詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

永田アオ「水曜日」、木谷明「一種のアンソロジー」、杉恵美子「空蝉」、池田清子「別れ」、徳永孝「筆箱」、青柳俊哉「まなざしの奥の海へ」

2022-09-15 22:32:42 | 現代詩講座

永田アオ「水曜日」、木谷明「一種のアンソロジー」、杉恵美子「空蝉」、池田清子「別れ」、徳永孝「筆箱」、青柳俊哉「まなざしの奥の海へ」(朝日カルチャーセンター、2022年09月05日)

 受講生の作品。

水曜日  永田アオ

水曜日と
金曜日が
喧嘩して
水曜日がいなくなった
一週間が
6日になった
地球の自転が少し早くなって
花が少し早く咲いて
人が少し早口になった
水曜日はまだ帰ってこない
ほんとうは
金曜日が一番さみしがっている

 「曜日」を題材にした作品。「曜日が喧嘩をするのはおもしろい発想」「おしゃれな詩」「一日減り、少し早くなるがおもしろい」「モチーフ(書いたときの動機)があるのか、ないのか、想像すると楽しい」「私の一週間の行動では、水曜日が中間でいろいろ用件をいれられる日。金曜日が一番いい。それを思い出した」「最後が少しもの足りない」「木曜日がいなくなった方がファンタスティック」「水曜と金曜は、けんかをするくらいに、ほんとうは仲がいい」「最後の金曜日の気持ちはよくわかる」
 いろいろな意見が次々に飛び出した。
 私は、水曜日ではなく、間にはさまった木曜日がいなくなったと読んでしまっていて(いつも誤読する)、朗読を聞いて、あ、水曜日だったのかと気がついた。いなくなったのが木曜日だと、最後の行がむずかしくなるが、また別のおもしろい世界が広がるかもしれない。
 朗読のとき永田は意識しなかったというが、私は聞いていて三行目と四行目の間に一呼吸を感じた。いいなおすと、三行ずつ四連の詩として聞いた。三行ずつの四連だと仮定すると、起承転結の形になる。そして、その「転」の部分が「少し早く(口)」ということばで結びつきながら「曜日」とは違った世界を展開していることがわかる。「少し早く話すようになった」ではなく「少し早口になった」と一部が変化するのも絶妙で、とても音楽的だと思う。
 詩に結論は必要ないと私は考えているが、こういう詩の場合は、全体がナンセンスなだけに、最後にあらわれる「意味」は逆に楽しい。意味なのに「ナンセンス」の感じがする。

一種のアンソロジー  木谷明

ここはお墓だから

虫の声 鳥の声がきこえます

虫なのか鳥なのか実は解らない鳴き声なのです

曇り空 透る空

人の声はどこからもきこえない

ひとはどこにいて 話しているのでしょう

ここに

ふたりでいて 五十年も生きたら

かなう記憶もあるでしょう

とまれかしおれ夏のぬくもりウラナの蝶に

 「やさしく、ファンタジック」「墓は人の歴史の最後。歴史がつまっている。人の歴史に対する感慨がある」「時間の実在感。時間は流れるが時間によって解決できなものもある。そういうことを考えさせてくれる哲学的な詩」「最後の三行、とくに最後の行が印象的」「印象的だが、ウラナの蝶がわからない」「曇り空 透る空、がよくわからない」「でも、そのフレーズの動かし方に詩を感じる」「かなう記憶も詩的なフレーズ」
 わからないことば、わからない行というのは、私は好きだなあ。そこから、いろいろ考えることができる。
 最終行は、私もよくわからないが、その直前の「かなう記憶」がいいなあ、と思う。「かなう」は「叶う」だろう。「願いが叶う、夢が叶う」というようにつかう。しかし、ここでは「かなう記憶/記憶がかなう」。記憶とはすでに起きたことなので、それが「かなう」とはどういうことか。論理的に考えると意味が通らない。しかし、「記憶」がぼんやりしたものから、たしかなものになるということが「かなう」かもしれない。たとえば、ある日、どこかでふたりで花を見た。それは花を一緒に見るのが夢だった、という夢がかなった日のことだった。そのことを「記憶」として、はっきり思い出した。あの日は、二人で一緒に花を見るということを「夢」として意識しなかったが、思い返すとあれは「夢」だった、ということが「記憶」としてよみがある。それが「五十年後」にかなう。
 「墓(墓地)」ということばから連想すると、「ふたりでいて 五十年も生きたら」は、同じ墓にふたりでいっしょに五十年いたら、というようにも読むことができる。いまは、愛する人は墓の中。しかし、私が死んで、二人で五十年一緒にいたら……。それは「私」に限らない。そういう「ふたり」の愛を想像するということかもしれない。
 「ウラナの蝶」は「ウラナシジミ(蝶)」、夏の終わりの蝶だという。「おれ」は「俺」なのか「おれ(いなさい)」という命令なのか。蝶にとまれ、夏のぬくもりよ蝶にとまれ、という意味なのか。私は「特定」しないで読むことにする。意味よりも一行の音の不思議なゆらぎがとても印象に残る。ここには何か私の知らないことが書かれている、という印象が強い。それがはっきりわかればこの詩はもっとすばらしいものとして納得できるだろうが、わからないものはわからないまま、保留しておいてもいいと思う。

