tienen "márgenes", lo que yo veo es una forma de vida densa y salvaje sin "márgenes".
Cuando encuentra un pequeño espacio, el verde se expande en ese espacio. Su poder feroz. El poder del verde que se extiende en el aire, sin tomar la forma de una hoja.
Me sorprende la parte de la hoja que no toma la forma de una hoja concreta, sino que se extiende como un color.
Lo que ahora parece ser la forma de una hoja nace del propio color del verde.
Si duermo en esta habitación, cuando me despierte por la mañana, puede que esté sumergido en una mata de hierba.

Caloは数本の草を描いているにすぎない。
しかし、私には、その草が目の前いっぱいに広がって見える。草が土地を覆い、空間を圧倒しているのが見える。
Caloの絵には「余白」があるのに、私が見るのは「余白」のない濃密な野性の生き方だ。
僅かな空間を見逃さず、自己を拡大していく緑。その激しい力。葉っぱの形にならないまま、緑が空気の中に広がっていく、その力。
具体的な葉の形をとらず、色として広がっている部分に、私は驚く。
いま葉の形に見えるものは、その緑の色そのものから産まれてきたのだ。
この部屋で眠ったら、朝起きたときには、私は草の群生の中に沈んでいるかもしれない。

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永田アオ「水曜日」、木谷明「一種のアンソロジー」、杉恵美子「空蝉」、池田清子「別れ」、徳永孝「筆箱」、青柳俊哉「まなざしの奥の海へ」

2022-09-15 22:32:42 | 現代詩講座

永田アオ「水曜日」、木谷明「一種のアンソロジー」、杉恵美子「空蝉」、池田清子「別れ」、徳永孝「筆箱」、青柳俊哉「まなざしの奥の海へ」(朝日カルチャーセンター、2022年09月05日)

 受講生の作品。

水曜日  永田アオ

水曜日と
金曜日が
喧嘩して
水曜日がいなくなった
一週間が
6日になった
地球の自転が少し早くなって
花が少し早く咲いて
人が少し早口になった
水曜日はまだ帰ってこない
ほんとうは
金曜日が一番さみしがっている

 「曜日」を題材にした作品。「曜日が喧嘩をするのはおもしろい発想」「おしゃれな詩」「一日減り、少し早くなるがおもしろい」「モチーフ(書いたときの動機)があるのか、ないのか、想像すると楽しい」「私の一週間の行動では、水曜日が中間でいろいろ用件をいれられる日。金曜日が一番いい。それを思い出した」「最後が少しもの足りない」「木曜日がいなくなった方がファンタスティック」「水曜と金曜は、けんかをするくらいに、ほんとうは仲がいい」「最後の金曜日の気持ちはよくわかる」
 いろいろな意見が次々に飛び出した。
 私は、水曜日ではなく、間にはさまった木曜日がいなくなったと読んでしまっていて(いつも誤読する)、朗読を聞いて、あ、水曜日だったのかと気がついた。いなくなったのが木曜日だと、最後の行がむずかしくなるが、また別のおもしろい世界が広がるかもしれない。
 朗読のとき永田は意識しなかったというが、私は聞いていて三行目と四行目の間に一呼吸を感じた。いいなおすと、三行ずつ四連の詩として聞いた。三行ずつの四連だと仮定すると、起承転結の形になる。そして、その「転」の部分が「少し早く(口)」ということばで結びつきながら「曜日」とは違った世界を展開していることがわかる。「少し早く話すようになった」ではなく「少し早口になった」と一部が変化するのも絶妙で、とても音楽的だと思う。
 詩に結論は必要ないと私は考えているが、こういう詩の場合は、全体がナンセンスなだけに、最後にあらわれる「意味」は逆に楽しい。意味なのに「ナンセンス」の感じがする。

一種のアンソロジー  木谷明

ここはお墓だから

虫の声 鳥の声がきこえます

虫なのか鳥なのか実は解らない鳴き声なのです

曇り空 透る空

人の声はどこからもきこえない

ひとはどこにいて 話しているのでしょう

ここに

ふたりでいて 五十年も生きたら

かなう記憶もあるでしょう

とまれかしおれ夏のぬくもりウラナの蝶に

 「やさしく、ファンタジック」「墓は人の歴史の最後。歴史がつまっている。人の歴史に対する感慨がある」「時間の実在感。時間は流れるが時間によって解決できなものもある。そういうことを考えさせてくれる哲学的な詩」「最後の三行、とくに最後の行が印象的」「印象的だが、ウラナの蝶がわからない」「曇り空 透る空、がよくわからない」「でも、そのフレーズの動かし方に詩を感じる」「かなう記憶も詩的なフレーズ」
 わからないことば、わからない行というのは、私は好きだなあ。そこから、いろいろ考えることができる。
 最終行は、私もよくわからないが、その直前の「かなう記憶」がいいなあ、と思う。「かなう」は「叶う」だろう。「願いが叶う、夢が叶う」というようにつかう。しかし、ここでは「かなう記憶/記憶がかなう」。記憶とはすでに起きたことなので、それが「かなう」とはどういうことか。論理的に考えると意味が通らない。しかし、「記憶」がぼんやりしたものから、たしかなものになるということが「かなう」かもしれない。たとえば、ある日、どこかでふたりで花を見た。それは花を一緒に見るのが夢だった、という夢がかなった日のことだった。そのことを「記憶」として、はっきり思い出した。あの日は、二人で一緒に花を見るということを「夢」として意識しなかったが、思い返すとあれは「夢」だった、ということが「記憶」としてよみがある。それが「五十年後」にかなう。
 「墓(墓地)」ということばから連想すると、「ふたりでいて 五十年も生きたら」は、同じ墓にふたりでいっしょに五十年いたら、というようにも読むことができる。いまは、愛する人は墓の中。しかし、私が死んで、二人で五十年一緒にいたら……。それは「私」に限らない。そういう「ふたり」の愛を想像するということかもしれない。
 「ウラナの蝶」は「ウラナシジミ(蝶)」、夏の終わりの蝶だという。「おれ」は「俺」なのか「おれ(いなさい)」という命令なのか。蝶にとまれ、夏のぬくもりよ蝶にとまれ、という意味なのか。私は「特定」しないで読むことにする。意味よりも一行の音の不思議なゆらぎがとても印象に残る。ここには何か私の知らないことが書かれている、という印象が強い。それがはっきりわかればこの詩はもっとすばらしいものとして納得できるだろうが、わからないものはわからないまま、保留しておいてもいいと思う。

