米田憲三「風と砂の館にて」(「原型富山」193・194、60周年記念号、2022年09月11日発行)
米田憲三「風と砂の館にて」には米田自身の「解説」がついている。「基地闘争のメッカ、内灘」。「内灘」は石川県の「内灘海岸」である。えっ、そんなところに「基地」があったのかと、私は驚いた。こう書いてある。「一九五一年、日米安保条約締結、翌年、突如として内灘砂丘は朝鮮戦争向けの武器の試射場に指定され、その土地が接収される」。ここから基地闘争がはじまった。米軍基地反対闘争といえば、いまは沖縄・辺野古だが、かつては日本各地にそういう運動があったのだろう。内灘は朝鮮半島にも近い。だから選ばれたのだろう。武器の試射場の近くには、どうしたって「基地」がある。内灘は米軍基地反対闘争の「聖地」だったのだ。
米田は、そのときどうしたのか。
この浜を渡すなわれらも死守せんと座り込みをすわが意思として
「われら」と言って、「わが」と言い直す。そこに「正直」を感じる。常に「われ」にかえること。「われ」を出発点とすること。それが「短歌」のいのちかもしれない。
鉄板道路に座り込む学生集団に銃構え立つ若き米兵
連日の内灘通いに昂るに学長通達あり「授業に戻れ」と
この光景は、時代を超えてつづく。若者が目にするのは、いつも若者である。同じ時代を生きている。しかし、その動きは違う。なぜ、同じ時代を生きているものが、同じ基盤に立てないか。
そして、いつでも若者(新しい動き)を否定しようとする「権力」がある。
こうした動きの中で、米田は、ひとつの風景を描いている。
鉄板道路に押しつぶされし小判草 穂の震えおり着弾のたび
それは米田の自画像にも見えるし、その闘争に参加している地元のひとたち、そして一緒に参会している学生の仲間にも見える。同時に、私は、そこに「若き米兵」をも見たいのである。
それは翻って言えば、学生に銃を向ける「若き米兵」にこそ、銃を持たない若い学生の恐怖を感じてもらいたいという思いを誘う。
「震えおり」、震えている。そのときの「震え」こそが、私は戦争を遠ざけるものだと思う。「震え」の共有。いま、世界に欠けているのは、それだ。「核抑止論」を主張する権力者に欠如しているのは、それだ。