風のこたろう

'05年4月6日~'07年4月7日 ウランバートル生活日記
'09年8月~  詩吟三昧の徒然日記

土台

2010年08月14日 | 徒然に日々のことを
朝、起き抜けにすること。

横になったまま、足のあげさげをすること。
特に、痛い左ひざのために、太ももの筋肉を付けるために、せっせっ、せっせ。
そして、昨日からはじめたことは、足首を回した後は、小指側を持ち上げること。
脚を伸ばしたまますわり、両手で、足の底に手のひらを合わせて、ぐいっと小指側を持ち上げる運動をする。

これをすると、足先から足首を通って、腰骨にいたるラインを感じます。

そして、私の、膝への負担となって膝痛が起きることで、警告を発することになった大元の原因が、膝ではなく足首にあったこと、さらに言うと、朝一にはじめた体操のように、足の体側の側に持ち上げる力不足であったことがわかりました。

筋肉が不足していたのではなく、力をかけなくなったから筋肉が落ちたということのようです。

痛みによって、体をかばい、力を入れなくなった筋肉は、用無しになってどんどん力をなくしていった結果なのでした。

私の場合は、足の付け根を結ぶ線を描き、両足の線をたどると、ハの字になっているわけです。

赤ちゃんの足は、まだ、歩けないうちは両足の形は、ハの字よりももっとたての形を示します。
はいはいをするようになり、足先や足首に力を入れるようになると、ハの字がだんだん開いていって、水平になっていくのですが、私の場合はその逆をたどっていたようです。
あぶない、あぶない、危うく歩けなくなる道を行っていたのだ。

女性は、骨が変形しやすいので、ちょっとの衝撃で骨盤がゆがんだり緩んだり、そして、その影響がすべての体の変調へと散らばっていくのです。

私の場合は、思い出すとひどい捻挫、出産、落馬を経験しています。
どれをとっても、整体の先生には、確たる因果関係は言えないけれど、出発点になりうるということでした。

骨のゆがみが治るとは思っても居ませんでしたが、それを支える筋肉に力を増し、正しい姿勢、正しい歩き方にすこしでも近づく努力をすることで、骨が正しい位置におさまり、健康で若々しい肉体を保つことが出来るそうです。

そして、呼吸法にしても、正しい呼吸法を身に付けるだけで、健康につながると言います。

確かに、深呼吸をすることで、身の内がリフレッシュして、元気になった気がします。

曲がった土台の上には、高い塔は立たない、積み重ならないのです。

それは、すべてに通じる哲学のように思います。

土台が、正しい位置にあるかどうかは、自分では、先に行かないとわからないのです。
今つみあがったものが、正確に緻密に出来上がっているかどうかは、先輩の目、先輩の見識に素直に聞く耳を持つことなのかなぁ。

自分で、わかる方法は無いのだろうか。

膝が痛くなって、初めて、整体の先生の声を聴く気になり、やっと、痛みが取れてきたけれど、痛みを覚える前に、姿勢が・・・とか、膝がひらいてる・・・とか指摘する人がいてくれたらなぁと、思う。

家族でさえ指摘できなかったことを、誰が気がつくものだろうか。
気がついていても、なかなか出来るものではない。
私が、どう?おかしくない?と質問したところで、結構ですよ大丈夫ですよと、答えが返ってくるだけだったろう。

せめて、手遅れにならないうちに、示唆しあえることが、一つでも沢山あるといいなぁ。
ただ、その、示唆が本当に正しいものかどうかは、証明の方法が無いのだから、人は口をさしはさむことは、しないんだろうねぇ。

幸い、信頼できるその道のプロに出会えた私は、着々と、体の矯正が出来てきている。
正座は、まだまだ、出来ないけれど、ゆっくりだったら、階段の上り下りができるし、小走りならかんたんにできる、朝起きたとき、長時間座っていて立ち上がったときの動かし始めの、強烈な痛みがかなり緩和されただけでも、とてもうれしい。
痛みのない人生は、限りなく明るいぞ。

その副産物に、腹式呼吸が、より強力になり、すぐに嗄れる声が、嗄れにくくなってきた。
「丹田にしっかり息をためて力をいれる。そして、喉は息が通るだけ。」に、近づいたかなぁ。

中途半端に残った息を、吐き出すのも、思いのほか楽に出来たし。
それって、もしかして、一人で練習しているときの思い込みであるかもしれないから。
用心用心。火の用心。