*  

空蝉  杉恵美子

ひとつの空間に
かつて満たされた息吹があった
ふくよかな風が吹き抜け
暖かいぬくもりに包まれていた

既に過去となってしまった空間は
もはや私は忘れた事で
海に沈める想いとなり
今はただ新しい空間を感じるだけ

新しい空間は私の意志で満たされる
わたしの言葉で満たされる
私の吐息で満たされる

そして時折静かな風が私を包む
懐かしく、しみじみとした
深呼吸したくなる、まあるい風

 教室で読んだときの詩は「四・三・三・三」の構成。(一行追加されている。)また、最後の行も推敲されている。受講生の感想は、元の詩に対するもの。
 「空蝉は日本的なイメージがあるが、カラフルに描かれている」「一連目と四連目、二連目と三連目が対応していて、その対比がいい」「二連目を四行にすると、ソネット形式になり、詩であるという印象が強くなる」「最終行の、贈り物で、が落ち着かない」
 最終行は、元の詩では「深呼吸したくなる贈り物で」であった。
 末尾の「で」は「忘れた事で」「わたしの言葉で」「私の吐息で」と登場してきていて、最後に「で」がくると、「論理性」が強くなりすぎて、詩を読んでいるというよりも「論理」を読んでいる気持ちになる。
 「ひとつの空間」は空蝉の姿を客観的にとらえたものだろう。この空間が連を変えるごとに変化していく。「過去となってしまった空間」から「新しい空間」に。そして、その「新しい空間」は「意志、言葉、吐息」と「私」/わたし」を通して別なものになる。「肉体」になる。「肺」を想像するといいかもしれない。そこから「深呼吸」によって、世界が統一される。刷新される。
 論理的だけれど、肉体の再生を感じさせる。

別れ  池田清子

カーテンがはずされていた
もう引越しは終わってると知っていたけれど
確かめたかった

別れがあると
出会ったときを思い出す

透明な出会い

少しずつ たくさんの色がついていった

もう二度と会わないでしょう
少しずつ 色は薄くなり
白色になる?
無色になる?

 「引っ越しをカーテンを通して語っているのが具体的で、やわらかな印象があり、すてき」「歳を重ね、数々の別れを体験してきた感じがつたわってくる」「たくさんの色が体験を連想させる」「透明な出会いと最後の二行の対比がおもしろい」「透明、白色、無色の使い分けがおもしろい」「確かめたかった、色がついていった、のたの響きが、過去を想起させる」
 さて。
 この詩、私以外の人は、引っ越して行ったのが近所の人(知人)という読み方をした。池田も、その意味で書いたといった。私は、池田自身の「引っ越し」だと思って読んだ。
 「カーテンが外されていた」は客観的描写なので「他人の家」という感じはするのだが、私はあえて自分の家だけれど客観的にみているのだと思った。自分で引っ越しの作業をするだけではなく、業者もいる。業者がカーテンを外す。わかっていたけれど「確かめたかった」。この場合、「別れ」は「人」であるよりも「家庭(自分の暮らし)」との別れである。その家にはいろいろな思い出があるが、もう二度とは帰らない「家」と思って読んだ。

筆箱  徳永孝

頭に消しゴムかす
やせ細った手足は鉛筆のよう

丸く出っ張ったお腹は分度器で
曲った腰は三角定規

ギクシャク歩く姿はまるでコンパス
いつのまにか小さな筆箱に収まっていた

真っすぐな物指はどこへ行ったのだろう

 「描かれているは筆者自身、自画像か。映画のトイ・ストーリーを思いだし楽しくなった」「小さな筆箱が少し悲しい」「小さな筆箱にはいれられないものもある」「自分を比喩として書いている。最終行の物指に作者の意図を感じる」
 筆箱に収められないほんとうの自分というものがある。それはどこへ行ったのか、と自問しているということだろう。
 「物指」か「定規」か。先に三角定規があるから「定規」はつかいにくいかもしれない。「物差し」の方が長い印象があるという意見が多かった。

