詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy loco por espana(番外篇196)Obra, Jose Manuel Belmonte Cortes

2022-09-24 10:23:24 | estoy loco por espana

Obra, Jose Manuel Belmonte Cortes
PECA I (Bajorelieve en resina acrílica policromada) , de la serie "El cuerpo del pecado".

Los relieves de Belmonte me vuelen loco.
El deseo de tocar es más fuerte en sus obras en relieve que en sus obras tridimensionales completas. Y esto es muy diferente del deseo de tocar el cuerpo de una mujer (modelo) ,por ejemplo, sus pezones.
En realdad, lo que más quiero tocar en esta obra es el hombro de la mujer, o mejor dicho, la elevación en la base del brazo.
Si hubiera sido totalmente tridimensional, podrían haber sido los pezones, por supuesto, o el cuello (la garganta).
Pero en este relieve, es la base del brazo (hombro). El brazos que parten de ahí, son muy carnoso también.
¿Por qué?
Tal vez el hecho de que esté oculto invite al deseo. Está medio escondido. (En realidad, más de la mitad.) Para "ver" lo que está oculto, no basta con utilizar sólo los ojos (la vista). El tacto, el sentido del tacto, es necesario. Al tocar,  puedo sentir algo del cuerpo de la mujer. Ese algo es lo que la mujer está ocultando. Intuitivamente, creo que sí.
Pero, ¿cuál es la viveza de la "tridimensionalidad" del hombro desde la base del brazo hasta el cuello? Tal vez, en perfecta tridimensionalidad, no sea tan crudo. Me lo perdería ver.
Aquí hay una imposibilidad expresiva. Hay un forzamiento. A diferencia de la tridimensionalidad del perfil y los pechos, aquí el "movimiento" está encerrado. Hay una sensación de tridimensionalidad creada por el movimiento.
Si vaya a Córdoba, voy a decia a Belmonte: mw gustaria tocar este trabajo.

Belmonteのレリーフは、私を不思議な気持ちにさせる。
完全な立体の作品よりも、レリーフの作品の方が、触りたいという欲望が強くなる。そして、それは女(モデル)の肉体(たとえば乳首)に触りたいという欲望とはかなり違う。
だいたい、この作品で私が一番触りたいのは、女の肩というか、腕の付け根の盛り上がりなのだ。
完全な立体だったら、もちろん乳首だったかもしれないし、のけぞった喉だったかもしれない。
しかし、レリーフのこの作品では、腕の付け根(肩)なのだ。そこからはじまる二の腕も非常に肉感的だ。
なぜだろう。
たぶん、隠されているということが、欲望を誘うのだ。半分隠されている。(ほんとうは、半分以上)その隠されているものを「見る」には目(視覚)だけではだめなのだ。触ること、触覚が必要なのだ。触ることで、女の肉体の何かが伝わってくる。その何かとは、女が隠しているものだ。直感的に、そう思う。
それにしても、腕の付け根から首までの肩の「立体感」の生々しさはなんだろう。たぶん、完全な立体では、こんなに生々しくない。見逃してしまうだろう。
ここには、表現上のむりがある。強引さがある。横顔や乳房の立体感とは違って、ここには「動き」が閉じ込められている。動きがつくりだす立体感がある。
コルドバに行ったら、ぜひ、触らせてもらおう。

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江口節『水差しの水』

2022-09-24 09:27:43 | 詩集

江口節『水差しの水』(編集工房ノア、2022年09月01日発行)

 江口節『水差しの水』は、表題作の一連目がとても美しい。

展示室の
壁の裏側に回ると そこも
器の絵だった
どの部屋にも 水差し 壺 花瓶 缶 ボウル
並べ方が変わり
光と影が変わり
一日であって一年であって一生のようでもあった
何も変わらないが
何かが変わるには十分な時間