「できたぞー」と、偉そうにしないで、謙虚にね。

さぁ、いま少し。整体の先生の知識をいただいて、生活に仕事に詩吟に活かそうよ。
コメント

内藤 多仲

2010年08月13日 | 徒然に日々のことを
スカイツリーが、いまや話題の中心で、定点観測の写真を撮る人がおおいらしい。
ごたぶんにもれず、私も、毎週田原町に出かける用事が有るので、定点観測ならぬ、気分的観測で、携帯で写真を撮っているのですが、、、


スカイツリーを思うとき、観るとき、必ず東京タワーの姿が目に浮かびます。

美しさでは、比類の無いタワーは、内藤多仲という設計士が、計算尺1本で設計したと知りました。
それは、美の巨人たちという番組です。

東京タワーをあらゆるところで、見たり聞いたり話したりするけれど、その設計に関わった人のことに思い至ることは無かった。


ほんとに良いタイミングで、教えてくれたものだ。

ほんの5ミリの穴の位置の違いで、タワーの積み上げが思うとおりに行かなくなるなんて。土台のゆるぎないこと、正確なことが、あの高さの塔を今まで、そこにあることが当たり前、そこに無いのは東京ではないと思えるくらい自然である用に存在し続けさせたことの、証なんだねぇ。

今、体のゆがみについて、興味を持ち、せっせと矯正しているときだから、余計のその「5ミリ」の誤差について、強烈に感じるものがありました。


ほんの小さなことだけれど、封筒に宛名シールの貼るということでも、体にずれがあるとき、水平に貼るのに大変な苦労をしていました。
水平になるようにガイドを作っても、どうしても1ミリの何分の一かのゆがみができるのです。

それが、体がだんだんに矯正されてくると、あれだけ大変だったことが、簡単に水平にずいぶん近く貼れるようになるのです。
そして、もともとの矯正の目的の膝の痛みが緩和されてきたのです。

人間の体は精妙に出来ているから、大きなゆがみも察知して、補正することが出来るのですが、それによって、負担のかかる部分に痛みや病害が長いあいだにはでてくるのです。
タワーのような、厚い酷S製のものは、それが出来ないから、5ミリの誤差も許さない作りをしているのですねぇ。

強烈な痛みから解放されるのと同時に、いろんなことが、体がまっすぐに近づくにつれて、楽に出来ることが増えてきました。

正しい姿勢を保つことは、すべての美しさに通じるってことなんだろうねぇ。

無駄が無く、安定したものを作ろうとした結果、貴婦人と呼ばれる東京タワーが出来上がったのは、偶然だと言う。

偶然だと言ってのけるのは、天才だからなんだろうなぁ。

内藤多仲って、すごい人だ。


コメント

スカイツリーと浅草

2010年08月10日 | 徒然に日々のことを
6月10日

     8月10日



定期的に田原町に所用で、でかける帰りに、スカイツリーの写真を撮っていますが、初めての快晴の日にあたり、やっとクリアな写真が取れました。

6月10日の頭部と今日の頭部とは、あまり確かな変化はありませんが、確実に上に伸びていっています。

そして、浅草寺は、龍の書いてある工事用の幕がとれて、新しい姿を見せていました。

山門越に見えるツリーも、携帯写真でも、はっきりとその様子が撮れて、太陽の自然の照明の明るさに感謝しました。
携帯のへなチョコしゃしんも、さながら、絵葉書みたい???






コメント

ウランバートル仲間

2010年08月08日 | 出会った人
8日は、ウランバートル時代に夫と同期で、私とも友達づきあいをさせていただいていたKさんが、その後も海外の仕事を続けられていて、このほど一段落して帰国なさるということで、おかえりなさい会が開かれました。

ウランバートルで、一緒だったご夫妻や若者たち総勢12人集まって、カラオケで会食。
カラオケといっても、個室の居酒屋感覚で、音も遮断されるため自分たちの世界に浸っていられるのが、なかなか良いものでした。
料理も、居酒屋並みで接客もよく、「幹事さん、いいところを探してくれましたね」

新宿とは、げに、新しい発想のお店がしのぎを削っているのだなぁと、思ったことでした。

彼女は、一ヵ月後にはまた、別のプロジェクトで任地へ派遣されるそうです。チャンスをすかさず掴みそのたびに、新しい仕事に挑戦して、グレードアップしている、パワフルな人です。