まなざしの奥の海へ  青柳俊哉

草の汁に指をぬらし 
蓮華の茎に蓮華の花を通す
藪椿の紅い透明な蜜を吸いほす
茅花(ちばな)の穂を噛むと野生の味がした

海のうえの忘れられた白いボール 
雨の部屋から一瞥した 青い煉瓦壁の崩れが
永遠を投げかける 空中のお手玉の中にしずむ手
聳える無花果の実の粘液が空へながれる

まなざしの奥の海へ 無数の葉をながしつづけた
身体の一瞬と草の歴史がとけている海へ

今 翼のマントをとじた少年が
高速で水中を横切っていった

 「青柳さんらしいイメージが強い詩。最後の二連が美しい」「様々な方向からことばが重なり、イメージが広がる」「最後の二行、海の青と空の青が重なる。光景をスーパースローで見ている感じ」「三連目、意味がわからないけれど引かれる」「最後は飛び魚のイメージ」「草、海、水、空。青柳さんの世界」
 いろいろな声が聞かれたが、「まなざし」「ながれる」「とける」が青柳の世界の特徴だろう。「まなざし」は「目(視覚イメージ)」であり、それは固定されず流れるように動いていく。流れながら、流れのなかで出会ったものがとけて(融合して、ひとつになって)、それからさらに変化していく。それは終わらない。
 どんな詩もいったんは完結するが、それは次の流動をさそう。だから、次の詩が書かれることになる。

 

 

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加藤治郎『海辺のローラーコースター』

2022-09-14 09:31:04 | 詩集

加藤治郎『海辺のローラーコースター』(書肆侃侃房、2022年08月20日発行)

 

 

 加藤治郎『海辺のローラーコースター』。まだ、読み始めたばかりだが。

息、きらし、息をきらして、霧の中から駆けてきたのは、紺のズックだ

 書きたかったのは、「き」の音の響きか。それとも「紺(のズック)」か。私は読みながら、迷う。私が読みたいのは、はっきりしている。「き」の音楽だ。「霧」と「紺」は、私の視覚では、どうもなじまない。好きなのは「黄色」だ。テオ・アンゲロプロスの黄色い雨合羽。何の映画だっただろう。霧の中を黄色い雨合羽を着て、自転車に乗った消防隊員(?)が走っていく。とても、美しい。だから、「黄色いズック」の方が、もっといいと思う。「紺のズック」だと霧の底へ向かって駆けていく(消えていく)感じがする。

消しゴムでうすい文字消す手帳には予定未満のレモンいくつか

 「予定未満」と「レモン」の脚韻が美しい。加藤は、短歌で音を楽しんでいるのだと思う。

目の前にあなたがいればそのうちって言葉はきっとひかりのなかにある

 「うちって」「きっと」。「うちって」という口語がとても効果的だ。

装飾がリアリズムを凌駕してクリムト展はゆうばえのなか

 「リアリズム」「凌駕」「クリムト」の「り」の動き。でも、「凌駕して」は、かなり作為的な気がする。作為であってもかまわないのかもしれないが、意味が強すぎて音楽になるのをいやがっているように、私には聞こえる。

キラ・キラ・キラではなくてキラ・キラキラなんです。きみの未来は

 「未来」と書いて「みき」と読ませる名前があったなあ、とふと思い出した。「未来(みらい)」では意味が強すぎるような気がしてしまう。
 で、その「意味」。強すぎる、と書いたが。
 なんというか、「未成年/思春期」の「意味」というか、初めてであった「意味」のような感じがして、私は、かなりとまどう。
 加藤治郎のことを知らなかったら、私は、クリムト展以外は高校生の短歌だと思うだろうなあ。高校生は「凌駕して」なんて、言わないだろうなあ、と「偏見」を持って判断するのだが。

消しゴムの角がちょっぴり黒ずんで、あしたの席を予約している

 これ、女子高校生が、隣の席の、欠席している机を見ながらつくった短歌かなあ、と思ってしまうのだ。あしたは、必ずそこに座ってね、と「予約」をいれておく、という感じ。「予約している」よりも「予約しておく」の方が、女子高校生の欲望に近いかなあ、などということも思ったりする。
 私は短歌を主体に読んでいるわけではないから、テキトウに、なんでもかんでも、思ったままに書くのだ。

はじまっているのが分かるしばらくは林檎のあわいりんかくである

 生理がはじまった? それがなんとなくわかる。女子高校生か。「林檎」と「りんかく」の響きあいがいいなあ。「わかる」と「りんかく」の「か」が呼び掛け合うのは、あいだにある「あわい」の「意味」の影響かなあ。「ぼんやり(あわい感じで)わかる」と、私はつなげてしまう。

雪になるかも窓がとっても冷たくてきれいなレモンもっとください

 これも女子高校生を主人公にしたい。「とっても」「もっと」。この響き。でも、ほから、雪が近づく窓の灰色、黄色いレモンが似合うなあ。やっぱり、灰色には黄色。ここは林檎やイチゴではなく、レモンに限ると思う。

頭の上に飛行機雲がふくらんでへんてこと言うりんと続けて

 これいいなあ。「へんてこ」と聞いた瞬間に「へんてこりん」と思い出す。そのスピードで「りんと続けて」がやってくる。「ふくらんで」という間延びした感じとの対比がとても効いている。

