杉恵美子「盆休み」、池田清子「仇討ち」、永田アオ「ウランバーナ」、徳永孝「金(キム)先生」、木谷明「かなちゃん」、青柳俊哉「雨と窓」、(朝日カルチャーセンター、2022年08月29日)
受講生の作品。
盆休み 杉恵美子
あなたの子供だった私がいて
白い砂浜で桜貝を拾い
きれいに並べた
あなたの親だった私がいて
小さな手を必死で握って
波に乗せて遊んだ
記憶の中から抜け出して
私は砂浜で波の音を聴いている
なんの証もいらない
なんのことばもいらない
受講生に感想をたずねると、たいてい全体的な印象を言おうとする。たとえばこの詩なら、「砂浜で昔のこと、母親と子供が一緒に遊んでいることを思い出している様子が静かに語られていて、気持ちがいい」というような「要約」である。
私は、詩は要約ではないと思っている。今回は、「全体の感想ではなく、どの一行、どのことばが印象に残ったか、好きかだけを、まず言ってみる」ということからはじめた。
この詩では①小さな手を必死で握って②なんの証もいらない③記憶の中から抜け出して(票の多い順、同数のときは先に出てきた行)だった。
理由は①子育てのたいへんな感じがつたわってくる。子育てのことを思い出した。②楽しい思い出なので、ほんとうに書いている通り③時間の中から抜け出している感じがよくわかる。
私は、③が好き。「記憶の中から抜け出して」ということばは、意味はわかるが、ふつうはこういう表現はなかなかしない。少なくても「日常会話」では言わないと思う。友人とお茶を飲みながら海水浴のことを話しているとき「そういえば、こういうことがあった」と語り合う。そのとき、ふつうはなんというだろうか。私は、こういう質問を受講生にするのが好きなのだが(自分なら、何と言うか、と質問することが好きなのだが)、「表現」がそこにあると、なかなか「自分のことば」で語るのがむずかしい。この行でも、みんな、かなりとまどったが、私は、ふつうは「昔のことを思い出しながら」だと思う。
「記憶」は「過去、昔、思い出」であり、「抜け出す」は「思い出す」だろう。「思い出す」は「主観的」である。しかし、「抜け出す」は「客観的」である。「思い出す」という行為は、精神的な行為であり、それは「外」からは見えない。しかし「抜け出す」ということばは「肉体」を抱えている。肉体の動きは見える。「記憶」は見えないが、それに「見える肉体」が重なる。「抜け出す」には「肉体」が含まれている。だから、次の「私は砂浜で波の音を聴いている」という行にふれるとき、実際に砂浜で波音を聴いている杉の姿が見える。何を思い出しているか、それは聴かないとわからないが、砂浜に座っている姿が見える、ということがとても大切。私の、その砂浜に連れて行ってくれるからだ。
そして、この「肉体」が見える感覚は、その前の連の描写をさらに強くする。実際に、桜貝を拾っている肉体、手を握っている肉体、つまり、動詞(肉体の動き)が、はっきり見える。こういうことばは、強い。動詞がはっきりつたわってくると、そこに人間がいる感じが強くなる。
そして、ここから不思議なことも起きる。
単純に読めば、一連目は「私は子供だったころ、母親と一緒に海水浴に行って、桜貝を拾った」であり、二連目は「子供を連れて海水浴に行ったとき、子供の手をしっかり握った」である。しかし、「子供」と「親」は瞬時にいれかわる。一連目も二連目も「私」が主語なのだが、「私」は同時に「親」であり「子」である、という感じがする。
言い直すと、桜貝を拾っているのは「子供だった私」だが、そのとき同時に母親の視線を実感している。子供の手を握っているのは「親だった私」だが、そのとき同時に必死に手を握って離さない子供の力も実感している。思い出(記憶)のなかでは「親」と「子」が共存しており、それは区別がない。「親と子」で「一組」なのである。切り離せないのである。だからこそ、それは、瞬時に入れ代わり、交錯する力を持っている。
こういうことを描写するには「思い出す」だけではだめなのだ。そこから「抜け出し」、それを「客観的」にとらえ直す必要がある。
*
仇討ち 池田清子
「起きよ、スケツネ」
と言って よく起こされた
多分 すがこの「す」つながり
最近 大河で
曽我兄弟の仇討ちがあった
そうか
鎌倉時代の話だったのか
曽我の十郎、五郎という名前を思い出した
でも
お父さん
娘を殺めて どうするよ
①「娘を殺めて どうするよ」(親子の会話のよう、大河ドラマを思い出、ユーモアがある、詩をまとめている)②「起きよ、スケツネ」(父を思い出す、父親を連想させる響きがある)。
私はテレビを見ない、歴史もうといので、よくわからなかったのだが、印象に残ったのは「多分 すがこの「す」つながり」という行。長い間、なぜ「すがこ」なのに「スネツケ」と呼ばれるのか、わからなかった。そうか、寝ていたために、仇討ちにあった歴史上(鎌倉時代?)の人だったのか。「起きないと、仇討ちにあうぞ、殺されるぞ(寝坊していると、殺されるぞ、ろくなことがないぞ)」という意味だったのか。父のことばの「意味」を思い返している。
でも、それは、ほんとう?
