草間小鳥子『源流のある町』(七月堂、2022年10月08日発行)
草間小鳥子『源流のある町』を読みながら、思う。このひとには書きたいことがたくさんあるんだなあ、と。しかし、その長々とつづく行に、私が読みたいなあ、と思うことは書かれていない。長い詩だなあ、と思うだけなのである。なぜ、こんなに長く書くのだろうか。それは、きっと「意味」をこめたいからだ、と思う。
でも、私は、何を読んでもそうなのだが、意味には関心が持てない。「意味」になるまえの、わけのわからなさに耐えているのに立ち会うのが好きだ。
たとえば、詩集のタイトルになっている「源流のある町」。
実生の葱に
ようこそ、と声をかける子ども
姉の子どもは数人いるが
実在するのはこのひとり
勢いよく鉢に水をやる
流されてゆく芽もあるところは
人とおなじだ
「どうして」とだれも言わないだけ
土が水を吸うささめき
水が土を通るさざめき
わたしたちにも川は流れているのに
末端の支流まで水は迸るのに
聞こえないね、なにも
手を合わせても 頬を寄せても
耳をふさぐと川の音がする
いいなあ、と思う。つづきが読みたいなあ、と思う。でも、「つづきが読みたい」というのは、つづきを読むことは違う。
この感想が草間に届くかどうかわからないが、私は、そう書いておきたい。「実生」や「実在」という硬いことばが、ここではなんともいえず効果的だ。
「廃村」のはじまりも私は好きだ。
もうずっと長いこと
しずかな手紙をしたためている
幸せな終息もあるのだと
ちいさく暮らしを畳みながら
起点も終点も曖昧にかさなる通奏低音のなかで
わたしたちの村は
たんなるひとつの小節だった
長く書くのは、「これではわからない」ということなのだろうが、わからなくてもいなあ、と私は思う。
この一連目のあとに、
これは夕凪
あれは反射光
この二行だけを置いてみたら、どうだろうか。