冬のプールに水みちている小学校にひとり立ち居りここは記憶か

 うーん、これも高校生の感覚かなあ。でも、「女子」という限定は消える。

もうちょっと空調なんとかならないか新生児室肉体あまた

原子力潜水艦乗組員が殺し合って北極海の底

 64ページの、この対比、好きだなあ。原子力潜水艦の歌がなくても「新生児室」の歌はいいなあ、と思う。「肉体」のなかに、早くも死の匂いがする。それが、すごい。赤ちゃんを産んだ女性には申し訳ないが。

 

 

 

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Tengo algo que decirte

2022-09-13 18:27:12 | 

Andreas Martin Andersen - Hendrik Andersen and John Briggs Potter in Florence (1894)


Tengo algo que decirte

Me siento en el borde de la cama y me pongo los calcetines
La luz de la mañana entra por los huecos de las cortinas
La luz corre veloz sobre tu blanca desnudez
Igual que mis dedos se movieron sobre tu piel anoche

Lentamente abres tu cuerpo, apartas las sábanas
Recuerdas el amor en tu sueño
Tu dedo traza suavamente sobre la luz
Para prolongar el tiempo del éxtasis

Veo tus labios abiertos pequeños
Dientes más blancos que la luz, están húmedos
La lengua recorre el paladar en busca de sonido.
Una voz débil se filtra, pronuncia un nombre que no es el mio

Entiendo todo, todos tuyos
Pero no son los celos ni la tristeza lo que me atrapa
Es un placer que no se puede nombrar
Es aburrido amarte para mi, si tú no eres amdo por ninguna persona

No es un amor que todos adoran
Entonces necesito un rival
Es más importante que tú
Solo ese hombre conoce el significado de este amor

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季村敏夫「薄明」

2022-09-13 09:40:26 | 詩(雑誌・同人誌)

季村敏夫「薄明」(「河口から」8、2022年09月10日発行)

 季村敏夫「薄明」について、私は何を書けるか。

地を覆う水に
はじまりはなく
終わりのない薄明
息をついて語ったひと
近づくおわりのなか
それでも はなやかに
ふだんと 変わりなく
一日のはじまりを慈しみ
より遠くへ呼びかけ
より近くへ
庭のいぶきを呼びよせ
せせらぎに洗われる山麓の
枝先に集まるものをみつめていた

 「息をついて語ってひと」の「息をつく」にひきつけられた。なぜ、「語る」前に、息をつく(吐く)のか。いま「肉体」のなかにあるものを捨て去って、新しく「息」を吸い込み、それをととのえて「声(語り)」にするためだろう、そこには何かしらの「刷新」というものがある。
 何を、どう、新しくするのか。

より遠くへ呼びかけ
より近くへ

 「遠く」と「近く」。しかも、それは「より遠く」と「より近く」。この「より」には「呼びかける(呼ぶ)」という動詞を動かす「感情/意思」のようなものがある。
 「息をつく」のは、この「より」を「より、明確に」するためである。
 「呼びかける」のは「呼びよせる」ためであり、この呼応には「息」そのものの「呼応」がある。息を吐いて、息を吸う。往復があって、「息」が生きる。
 それは「はじまり」と「おわり」なのだが、吐くと吸うのどちらがはじまりであり、どちらが終わりであるのか、ほんとうは決めることはできないのだが、その決めても無意味なことを、「息をつく」と選び取る。季村は、そのひとの、そのあり方に静かに共鳴している。
 「新しく息を吸って」でも「力強く息を吸って」でもない。「息をついて」。その、静かな響きが、美しい。
 これを二連目で、季村は、こう言い直している。

ほんのり風に染まり
水にくぐもる声
あの日 木の椅子から身を起こし
少し横を向き ほほえみ
ゆっくりと立ち上がるまでの
一つひとつの所作
かすれた息づかいまで
この世のものとはおもえなかった

 「所作」と「息」。それは、ひとつのものである。

 

 

 


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Estoy loco por espana(番外篇189)Obra, Joaquín Llorens

2022-09-12 21:48:21 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens


¿Por qué? Al mirar esta obra compuesta de líneas rectas, de repente me parece el retrato de un hombre.
¿Por qué el de un hombre y no el de una mujer? Probablemente porque es una línea recta.
La L invertida de la derecha es el contorno de la cara y los ojos.
La L invertida en el centro son las cejas y la nariz.
Las líneas verticales a ambos lados de la nariz son la sombra de la nariz.
No, la línea algo más gruesa en el lado izquierdo es una sombra, pero no en el lado derecho.
Podría ser una lágrima.
La línea horizontal bajo el ojo izquierdo es una lágrima en el párpado. Está conteniendo las lágrimas.
No hay boca. El silencio. No expresa su dolor con palabras.
La pena o el arrepentimiento no expresados brotan silenciosamente de los ojos.
Lo que no se dice con palabras dice más que las palabras.

Siempre hablo demasiado.
Mi impresión no es probablemente la intención  que pretende Joaquín.
Si lo miras desde un ángulo diferente, tendré una impresión distinta.