 「一日であって一年であって一生のようでもあった」を「何も変わらないが/何かが変わるには十分な時間」と言い直す。一瞬は永遠であり、永遠は一瞬である。時間は残酷であり、同時に慈悲深い。唐突に、「慈悲」ということばが呼び覚まされる。そういうことばを呼び覚ます力が、ここにはある。
 「水差し 壺 花瓶 缶 ボウル」と、無造作に並べられたことばがいい。どんな「水差し」かは言わない。どんなふうに描写しても、それは「水差し」であり、そこにあるのは「一日/一年/一生」変わらず、同時に変わり続けるものだ。
 「並べ方が変わり/光と影が変わ」るのは、別な言い方をすれば、それを見る位置が変わるということだろう。同じ並べ方、同じ光と影であっても、それを見る人の位置が変われば、存在のあり方が違ったものに見える。しかし、それはほんとうに違ったものに見えるのか。違っていても、同じものに見える。それが残酷であり、同時に慈悲というものだろう。
 見るのではない、見られるのだ。
 私は六月にスペインの友人のアトリエを訪ねて回ったが、そのとき思ったことを、ふと思い出した。私は作品を見に行った。けれど、そこで体験したことは「見る」ではなく、「見られる」であった。作品が、私を見る。それは見る以上に、驚愕であり、恐怖であり、同時に歓喜だった。一緒に生きている、その「一緒」を感じる瞬間でもあるからだ。

一日の初め 花瓶に水差しで水を足す
死の説明はしない
日々の器があり
暮らしの振る舞いがあり

 江口が見つめているのは「死」であり、それは「説明」ができない。絶対的だからである。絶対に変わらないものが「死」である。「生(暮らし)」は変わる。その違いの中で、整えられていくのは「生」であって、「死」ではない。このことを江口は深く認識している。
 「普通電車」は、

読みかけの本を持って
(本のないときも やはり)
帰りは 普通電車がいい

 早く帰って来たくはないのである。そして、その「早く帰りたくはない」という気持ちのなかで、こんなことに気がつく。

上りで見て 下りで見て
景色は 一つになっていく

 「行き/帰り」ではなく「上り/下り」と言い直されている。抽象をくぐり抜けることで、世界の真実がより明確になる。「景色は 一つになっていく」。この「なる」という動詞がすごい。「景色(世界)」はもともと「ひとつ」である。しかし、気づくためには「行き/帰り」ではなく「上り/下り」という「抽象化」が必要なのだ。「抽象化」が「永遠」を生み出す。

「一日」も旅に似ている
覚えているけど知らない土地
見ているのに見えない時

とばしたページを もう一度めくる

どの駅にも 電車は停まる
どの道も 歩くにはよさそうだ
まだ歩いていなかった あの曲がり角

同じページを また読んでいる

 「まだ歩いていなかった あの曲がり角」の「あの」のせつなさ。なぜ、江口は「あの」ということばをつかったのか。知っているからだ。それも、単に「見て」知っているだけではない。「あの」というとき、「あの」ということばで「曲がり角」を共有するひとがいる。
 それは江口にとっては「まだ歩いていない」場所であり、覚えている(ことばで知っている)けれど、彼女自身の足では「知らない」曲がり角だろう。だからこそ「歩くにはよさそう」という推定が動く。
 そうであるのに、「あの」ということばをつかわずにはいられない。
 「あの」ということばを通して、「曲がり角」は絶対的存在、一つしか存在しない曲がり角なる。「景色は 一つになっていく」の「一つ」ように。
 「同じページを また読んでいる」の「同じ」には、「水差しの水」に出てきた「一日であって一年であって一生のようでもあった」と同じこころが動いている。だれかに会いに行って、そこから再び帰るしかない。その往復。「一日であって一年であって一生のようでもあ」る。江口は、生きている限り、それを繰り返すだろう。
 「絶対性」の前で、人間ができるのは「繰り返し」である。「繰り返し」だけが「絶対性」の前では「真実=正直」なのだ。
 ことばが、どこまでもどこまでも、深くなっていく詩集だ。

 

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