アフリカ、ベナンのコトヌーのホテルでのことです。ヤシ酒があるということを聞き込んで注文したら変な顔をして“country side ******ココハコウキュウホテルデス、ソノヨウナカトウナオサケハアリマセン(これは私の妄想的英文和訳)”とまくし立てられました。仕方なくワインを注文したところバカにしたような顔をして取り合ってくれません。ヤシ酒を飲むような者がワインを飲むとは生意気な?という感じです。私もキレて“I am a guest . You are arrogant “(おれは客だぞ、貴様は無礼だ!) とブロークンイングリッシュで怒鳴り、ようやくワインにありつけました。
翌日ベナンの田舎”country side”の食堂でヤシ酒を注文したところ今ここにはないので少し待ってくれとのことでした。どうやら近くの農家?から仕入れたようでペットボトルに入れたものを差し出してくれました。結構いけるので皆さんお土産に持ち帰ろうとしましたが、商品化されたものはなくペットボトルの栓も怪しいようで断念しました。西アフリカではヤシ酒は商品化されてはいようですが、庶民の一般的な飲み物のようです。こちら方面にお出かけの際はぜひお試しください。
写真はコトヌーのホテルの部屋からの眺めです。向こうにかすかに見えるのが大西洋です。古いフィルム写真なのでボケていますが。
今年、サッカーのワールドカップが南アフリカで開催されるのでアマルーラという酒を紹介します。
アマルーラは南アフリカで造られるクリーミーで甘いリキュール酒です。砂糖、クリーム、マルーラという木の実から造られます。商品化されたのは比較的最近で1989年のことです。しかし各地の国際コンテストで金賞などのメダルを獲得しています。 アマルーラが造られるきっかけになったのは象がマルーラの木の実を好んで食べて酔っ払ったことにヒントを得たとされています。瓶に象がいますね。 小さいほうの瓶は商品ではなく、南アフリカ航空で出されるものです。私の経験では準備されている量は比較的少ないようで飲み物の注文の時早めに頼んだほうがよいと思います。ワールドカップ応援にお出かけの皆さんは南アフリカ航空を利用されると思いますので、ぜひお試しあれ。
なお、ワールドカップの会場建設予定地を2009年6月7日に紹介しています。
Crown Liquor Salon の開業時(1885年)のエピソードを紹介しておきます。
設立者の妻のほうはUK 派(英国派)で店の名前にCrown (王冠)をつけることを主張し、アイルランド独立派の夫は入り口の床に王冠のモザイクを付けることでそれを承諾しました。夫の狙いは客が独立派ならばこの王冠を踏みつけるだろうし、UK派ならば遠回りしなければならなくなるということでした。写真はその入り口にある王冠のモザイクです。
なお、2007年12月18日に中米コスタリカのリベリアでの大衆酒場を紹介しています。
アイルランドと言えばパブです。
そこでカトリック教徒のアイルランド共和国男性と結婚してダブリン郊外(車で1時間)の小さな町に住む日本人女性のガイドさんの話から。彼女の義父は毎日(日曜日を除く?)夕食を済ませ10時になると決まったパブのいつもの席に座って友達とギネスビールを飲むことにしているそうです。義母も時々行きウイスキーを飲むそうです。いつもの席に他の人が座っていると非常に不機嫌になってかえって来るそうです。家には一切アルコール類は無く、したがって家での晩酌はないそうです。アイルランドではどんな小さな村でもパブはあるとのことです。
また彼女のパートナーは日本でも生活していたそうで日本の普通のビールはまずいといってエビスビールだけを飲んでいたそうです。
というわけでパブに出かけることにしました。ベルファストの1885年開業の“Crown Liquor Salon “ というパブに出かけました。カウンターで現金払をしてビールをもらい小部屋または立ったまま談笑するという仕掛けです。私もカウンターの中にいれてもらいウエイターの制服を着せられたり、若い女性と談笑?してアイルランドで青春を取り戻しました。