なぜだろう。この直線で構成された作品を見ていたら、ふいに男の肖像に見えた。
なぜ、女ではなく男の顔か。たぶん、直線だからだろう。
右側の逆さになったLは顔の輪郭と目である。
中央の逆さになったLは眉と鼻である。
鼻の両側の垂直の線は、鼻の影である。
いや、左側の幾分太い直線は影だが、右側は違う。
それは涙かもしれない。
左目の下の水平線は、瞼にたまった涙である。涙をこらえている。
口がない。沈黙している。悲しみをことばにしない。
ことばにしなかった悲しみが、あるいは無念が、目から静かにあふれている。
ことばで語らないことが、ことばよりも多くを語る。
そういうことがある。

私は、いつも語りすぎる。
私の感想は、たぶんJoaquinの意図とは違うだろう。
違った角度から見れば、また違った感想が生まれるだろう。

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石毛拓郎「ゆめつぶしうた」

2022-09-11 21:22:27 | 詩(雑誌・同人誌)

石毛拓郎「ゆめつぶしうた」(「飛脚」34、2022年08月15日発行)

 石毛拓郎「ゆめつぶしうた」は変な詩である。

さあ
つぶして ごらん
ゆっくりと
時を かけて
いまにも くさりそうな
熟れすぎた いちご
それ
それの ひとつひとつを
おまえの 指の 腹に
のせて

 変な詩、というのは、どうしたってここに書かれている「いちご」はほんもののいちごではなく、比喩、とわかるからだ。
 でも、ここからなのだ。
 比喩ならば、指し示すもの(暗示するもの)がある。比喩というのは、それではないもの(いま、ここにはないもの)を借りて、いまここにあるものをより鮮明にするためのものである。
 しかし、「いちご」が何か、私にはわからない。私がばかだからかもしれないが、「いちご」が何かすぐにわかるひとは、よほどかわったひとである。
 たぶん、石毛にも、わからない。
 でも、書いている。何か、わかることがあって、書いている。何が、石毛にわかってほいるのか。
 「つぶす」ということである。「つぶす」とどうなるか。

さあ
つぶして ごらん
すりつぶす ときの
指に ひろがる
うつろな いのち
血と肉
すりつぶされた いちごの
生きる ほこり
息を ふさがれた のぞみ
それ
それでも おまえの
指の 腹を のがれ
もえたぎる みちを うむ
生まれかわる よろこび

 「つぶす」が「すりつぶす」にかわっている。ひとはたぶん「つぶす」だけでは満足しない。「つぶす」のあと、もっと何かがしたくなる。「つぶす」力があるなら、それ以上のことができるはずだ。これは、残忍な、生きる喜びである。
 で、この「喜び」があるからこそ、「すりつぶされた」いちごにも、すりつぶされたあとにまだ残る何かを見て、それに反応してしまう。共感してしまう、いえばいいのかもしれない。SMみたいなのもだ。あ、私は、実際にはそれを知らないのだけれど、きっと似ていると思う。どこにでも「喜び」はあるのだ。「喜び」を見つけてしまうのだ。
 これは人間にとって、何を意味するのだろうか。

さあ
つぶして ごらん
指に ふるえて のこる
まっかな 血と肉の
つぶつぶ
つぶされても つぶれても
なお のこる
のこらねば ならぬ
それ
つぶつぶ
たねの ゆめ
血まみれに のこる
ぶつぶつ

 さて。
 この「つぶす」「つぶされる」、指といちご。私は、どっち?
 「つぶして ごらん」と言っているのは石毛? それともいちご。しかも、くさりそうな、熟れすぎたいちご?
 そのいちご、つぶしてしまわなければ、くさってつぶれてしまう。
 ベケットなら、そういうだろうか。
 ふいに、そう思いながら、また、それじゃあ、「つぶす人(ゴドー)」はやってくるの? やってこないの? とも思うのだ。
 最終連で、突然出てきた(と、言っても必然的になのだが)、「のこる」という動詞。これは「のこる」だけではなく「のこらねば ならぬ」という形で繰り返される。それは単純な動詞ではない。「意思」(あるいは決意)を持った動詞である。ウラジミールとエストラゴンにも「意思/精神」はある。
 で、その決意、あるいは意思、あるいは精神って……。

ぶつぶつ

 「つぶつぶ」が逆転して「ぶつぶつ」。「つぶつぶ」の中身と「ぶつぶつ」。
 
 私は、いま、この「ぶつぶつ」に励まされている。私の書いていることは、論理でもなければ、結論でもない。ただの「ぶつぶつ」のことば。不明瞭なことばの、口ごもり。この「口ごもり」を、私は生きるつもりでいる。
 どういう動詞にも、ほんとうは「決意」がある。「つぶす」にも「つぶす」意思が必要だ。そうであるなら、その「意思」に向かって、いつまでも「ぶつぶつ」と言ってみる。だれにも通じない、だれにも「ぶつぶつ」としか聞こえないことばで。「さあ/つぶして ごらん」と、ときどき、だれにも聞こえることばも交えながら。

 

 

 

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Estoy loco por espana(番外篇188)Obra, Jesus Coyto Pablo

2022-09-11 10:04:07 | estoy loco por espana

obra, Jesus Coyto Pablo
"Historias de una ciudad" mixta 2008

Hay dos formas de perspectiva.
Perspectiva de luz y oscuridad y perspectiva grande y pequeña.

En la perspectiva luminosa, lo cercano se oscurece y lo lejano se aclara. De este modo, la mirada se desplaza naturalmente de la oscuridad a la luz. Este método también es utilizado por Jesús para la luz.
Otro método de perspectiva es el de grandes y pequeños. Dibujar la distancia pequeña y el primer plano grande. El ojo se desplaza del objeto más grande al más pequeño, creando una sensación de perspectiva. Sin embargo, el cuadro de Jesús es todo lo contrario. En primer plano se dibuja un niño con un yate. Más allá del pequeño yate está la proa de un gran yate. Y el gran yate no se ve en su totalidad.
Las dos perspectivas se cruzan.