「多分」。それは確かめようがない。だが、こういうときの「多分」は父と子だから、絶対に間違いがない。それでも「多分」と言う。この「多分」のなかに、「つながり」がある。「確信」につながる力がある。
それが最終行の、軽い感じにつながっていく。「娘を殺めて どうするよ」は「仇討ち」から連想されていることばだが、反論しながら、父だから子を殺したりはしないという「確信(安心)」がある。逆に、優しさを思い出している。それこそ「ユーモア」のなかに。
*
ウランバーナ 永田アオ
盂蘭盆(ウランバーナ)って
インドの偉いお上人様が
死んで地獄で逆さ吊りされて
飢えてたお母さんを助けるために
インド中のお坊さんに御馳走をして
ありがたいお説教をしてもらって
お母さんを浄土にあげることが出来た供養なんだって
そんな偉いお上人様でも
インド中のお坊さんに頼らないと
一人のお母さんも救えないんだから
私は
悪いことしないわ
だって地獄に落ちても
誰もそんなことしてくれないもの
がんばって
いい人になるわ
ねえ
本心とおもう?
①「盂蘭盆(ウランバーナ)って」(音が美しい、こういう漢字とは知らなかった)②「悪いことしないわ」(後半、詩が、自分の演技にはまっていく、その導入。「わ」がとてもいい)③「いい人になるわ」④「本心とおもう?」(いずれも、詩人のこころの動きに反応したものか。⑤について、「裏が見えたみたいな」感じがするという反応があったが、この「裏」は②について「演技」ということばと通じるだろう。)
私は「私は」という、ぽつんとおかれたことばが印象に残った。それまでの行は「って」「されて」「して」「もらって」というような、だらだらした(?)口語の口調で、いつ終わるのか見当がつかない。それが「私は」という短いことばで変化する。絶妙な「息継ぎ」だと思う。連を変えての「ねえ」にも同じ響きがある。これから、ちょっと違うことを言います、という感じ。
こういうことを、永田は、「意味」ではなく、リズムの変化で表現することができる。鍛えられた「耳」を感じる。
さて。
「がんばって/いい人になるわ」は「本心」かどうか。これは、なぜか、「本心ではない」という見方が多かった。どうして? その理由を聞きそびれたが。
たぶん。
「誰もそんなことしてくれないもの」というのが、「本心」だからかもしれない。
作者に、どの行が一番書きたかったか、と聴いたら「誰も……」だった。詩全体の中では、この行だけが「真実(正直)」。言い直すと。前半は、だれかから聞いたこと。伝聞。それに対する感想が「私は」からはじまるのだが、感想にはうそ(他人に向けたことば)もあれば、自分に向けたことばもある。自分に向けたことば「正直」である。そして、ここには痛烈な「批判/毒」が含まれている。
あの世には極楽と地獄があるらしいが、この詩が「地獄」からはじまっているのも、とてもおもしろい。
*
金(キム)先生 徳永孝
キム先生は良い教師です
先生は個々の生徒の特性に合わせた指導をします
先生は話題が豊富で関連する単語や文法がスラスラ出てきます
頭が良くて回転が速いからだと思います
先生は努力家です
語学学校と実践で半年で日本語をマスターしました
キム先生は先生の夫を愛しています
先生は美人で話し好きです
先生は時々物をくれます
わたしはそんなキム先生が大好きです
①「先生は時々物をくれます」(形がある、いい先生だと思う)②「わたしはそんなキム先生が大好きです」(結論が明確に書かれている)③「キム先生は良い教師です」(
一行で、すべてを言い切っている)
私は「先生は時々物をくれます」が非常に気になった。「形がある」という感想は「具体的だ」という意味かもしれない。私が違和感を覚えたのは、「物」をあたえるのが教師の仕事ではないと思っているからかもしれない。
また「答え」を教える(与える)のでもない、と思っている。教師がすることは、「考え方」にはいろいろある、その「いろいろ」を探り出すことだと思っている。まあ、これは詩とは無関係なことかもしれないが。
*
