風のこたろう

'05年4月6日~'07年4月7日 ウランバートル生活日記
'09年8月~  詩吟三昧の徒然日記

東京芦孝会納吟

2015年12月27日 | 詩吟
今日の課題は、「母を路上に送る短歌」
頼山陽三つの母を歌った詩の一つ。
朗読あり。

詩をさらった後、長い詩は、二行ずつ分担して発表していますが、今日は、珍しく女性の参加が多く、七人。
この漢詩が、14行。丁度過不足のない人数です。
今日は、女性からとの指示で、いつもは、男性が先に一通り吟じてから、女性が吟じるというのを順番を逆に、指定されました。

敬意を表したんだよと誰かが後になって言ったのですが、今日は、過不足ないから?
急にどうして?

詮索してもしょうがない。いつも出たとこ勝負の練習をしている私は、こんなこと日常茶飯事。

さて今日は、納吟でもある。
一言コメントして、吟詠。

私は、何時も一言で済まない。どうしても饒舌にしゃべってしまう。
今年後半の私のテーマは、「春風が氷を溶かす如く」そして、吟は「山中問答」

今年は、指導を始めて5年。指導者としてやっと5才なのだ。
至らぬ、私を、会員さんたちは、良く支えて、良く育ててくれたと思う。
春風は、氷をその温かさで、溶かす。しかし、私は、氷を発見すると、アイスピックで突き刺す。

私は、瞬間に反応して瞬間に言葉を発するから、気が付いたら言葉が先に出ているから、それが、凶器となるのだ。
それを、私は、アイスピックと表した。自分ながら言い得て妙だと思いながら、しゃべる。

春風でありたいと思いつつ、そのままではもったいないと思う気持ちが、先行している。
論語に、「言葉は、いざ発せられると四頭立ての馬車も追いつかない。」という章句がある。
当に、そうだ。

だから、凶器となる。

愛の鞭という人もいるが、やはり、師弟関係でもない人に対して、使うべきではないだろう。
反省しても、反省しても、習い性は、改善されない。

私の隣に来る人は、何時も被害者になり得る。

私A 「でもね、もったいないんだものぉ~。だから、言ってしまうのよ~。」
私B 「ダメダメ、弟子をとっているわけではないんです! そんなちからもないんです!」
私A 「はーい」
私B 「よし!」
私A 「たかがカルチャー、されどカルチャーなんだよね」
私B 「そうだよ。分際をわきまえよ」
私A 「・・・・・」


李白は、俗人に対して、答えているが、俗人の私は、李白に問いたい。
そして、自分自身にも、問いかけをする。

「山中問答」を、須藤先生の解釈でお聞きした時から、そして、「絶句」を解釈して頂いたときから、その次に「静夜思」を解釈していただいてから、どんどん、漢詩が身近になってきて、漢詩とは、遠いもの、私には、寄り添えるはずのないものと距離を保っていたのが、変わってきた。

長年吟詠に携わっていたのに、漢詩に対してこの、扱いはないよねぇ。
こうと決めたら、その枠から決して出すことのない、私の習い性は、少しずつ変わってきています。「いいことよねぇ。」
「うれしいよねぇ。」このことに関しては、私Aと私Bは、お互い笑顔を交わしあうのでありました。

こういう機会が増えたことで、私の内なる「凝り」が、ほぐれていく。
それで、きっと、「春風」の章句が目に止まり気持ちに留まったのだなぁと思う。

気が付いたねぇ、よかったねぇ。

・・・・・ただ、気が付いた今からが、学びの始まりで、道は遠い・・・とおもう

なぜなら、気づいたことと、出来るということの間には、長ーい道のりがあることが、わかったばかり。

今日のうれしかったことは、最近入会したばかりの女性会員さんが、中央会に見えて、誘われるままに吟詠発表もなさったことです。
隣席の先輩の控えめな吟に支えられて、正確に吟じられたました。
中央会デビューおめでとう。初々しいなぁ。
その方の、指導者さんは、さぞ教え甲斐があることでしょう。
また、お目にかかるのを楽しみにしてますよ。



 今日の、収めの飲み会は、ことのほか楽しかった。
また、来年への英気を養いました。



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