Tal vez la perspectiva de la memoria sea una superposición. El movimiento de la memoria no es fácil de unificar. La memoria no distingue entre lo cercano y lo lejano; Jesús recuerda a un niño con un yate. El chico se acuerda entonces de la proa del yate. O recuerda que las letras de la vela del yate están invertidas, como letras reflejadas en un espejo.
Estas letras de espejo son el símbolo de la imagen.
La memoria es como la escritura en espejo. Veo algo. Para verlo con claridad, tengo que poner lo que veo de nuevo en una forma que pueda entender en mi mente. Las letras espejo tienen que convertirse en las letras correctas.
¿Pero es lo correcto? Las letras de la vela se ven al revés cuando se ven desde la parte inferior de la vela. ¿No es eso lo correcto?

Método y percepción. Corrección. Memoria y corrección. Corrección. O lo que significa estar equivocado.
Cuando miro la obra de Jesús, siempre me molesta, porque sé que no soy el único que se ha equivocado, sino que soy el que ha acertado.
Y me gusta este disgusto. Me gusta saber que hay cosas que no entiendo.

遠近法には、ふたつの方法がある。
明暗の遠近法と大小の遠近法。

光の遠近法では、近くを暗く、遠くを明るく描く。そうすると視線が暗いところから明るいところへ自然に誘われる。その視線の動きの中に遠近感が産まれる。Jesusも、光については、この方法をとっている。
もうひとつの、大小の遠近法。遠くを小さく、手前を大きく描く。大きいものから小さいものへと視線が動き、遠近感が産まれる。しかし、Jesusの絵は逆だ。手前にヨットを持った少年が描かれている。その小さいヨットの向こうに、大きなヨットの舳先がある。そして、その大きなヨットは全体が見えない。
二つの遠近法が交錯している。

たぶん、記憶の遠近法は、重なり合いなのだ。記憶の動きは簡単に統一できない。記憶には近くと遠くの区別がない。Jesusがヨットを持った少年を思い出す。そのとき、少年はヨットの舳先を思い出す。あるいは、ヨットの帆に書かれた文字が鏡に映った文字のように逆になっていることを思い出す。
この鏡文字は、この絵の象徴的存在である。
記憶は鏡文字のようなものなのだ。何かが見える。それをはっきり見るためには、もう一度見えたものを頭の中で理解できる形にしないといけない。鏡文字は、正しい文字にしないといけない。
しかし、それは正しいことなのか。帆に書かれた文字は、裏側から見れば逆に見える。それは正しいことではないのか。

方法と認識。正しさ。記憶と修正。正しさ。あるいは、間違うことの意味。
Jesusの作品を見るとき、私は、いつも動揺する。
そして、私は、この動揺が好きである。わからないものがある、とわかることは楽しい。

 

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Estoy loco por espana(番外篇187)Obra, Sanchez Garcia Jose Luis

2022-09-10 09:05:53 | estoy loco por espana

obra, Sanchez Garcia Jose Luis
La costura (Pueblo del Sur) 41 x 33 cms

 

Color blanco. No se trata de un solo tipo.
Hay varios colores blancos diferentes.
¿Cuántos blancos he visto? ¿Cuántos blancos recuerdo?
Este cuadro me lo pregunta.

白い色。それは一種類ではない。
何種類もの白い色がある。
私は、そのうちのいくつを見てきたか。いくつを覚えているか。
この絵は、それを私に問いかけてくる。

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細田傳造「太政大臣」

2022-09-10 08:57:35 | 詩(雑誌・同人誌)

細田傳造「太政大臣」(「雨期」79、2022年08月30日発行)

 細田傳造「太政大臣」を読みながら、うーむ、と思う。

世の中を造っている
まかされて世の中を造っている
俺は太政大臣
ほらあそこ
水たまりでくるくる
水すましが回っている
いい世の中だろうだろう
俺は太政大臣
そこ行く新内流し
あなたに
かどづけは国庫から出す
いい世の中だろう

 何が「うーむ」なのか。まず、「太政大臣」。いま、いる? いないね。私は歴史にうといので、いつの時代まで太政大臣がいたのか知らない。わかるのは、いまはいないということ。いまいない「太政大臣」をなぜ書くのか。
 比喩は、いまここにあるものを、いまここにないものを借りて、何らかの意味を明確にする(強調する)ためにつかわれる。ほんとうは、それではないものを、それを借りることで、いまここにあるものを明確にする。
 では、細田の「太政大臣」は何を明確にしているのか。

世の中を造っている
まかされて世の中を造っている

 一行目に、「まかされて」ということばが追加されて二行目が産まれ、それを引き継いで「太政大臣」ということばが動く。何ごとかを「まかされている」人間だ。そして、その何ごとが何かといえば「世の中を造る」こと。
 それでは「世の中」とは何か。「造る」とは何か。そういうことが、少しずつ語られる。
 世の中が「水たまり」か。あるいは世の中が「水すまし」か。「くるくる」「回る」が世の中か。これは何かの比喩か。比喩かもしれない。しかし、ここでは、それ以上私は考えない。いいじゃないか、と思う。たとえば、私が「水すまし」で小さな「水たまり」で「くるくる回っている」だけ。対して不満はない。そうやって「くるくる回る」ことで生きているなら、それはそれでいいなあと思う。何より、平和だ。そうだろう、だろう。
 でも、そのあとはどうかなあ。「新内流し」は「水すまし」と違って遊んでいるわけではない。そのあとの、

