風のこたろう

'05年4月6日~'07年4月7日 ウランバートル生活日記
'09年8月~  詩吟三昧の徒然日記

12人の思想家

2017年05月22日 | 論語と
中国の古代思想家の歴史の最初に出てくるのは、管子。
 孔子は、管子の没後90年に生まれています。

「管鮑の交わり」という親友同士の関係を表した言葉にある、「管」は、管仲(管子)のことであり、「鮑」は、鮑叔牙のことです。

詩吟でもよく吟じられる杜甫作 「貧交行」の転句に『君見ずや管鮑貧時の交わり」と出てくるのがこの有名な史記にあるお話です。

敵味方にわかれた時点で、決裂するはずの関係が、管子の才を十分に知る鮑叔牙が管子の命を助けることとなりました。

管子は、鮑叔牙の「小さな筋道のことで恥じるより、天下に名を表さないことのほうが恥だ」と言う言葉に殉死を思いとどまり、生きて才能をさらに伸ばすことになります。

その管子の言った言葉の中で、心に残ったのは、「義」について。
講義の中で、度の教科書にも使われていない言葉で、説明をなさいました。

その言葉がずっと引っかかって、頭をぐるぐる回ります。
自己宣伝とは、ある意味、自己紹介もやり方によっては、自己宣伝になるよね。
その、境目というのは、どこなのだろうと。

それは、須藤先生の講義をお聞きして、わかってきたことは、すべて、他人が決めることではなく、自分で決めるのだということ。

そうなのだろうけれど、その時々によって、境目は、違ってくるだろう。
その境目を決めることこそ、まだ、物事が本当にわかっていないってことだ。
「手放して、つかみとる」またか。

この言葉は、物事を知れば知るほど、ついて回って、何事も人任せではいけないと迫ってくる。

待てよ、今日の学びのもう一つは、漢字に対して持つ自分のイメージ、時代のイメージが変わっているという発見がありました。
これも、大きな発見で、おかげで、またまた、わからない混沌に放り込まれた。





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