*  

空蝉  杉恵美子

ひとつの空間に
かつて満たされた息吹があった
ふくよかな風が吹き抜け
暖かいぬくもりに包まれていた

既に過去となってしまった空間は
もはや私は忘れた事で
海に沈める想いとなり
今はただ新しい空間を感じるだけ

新しい空間は私の意志で満たされる
わたしの言葉で満たされる
私の吐息で満たされる

そして時折静かな風が私を包む
懐かしく、しみじみとした
深呼吸したくなる、まあるい風

 教室で読んだときの詩は「四・三・三・三」の構成。(一行追加されている。)また、最後の行も推敲されている。受講生の感想は、元の詩に対するもの。
 「空蝉は日本的なイメージがあるが、カラフルに描かれている」「一連目と四連目、二連目と三連目が対応していて、その対比がいい」「二連目を四行にすると、ソネット形式になり、詩であるという印象が強くなる」「最終行の、贈り物で、が落ち着かない」
 最終行は、元の詩では「深呼吸したくなる贈り物で」であった。
 末尾の「で」は「忘れた事で」「わたしの言葉で」「私の吐息で」と登場してきていて、最後に「で」がくると、「論理性」が強くなりすぎて、詩を読んでいるというよりも「論理」を読んでいる気持ちになる。
 「ひとつの空間」は空蝉の姿を客観的にとらえたものだろう。この空間が連を変えるごとに変化していく。「過去となってしまった空間」から「新しい空間」に。そして、その「新しい空間」は「意志、言葉、吐息」と「私」/わたし」を通して別なものになる。「肉体」になる。「肺」を想像するといいかもしれない。そこから「深呼吸」によって、世界が統一される。刷新される。
 論理的だけれど、肉体の再生を感じさせる。

別れ  池田清子

カーテンがはずされていた
もう引越しは終わってると知っていたけれど
確かめたかった

別れがあると
出会ったときを思い出す

透明な出会い

少しずつ たくさんの色がついていった

もう二度と会わないでしょう
少しずつ 色は薄くなり
白色になる?
無色になる?

 「引っ越しをカーテンを通して語っているのが具体的で、やわらかな印象があり、すてき」「歳を重ね、数々の別れを体験してきた感じがつたわってくる」「たくさんの色が体験を連想させる」「透明な出会いと最後の二行の対比がおもしろい」「透明、白色、無色の使い分けがおもしろい」「確かめたかった、色がついていった、のたの響きが、過去を想起させる」
 さて。
 この詩、私以外の人は、引っ越して行ったのが近所の人(知人)という読み方をした。池田も、その意味で書いたといった。私は、池田自身の「引っ越し」だと思って読んだ。
 「カーテンが外されていた」は客観的描写なので「他人の家」という感じはするのだが、私はあえて自分の家だけれど客観的にみているのだと思った。自分で引っ越しの作業をするだけではなく、業者もいる。業者がカーテンを外す。わかっていたけれど「確かめたかった」。この場合、「別れ」は「人」であるよりも「家庭(自分の暮らし)」との別れである。その家にはいろいろな思い出があるが、もう二度とは帰らない「家」と思って読んだ。

筆箱  徳永孝

頭に消しゴムかす
やせ細った手足は鉛筆のよう

丸く出っ張ったお腹は分度器で
曲った腰は三角定規

ギクシャク歩く姿はまるでコンパス
いつのまにか小さな筆箱に収まっていた

真っすぐな物指はどこへ行ったのだろう

 「描かれているは筆者自身、自画像か。映画のトイ・ストーリーを思いだし楽しくなった」「小さな筆箱が少し悲しい」「小さな筆箱にはいれられないものもある」「自分を比喩として書いている。最終行の物指に作者の意図を感じる」
 筆箱に収められないほんとうの自分というものがある。それはどこへ行ったのか、と自問しているということだろう。
 「物指」か「定規」か。先に三角定規があるから「定規」はつかいにくいかもしれない。「物差し」の方が長い印象があるという意見が多かった。

まなざしの奥の海へ  青柳俊哉

草の汁に指をぬらし 
蓮華の茎に蓮華の花を通す
藪椿の紅い透明な蜜を吸いほす
茅花(ちばな)の穂を噛むと野生の味がした

海のうえの忘れられた白いボール 
雨の部屋から一瞥した 青い煉瓦壁の崩れが
永遠を投げかける 空中のお手玉の中にしずむ手
聳える無花果の実の粘液が空へながれる

まなざしの奥の海へ 無数の葉をながしつづけた
身体の一瞬と草の歴史がとけている海へ

今 翼のマントをとじた少年が
高速で水中を横切っていった

 「青柳さんらしいイメージが強い詩。最後の二連が美しい」「様々な方向からことばが重なり、イメージが広がる」「最後の二行、海の青と空の青が重なる。光景をスーパースローで見ている感じ」「三連目、意味がわからないけれど引かれる」「最後は飛び魚のイメージ」「草、海、水、空。青柳さんの世界」
 いろいろな声が聞かれたが、「まなざし」「ながれる」「とける」が青柳の世界の特徴だろう。「まなざし」は「目(視覚イメージ)」であり、それは固定されず流れるように動いていく。流れながら、流れのなかで出会ったものがとけて(融合して、ひとつになって)、それからさらに変化していく。それは終わらない。
 どんな詩もいったんは完結するが、それは次の流動をさそう。だから、次の詩が書かれることになる。

 

 

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