かどづけは国庫から出す

 「かどづけ」か。まあ、必要だ。「国庫から出す」。えっ、「太政大臣」って、そういうことか。自腹ではせない。「国庫から」。「国庫」って、何さ。
 「かどづけ」をもらって、「いい世の中」と思えるかどうか。ここから「太政大臣」への批判をはじめることができる。でも細田は、そういうヒントを提示するだけ。細田が主体となって批判するわけではない。(読者が、批判をするのは、勝手。)細田は「おれは」と、細田自身が批判されることを引き受る用意があるというポーズを見せる。二重の批判だね。--この二重性は、細田のことばの重要な特徴だが、書いているとめんどうになるので、今回は省略。

 さてさて。
 なぜ「太政大臣」なのか、「新内流し」なのか、「ことづけ」なのか。
 そして、いまはつかわれない(?)そういうことばにまじって、突然「国庫」といういまつかわれることばがまじってくる。
 ここから、いろんなことが考えられる。いろんなことを私は考える。しかし、詩は意味ではなく、あくまでもことばなのだから、私は意味には踏み込まない。ことばにとどまって考える。ことばにとどまって考えたことだけを書いておく。
 ことばにはいろいろなものがある。「太政大臣」「新内流し」。これは「歴史」になってしまったことばである。これを比喩として把握し、そこに「意味」をつけくわえていくことでひとつの「暗喩」が成り立つが、その「意味」を私は解説したくはない。いまの視点からの解釈は、いわゆる修正主義だからね。つまり、なんでも正当化してしまうことができるからね。
 一方、「国庫」ということばがある。これは「太政大臣」「新内流し」ということばが世の中に生きていたときも、いっしょに生きていた。そして「太政大臣」「新内流し」「かどづけ」ということばが死んでしまったいまでも(「新内流し」を死んでしまったといってはいけないだろうが、「ストリートミュージシャン」のように生きているとは言えない)、「国庫」は生きている。「国庫」は、なんというか、時間を生き延びている。このことばには解釈はいらない。修正主義に陥らずに、そのままつかえる。
 そして、このことば、「いまも生きていることば」が、大げさに言うと、共時性と通時性を交錯させている。細田は「通時性」だけを語るわけではない。また「共時性」だけを語るわけでもない。いつも、それが交錯する。その瞬間に、怒りなのか、軽蔑なのか、悲しみなのか、笑いなのか、私は判断しないが、突然、「肉体」が瞬間的にあらわれて、「概念」というか「意味」を突き破って動く。
 ここで、私は「うーむ」とうなる。
 ほんとうは、それだけで「批評」になるはずなのだが(私がほんとうに目指しているのはそういうことなのだが)、私は「うーむ」だけで「肉体」を支える度量がないので、ついつい、あれこれと追加する。

 

 

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池井昌樹「虎」

2022-09-09 11:05:38 | 詩(雑誌・同人誌)

池井昌樹「虎」(「森羅」36、2022年09月09日発行)

 池井昌樹「虎」は「大学進学のため上京し独り暮らしを始めた」ころのことを書いている。

私は初めて銭湯に浸り、初めて焼鳥で焼酎を
飲み、初めて酔心地というものを味わった。
銭湯には太初から湧き出した鬱蒼たる温みが
あった。裸の浴客たちもまた太初から湧き出
したもののように思えた。

 私は「太初」ということばに目を止めた。理由はとても簡単で、私は「太初」というものを感じたことがないからだ。
 しかも、池井は、この「太初」を、こう関連づけている。

                  銭湯
も焼鳥屋も実はか細い水脈を繋げてか細いな
がらもそれぞれのふるさとへ、私たちの心の
襞から襞へ深々と及んでいる

 「いま」と「太初」がつながっている。「心の襞」でつながっている。それは「深い」ところにある。
 池井のことばを支えるのは、この感覚である。池井自身が「太初」とつながっている。それは「心」でつながっている。
 「論理」といえばいいのか「理念」といえばいいのかわからないが、書いていることの「意味」は「論理的」にはわかる。しかし、私はどうも実感することができない。長い間池井の詩を読んできて、いまごろになってこんなことを書くのは、ちょっと変かもしれないが。
 銭湯の湯、そこにいる他の男たち、それが「湧き出したもののように思えた」は、とてもよくわかる。このとてもよくわかるは「ことばでは説明できない」であり「ことばで説明する必要がない」である。私は、そこにあるものを「そこに湧き出してきた」ものとして見ていた。いまも、見ている。だが、それが「太初から」かどうかと問われたとき、それがわからない。「いま」湧き出しているとしか実感できない。
 だから、私には、池井の書いていることが「不気味」に見える。あるいは「汚く」見える。この「汚い」は何かによって予め汚れているということである。「太初」によって、私のたどりつけない時間によって、「汚れている」。もちろん、この「汚れている」を「清められている」と呼ぶこともできる。
 たぶん、私が池井のことばを「好き」と書くときは「清められている」というベクトルで書いているのだと思う。書いてきたのだと思う。
 でも、それで良かったのかな?
 「汚れている」のまま、それを存在させた方がよかったのだろう、と思う。
 それは、結局、私にはたどりつけない。たどりつけないものを、たどりつきやすいことば(「汚れている」よりも「清められている」の方が、肯定的?で接近しやすいだろう)で語るとき、私は、どこかで嘘をついているのだ。
 池井はあるとき、たぶん、この詩が書かれた大学に入ったばかりの頃だと思うが、「何か汚いものを食おう」と私と誘った。本庄ひろしもいた。私と本庄はぎょっとした顔をしたと思う。池井はずんずん歩き、「汚い」店に入った。テーブルも椅子も床も汚かった。そこで池井は「汚いもの」を注文し、「うまい、うまい」と食っていた。
 その「汚いもの」を、池井は「太初」そのものとして食らいついていたのだ。それを「清められたもの」と呼ぶのは間違っている。食らいつくことで、その「汚いもの」を「清める」というのも間違っている。
 ただ「くらいつき、むさぼる池井」として、あのとき、そこに「湧き出してきた」のである。私の感覚では「太初」からではなく、ただ、そこにある場、そこにある時間のなから湧き出してきたのである。言い直せば、「定義できない」(名づけられない)ところから「湧き出してきた」。だから、私はうろたえたのである。
 もちろん「太初」から「湧き出してきた」のだとしたら、それも驚きだが、「太初」と呼ぶとなんとなく安心できる。だが、「太初から」と定義することで、安心してはいけないのだ、と思う。