このパブが最近ナショナル・トラスト(自然環境や歴史的や歴史的環境の保存を目的に、1895年イギリスで発足した民間組織―広辞苑)の所有になったというのもこの国のパブ文化の地位を示していて面白いと思いました。
昔から欧米では禁酒運動が盛んなようでアメリカ合州国の禁酒法はあまりにも有名です。イギリスで絶対禁酒運動の福音を広めるために鉄道利用の小旅行を組織したトーマス・クックは近代ツーリズムすなわちパックツアーの創始者とされています。
しかしクックさんには悪いのですが私のツアーの楽しみのかなりの部分はその土地のアルコールです。というわけでこの「世界の酒」編では私が出会ったアルコールにまつわる話題をいくつか紹介します。
最初はノンベーの国アイルランドです。アイルランド人の飲兵衛ぶりはつとに有名ですが、観光地コークの最初の観光が1840年代の禁酒運動の父と呼ばれた人のために立てられたHoly Trinity Church であったのも何か面白さを感じました。
そしてベルファスト(北アイルランド)に行って驚いたのはALCOHOL FREE AREAという看板があったことです。ここではアルコールがただで飲めるということかな?と一瞬思い喜びました。町中いたるところに市当局Belfast Council のこのような掲示がありました。しかしよく見ると「この地域の公共の場所での飲酒は法律違反である。罰金は500ポンド(約10万円)」と書いてありました。この街では路上で飲む人が多いということでしょうね。 alcohol free というのはアルコールはダメということの意味なんですね。英語音痴のお粗末笑い話でした。
水の確保も大変でした。乏しい水を水路で引いた貯水池が残されています。
このマサダ陥落後ユダヤ人の世界各地への離散が始まります。ディアスポラと呼ばれています。
前回述べたようにこの事件は長くユダヤ人の{マサダコンプレックス}として残ります。 ユダヤ人にとってのマサダの現代的意義について臼杵陽氏はその著「イスラエル」で以下のように述べています。
「ナチスドイツ軍が進軍してパレスチナも破局を迎えるかもしれないという未曽有の危機において、ローマ時代のマサダ砦におけるユダヤ人の抵抗と玉砕という『史実』が、社会主義シオニストの士気を高めるために重要な意味を帯びてきた。マサダ砦は死海南西部の断崖絶壁の山の頂にあり、ローマ軍に抵抗した第1次ユダヤ反乱の最後の拠点となった。社会主義シオニストはマサダ砦の玉砕における集団自決を、降伏せずに最後まで戦った国民的英雄行為の事例として称賛した。イスラエル版の『伝統の創出』である。」(p71)
前後の文脈から切り離しての文章なので少し理解しにくいところがると思いますが、現在のイスラエル軍隊の入隊宣誓式はここで行われることを付け加えて考えていただければ、ユダヤ人とって今は切っても切れない伝統になっていることがお分かりかと思います。
このころユダヤ教の中から二つの教派が生まれてきます。一つはクムラン教団、もうひとつは、ユダヤ教イエス派(→キリスト教)です。
次回からはそれについて紹介する予定だったのですが、今まで少し硬い話が続き、次回からは抹香臭い話になるので気分転換、この「パレスチナとパレスチナ」編を一時中断して、「世界の酒」編を間に挟みます。
967人が3年間ここに立てこもり戦いますが、写真に見えるように土を盛り道を造ってローマ軍は侵入し、ついに陥落します。この時、くじで10人を選び、その10人が他の10人を殺し、さらにくじで1人を選びその人が9人を殺し、最後の人が自決をしたと伝えられています。ただ2人の女性と5人の子供が生き残ったとされています。
マサダは死海の南西部、砂漠の中(2010年3月15日地図)標高400mの要塞遺跡です。この地はユダヤ人にとって特別の思い入れがある場所でマサダコンプレックスという言葉があります。前述のヘロデ大王が以前からの要塞を強化増築し豪華な冬の宮殿を建てました。
ヘロデ大王以前からユダヤ人の反ローマの動きがありましたが、紀元66年~73年にかけて大規模な反ローマ戦争が起きました。ユダヤは敗北しますが、最後の砦になったのがここマサダ要塞でした。 ここへはロープウェーで行きます。