日本に居たら、主人側の人ですから、お友達づきあいすることにはならないのでしょうが、ウランバートルではすべての行事は夫婦同伴ですから、気さくな彼女とはお友達として親しさを増したのです。

夫のモンゴル派遣のおかげで、思いもかけない人たちとめぐり合い、お付き合いが深まっているのでした。

帰国後、何度かこういう行事がありましたが、「私一人でも出席します」と返事をしたのは、初めてのことです。

帰国予定の定まらないじきでしたから、夫と一緒ではなくても出席と返事している自分を見つけて、感慨深いものがありました。
それまでは、一人では行けなかったからです。

明るくて、聡明で、気さくなKさんと幹事をしたNさんは、名コンビで、ウランバートル時代にも、良く一緒にお休みの日は遊びましたから、楽しい思い出しかありません。
ほんとに、良く、たのしんだなぁ・・・・・

お酒の好きな彼女ですが、ほとんどいただけない私もNさんとも、飲んでいても居なくても、話の弾むことでした。
その他の参加はシニア5人、青年4人、ちょうど会話の弾むこじんまりとした会でした。

こんなチャンスを逃さず、幹事をしてくださる方が居るので、旧交を温めることが出来るのです。いつもありがとう!楽しかった。
コメント

惹き付ける

2010年08月08日 | 詩吟
舞台に登場した講師の姿を見ただけで、ひきつけられ、「あなたのおっしゃることなら何でもいたします。」
という気分にさせられ、その声にさらに聴く耳がおおきくなり、その語り口からすっかり気持ちがとらわれて、感嘆、感動、宗教的盛り上がりを見せる。

こういうのをカリスマというのだろう。

そこに居た人が、みんな、その気になってしまった。

その道に通じた人は、名実友にカリスマになることで、人を導くのよねぇ。

「その道」とは、いかにもとうなづくものから、地味である程度わかってこないと理解の届かないものまで、いろいろたくさん。

何か一つでも、カリスマもどきでいいから、なってみたいものだ。
耳目を集める派手な部分ではなく、自分自身が納得して、揺るぎ無く伝えたいと思い,教えを請いたいと思ってもらい、そして、大事なことは十二分に伝えられるもの。



何かを伝えたいと思う気持ちだけで、その前段階でじたばたと思い悩んでいるうちはむずかしい。

相手が、聞きたいと思うのと、「?」と思うのでは同じことも10歩の開きがある。
一歩でも身を乗り出して、聴いてもらえるには、何が一番必要なのだろうか。




コメント

ぼくと甥っ子

2010年08月07日 | 出会った人
7月29日前後に、とうさんの帰国にあわせて、ぼくの甥っ子があそびにやってきた。
ちっとばかし、たくましくなってきて、ぼくのすがたにびびらなくなっている。

ご飯を食べろとおせっかいをやいたり、、、



隣に寝そべって同じ格好をしているつもりになったり。。。>

すっかり、ぼくをおいぬいて、どんどんおおきくなっている。

驚いたのは、ずいぶんと、ばぁばちゃんと会話になってきたことだ。

2歳を過ぎたら十姉ちゃんが行っていたけど、このことだったんだなぁ。すごいっていうのは。

ぼくは、まだ、「ごぁ~ん」と無くだけだけど、母さんは、狂喜して喜んでくれるよ。

<script language="JavaScript" src="http://www.magicalmaker.com/js/mm.js.php?upwh=8750-1281244529-479-348"></script>



コメント

浜松に行ってきた

2010年08月02日 | 詩吟
8月1日は、社団法人関西吟詩文化協会本部主催の「東京・浜松地区吟詠大会が開催されました。

東京支部からは、30人あまりが、バスを仕立てて参加しました。

第一部 吟詠研修会
第二部 みんなで詠おう「海の吟・山の吟」
第三部 構成吟 悠久の漢詩紀行「李白を詠う」

本部主催の研修会が、地方へ出るのは初めての試みです。
吟詠研修会には、常々参加したいと思っていましたが、なにぶん大阪という遠方のこともあって、野田会長の持ち帰るテープを聞かせていただくのが精一杯でした。