 この詩で池井は「太初」ということばをつかっている。それは池井にとっては正しいことばなのだと思うが、私は、この「太初」をそのまま信じてはいけないぞ、と自分に言い聞かせるのである。「太初」を受け入れると、「汚れている/汚い」が「清められてしまう」。それでは、違う、間違っている、と思うのだ。
 「汚い」ままにしておきたい。
 私はまた池井の詩を好きになり始めているのかもしれない。

 

 

 

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龍秀美『とうさんがアルツハイマーになった』

2022-09-08 21:46:51 | 詩集

龍秀美『とうさんがアルツハイマーになった』(花乱社、2022年06月20日発行)

 龍秀美『とうさんがアルツハイマーになった』は詩画集。絵も龍秀美が描いている。タイトルにある通り、父親がアルツハイマーになった。その後の生活を書いている。絵がやわらかくて、一緒に生きることが楽しいものだと教えてくれる。もちろん苦労もするのだろうけれど、生きているのはおもしろいと教えてくれる。
 「夫婦」という作品。

腰が痛いという父に
母がサポーターを巻いてやっている
ひざまずいてていねいに巻いている
父はこどものように両手を広げている
母が父を見上げて言った
「アタマの上で口笛吹かんと!」
                       (注・本文の最後の感嘆符は二つ)

 なんでもないが、そのなんでもないところが、詩集の始まりとして楽しい。「アタマの上で口笛吹かんと!」の最後の「と」は博多弁。「吹いてはいけないと(言っただろう)」の「と」が残ったものかどうかわからないが、そこまで論理的ではないかもしれない。
 「私のこと好いとうと?」は「私のことを愛しているか」の意味だが「私のことを好きと(言ってくれる/言って)」なのかどうかは、わからない。
 おもしろいのは、「ひざまずいてていねいに巻いている」の「ていねい」と「吹かんと(言っただろう)」の対比。一方でやさしく接し、他方で叱る。ちょっと、相反する。しかし、「吹かんと!」は単純に叱っているのではなく、注意しているのだろう。
 この詩でいいのは、もうひとつ。
 父の描写。「父はこどものように両手を広げている」しか書いていない。しかし、「頭の上で口笛吹かんと!」で父のしていることが、突然わかること。父は両手を広げ、何もすることがないので、口笛を吹いているのだ。その口笛を吹いている「描写」を母親の、実際のことばの中に吸収して表現していること。
 これで、詩のことばの動きが、一気に早くなった。
 龍にとっては、父は「こどものように」両手を広げている。しかし母親にとっては、父は(夫は)「こどものように」口笛を吹いている。「こどものように」ということばがひきつれてくる描写が違う。母は父を「こどものように」叱っている。「こどもを叱るように」叱っている。だかち、この「叱る」は「注意する」なのだ。
 こんなことをくどくど書いているのは、私がアルツハイマーの手前だからか。

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「非公開」から「公開」にもどりました。

2022-09-07 08:19:15 | 詩集

https://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005/e/f9c7b6e72d0a5602c0c44db818207497

ほんとうの人間の写真、と勘違いされて、「非公開」になっていたブログだが、やっと「彫刻」と理解されて「公開」状態にもどった。
ベルモントの作品は、ほんとうにリアル。
細部のていねいさに、思わず「これは、どうやってつくる?」と聞かずにはいられなくなる。

見逃した方、URLをクリックして見て下さい。

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ふんだんな写真と日本語、スペイン語(たぶん、間違いだらけ)の併記。

<a href="https://www.seichoku.com/item/DS2003713">https://www.seichoku.com/item/DS2003713</a>

少し(かなり?)高いけれど、日本ではまだ一部の人にしか知られていないアーチストたち。けれども、海外では高い評価を受けている。(知らずに会いに行ったのだけれど。)
紹介してあるアーティストの作品の購入を希望する方はお知らせください。取り次ぎをします。可能かどうかわからないけれど、値段の割引交渉もお手伝いします。

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