かなちゃん 木谷明
猫は自由に家を出入りしていて
それは他所のねこ
足踏みミシンの上にいた猫をさわりたくて猫もうなずいて
ガタンッ
板が落ちて
猫は窓からとび出して
かなちゃんは泣きました 猫がかなちゃんのせいにして逃げたことを。
それから 猫が苦手です
庭の裏手の新婚さんのおたくに上がり込んで
おばちゃんの横にマルチーズという犬がいました
黒くて丸い目を見つめました
いぬはかなちゃんに寄って来ませんでした
赤ちゃんがいたかどうかは あいまいです
大人になったかなちゃんの家に
イヌもネコもいません
でも かなちゃんは思っています
だっこしたかったかな。
(*三行目「足踏み」の原文は「足」のかわりに猫の足跡マーク、絵文字が2個)
①「かなちゃんは泣きました 猫がかなちゃんのせいにして逃げたことを。」(裏切られた感じが出ている、詩のモチーフ、感情のキーが書かれている)②「だっこしたかったかな。」(犬猫への近づき方のわからなさが出ている、ほんとうはどっちなのか。最後の「かな」が疑問の「かな」なのか、名前なのかわからないところ)③「赤ちゃんがいたかどうかは あいまいです」(この一行だけ意味がわからない。)
③の「意味がわからない」をめぐって、受講生に質問した。作者にも聞いた。メモが消えて、どういう意見が出たか再現できないのだが、私は、単純に「かなちゃんは犬に夢中になっていたので、そのとき赤ちゃんがいたかどうか覚えていない」と読んだ。そして、この一行が全体を引き締めていると思った。この一行はなくても、最終連は「結論」として成り立つ。しかし、この一行によってかなちゃんの気持ちの集中度がわかる。大切な行だと思う。
最終行の「かな」の疑問と名前のかけことばのような工夫もおもしろいが、この詩では猫、犬が漢字、ひらがな、カタカナと書き分けられている。その書きわけというか、ごちゃごちゃ感が「かな」の疑問と名前のごちごちゃにつながっていくのが、おもしろい。くべつのつかない「自然」がある。
「猫がかなちゃんのせいにして逃げたことを。」は、猫がそう言ったわけではなくて、かなちゃんが考えたこと。この「主客」の混同も、とてもおもしろい。混同する(わからなくなる)ことのなかに、「ほんとう」が隠れている。
*
十字 青柳俊哉
焼かれる夏 鳥籠の中の
白いコーンスネークの静けさ いつ死んでもいいと思う
神のように水に沈む 水になるまで
この夏 ふたり目の娘の赤ん坊がうまれる
哲学的な眼の中に 白い十字の十薬が花をひらく
ルビー色の泡のように水にうかぶ わたしたちの世界
溺れかかる 菅沼のきゅうりの細い手
ヨーコは頭を洗う 恋するおとこの子の長い髪を海に雪ぐ
さよさよさよさりさりさりりりり
呼ばれる手は水平線の丸みのむこうへ
海底で磨かれるものの 動こうとしない
終焉の十字の軽さ
全員が「さよさよさよさりさりさりりりり」が好きだと言った。「響きが新鮮」浄化される感じ」「オリジナリティがある」。
「響き(音)」をどう感じるかは、それまでどういう音を聞いてきたかということと関係するかもしれない。この行は「さ」が中心になって「よ」と「り」が交代する。濁りがなくてうつくしいのは、ら行、や行が濁音を持たないことも関係しているかもしれない。それが「さ」の透明感を高めている。
私は「神のように水に沈む 水になるまで」が気に入っている。「水に沈む 水に」は「ず」という濁音が三回出てくるのだが、なぜだろう、「水に沈む」が「水に澄む」という音になって聞こえてくる。「し」が欠落し、その瞬間に濁音が清音にかわる。同じ濁音にはさまれ、濁音が強調されるために、真ん中の音が自己主張しなくなるのだろうか。といっても、これは私の「耳」の感覚であって、青柳が書こうとしていることとは違うかもしれない。
だからこそ、私は、感想には、そういうことを書くのである。作者の意図を読み取るだけが詩ではない。そこにあることばから、何を感じるかが大事なのだと思う。
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