こうして、地方に出張していただき、舞台件pである構成吟まで見せていただくのは、本当にうれしいことです。

何しろ、本部の精鋭の方たちにおいで頂いて直接指導をしていただくのですから、これを逃す手はありません。

思いがけず鳥肌の立つほどの感激をしたのは、短大時代の吟詩部後輩が、この構成吟に出演するためにはるばる岡山よりも西のほうから、やってきたことです。

そして、名簿から吟詩部時代の先輩と知って、開会をいまや遅しと待っている席に、駆け込みたずねてきてくれて、旧交を暖めあったことでした。

先輩と声をかけくれたのか、名前を呼ばれたのか覚えていないのですが、頭には旧姓を思い浮かべたのですが、ぽかんとしてとっさには口に出すことが出来ませんでした。忘れたのかと思った彼女の口から旧姓が出るまで、数秒の間、世界は停止状態でした。

三十数年前とちっとも変わらない瞳をした彼女のスリムな姿が目に焼きついています。
舞台上の彼女は、詩吟ではなく、舞いでした。
中国の衣装を着て、舞うすがたは、現役のころのように凛々しく、力強いものでした。

終わったあと、話がしたかったのですが、東京支部では、この後の予定が迫っていて、会いに行く時間は有りませんでした。

構成吟の懇親会に出られる野田 芦孝先生に、もっと話がしたかったと伝えてくださいとお願いして、後ろ髪を引かれながら、みんなの待つ観光バスへ乗り込んだのでした。

あっという間の再会でしたが、言葉はなくても、様子が伺われ安心したのでした。

あとお二人、懇親会に出られた東京支部会員の方がいらっしゃって、彼女のことばが伝えられましたが、お二人とも、「厳しい先輩でした」という言葉だけでした。

確かに、そうだったよね。でも、もう少し違うお話もしたことでしょうから、もっと聞きたかった。。。

彼女は、卒業後も順調に詩吟を続けてきたのらしい。
そして、舞いもならっているらしい。

彼女の名刺をもらったという方は、私に見せてくれる暇がなくて、今度会えるのは、第4日曜日の中央会だから、一ヶ月近く待つことになる。




第一部の、研修会で習ったことは、表現方法はかなり違うけれど、オルティンドーの先生から教えられた声の出し方と同じだった。
其の方法は、研修をなさった先生ほど、即効性はないけれど、夢青葉で実践し始めたことで、おどろいた。

ただ、本部指導者のおっしゃるのに、45年かかって体得しましたとのこと、私も、理論は知っていても、なかなか実践できないのに、教えているなんて言うのは、おこがましいことだから、ここだけの話にしておこう。

喉の負担をかけないで、大きな地声を出すのは、至難の業で、まして、今日の講師のようにあっという間に其の声を出させるなんてのは、神業に近い。

何時、この境地にたっするやら。講師は皆さんも今から45年かけて体得してくださいと、ユーモアたっぷりにおっしゃった。

そして、感動その3 構成吟に出吟された吟の達人のうち、何度でも聞きたい吟をなさる方がいらっしゃいました。其の名は、中谷先生淞苑先生。
幸いICコーダーが音声をキャッチしてくれているので、繰り返し聴かせてもらおう。


大事な宝になるものを三つも頂いて、ホクホクの岐路でした。

さらに、加えて、帰りのバスで隣に座った谷中教室の若き女性幹事さんは、私の膝の痛みをいたわってくれて、このエアコンの効いた中で眠らせてしまったら、体温が下がって膝に悪いと考えて、疲れているでしょうに、眠らずずっと会話に付き合ってくれました。
話に話しました。

こんなに長い間、二人並んだ席で、話し続けたのは、初めてでした。

バス旅行と聞いて、隣の席に座ってくれる人はいるのだろうか、会話が続けられるだろうか、と。

行きは、手探りの会話で、あちらに飛びこちらにとび、帰りは研修で大きな命題を頂いたおかげで、主題は詩吟。
私の持論を、うるさがること無く、ずっと聞き続け、質問をし続けたのでした。

彼女の新鮮な感性と好奇心と前進したいと願うパワーに、あおられた形で、会話が続きました。

こんな私に付き合ってくれて、ありがとう。

そして、感謝の言葉を頂きました。

私が谷中教室に遊びに行くようになって、地声が太くなったと。
それは、たまたまのタイミングであって、其のときにきていたのだとおもうのですが、、、












コメント