風のこたろう

'05年4月6日~'07年4月7日 ウランバートル生活日記
'09年8月~  詩吟三昧の徒然日記

マグネシウム考

2014年07月15日 | 徒然に日々のことを
オタクではないけれど、健康情報には、興味をもっています。
特に、ひざの痛みにかかわるものは、良しとするものは、すべて片っ端からお試しです。

マグネシウムが不足するもろもろの症状が、出ているので、マグネシウムについて、いろいろと探してみました。

おととしのこと、娘のうちにしげしげと通うことがあり、その時、階段の上り下りにひざの痛みがひどくて、あれこれ試していた時、不思議とその水を飲むと、痛みがなくなることがありました。

今手元にある、マグネシウムについての小冊子の一ページに「痛みの信号をブロックする」「神経の王粉を鎮め、ストレスからのイライラを解消する」「骨粗鬆症を予防改善」などの項目がかかれてあり、あの時の体験は、マグネシウムからくるものなのだと一人で納得。

この水には、Ca:Mgの含有比率が2:1と明記してあります。
たまたま、目にして涼やかなデザインが気に入って飲んだのだけれど、なんか、よかったみたい。

今年は、「そばのひ孫と孫わ優しい子かい?納得!!」の食品にマグネシウムがたくさん含まれているそうで、なるべく食事からとることにしましょう。

ば ナナ り じき め こく(五穀) うふ っ茶 ま かめ さい(緑黄色) かな いたけ ちじく んぶ き(牡蠣) も なっとう うもろこし るみ)

そして足りない分を栄養機能食品のマグネフォースで摂ることにしました。













健康に関して、その2
我が家には、鼓太郎がいる。聡怩オても聡怩オても、細かい毛と、おそらく目に見えないから居ないことにしていたダニも。
生きている限りにおいて、人間が二人もそれに加わるわけだから、とり切れていないはず。
はた!とそれに気づいた、夫と私。

聡恚@買い替えに関して、あれこれ考えて、お手軽なものにしようと一度は、マキタのハンディにするつもりだったのだが、急転直下、夫の意見により、「ほんの少しアレルギーの懸のある孫のために」、という大義名分のもとに、キャニスター式のしかも外国製のものに決定。



今までのものは、何だったんだろうというくらい、よく、吸い込んで、すいすいと私のあとをついてきて、後ろを向いたら本体がひっくり返ってたなんてことが絶対にないかわいいやつなのでした。
聡恚@をかけただけで、床がぴかっと光っているのも、Good!!!
贅沢だ!と言う私の叫びは、彼方へ飛んでいった。 かわいい奴め。
夫の英断に感謝。
あとのやりくりは、わたしだけどね。
聡恚@をかけるストレスから解放されて、うれしささえ感じる。経済には代えられないものがある。そして、孫ひいては私たちの健康にもかかわるのだから。納得!!




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七夕能

2014年07月13日 | 好きなこと
先日学びピアで講習会があり友人が受講したご縁で、山階弥右衛門率いる山階会の七夕能の鑑賞券が手に入りました。
友人とその夫君と三人で、鑑賞してきました。

    プログラム〈表紙我が家のグリーンカーテンを背景に〉


対談が最初にプログラムされていて、野村 萬 四郎兄弟のお話がことのほか面白く聞きました。能の会には珍しいのだそうです。


発声は、腹から出しますがどこが大切かと言うと腰である。
舞の体を動かすのも、腰が大切。

おけいこは、常識をくりかえすこと。
常識の常は情に通じ、情け高じておもいあがり、傲慢、慢心はいけません。

「言葉は、演劇に偏りやすい」とは、意味の深い言葉だった。
いつも、情をこめてといわれるが、その情の込め方が、過剰になると演劇となってしまうとは、今まで、考えたり試みていたことのその上を行く、習練鍛錬が、要求されるということなのでしょうか。

そして、能と狂言は一つのものである。
能は「虚」を「実」にみせる。
狂言は、「実」を「虚」に見せる。と。

例えば、間違いを犯したものを打つとき、「実」は、打ち下ろした手にあり、「虚」は振り上げた手の方にある。

打ち据えてしまえば、それでおしまい。振り上げた手は、深いイメージを膨らませて、そこにそれぞれの思いが限りなく存在する。

あ、そんなことはいわなかった。でも、私の中にはそのイメージが残った。

伝えたい言葉が、私に、どこまで伝わって、どこから間違えたのか。

修業を重ねて、ふくらみのある言葉は、正しく受け取らないと、嘘になってしまうなぁ。

そうなんだ、打ちあげて打ち据えてしまっては、おしまいなんだなぁ。


そのことは、どの分野のどの場面にも、通用する、奥深い言葉だ。

その道の大家にお目にかかると、その一つ一つの言葉に、深いいみがあり、却ってどうにでも取れるような言葉を聞くことになる。

習練の深さによって、その意味の汲み取り方が違って、くるよねぇ。




プログラムは、それから、連吟、舞囃子、狂言、仕舞へと続き、最後は山階弥右衛門殿村昌司との「砧」。

夫の不実を恨み砧を打ち、いよいよ夫の心変わりと思い望みを失ってなくなってしまう。
帰郷した夫は、残された砧を前に弔いをする。
三途の川から浮かび上がってきて、六道を輪廻する辛さを訴え、夫の不実に対して恨みの気持ちをうったえます。そのうち恨みも静まり、法華経をによって妻の例は成仏する。

私には、少々難しく、下調べも怠ったため、最後の妻が成仏したのだろうという場面に、やっとそうかしらと感じることができました。

プログラムには、十分な説明がありましたが、ななめ読みをするのにやっとでした。
鑑賞するのには、不十分な態度だったことを、反省。

それにしても、幽玄をあらわす能というものの、奥深さは、計り知れないと思ったことでした。
  
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整体

2014年07月11日 | 好きなこと
整体をカテゴリー「好きなこと」に入れてよいかどうか、考えたのだけれど、好きなことなんだよね。

未病の部分にスャbトを当てて、いろんなことを話しながら、体の調整をしていく、そして、人任せではなく、主体を自分自身において、相談しながら、そのときの状態にふさわしい体操を、私に合わせて、ご指導いただく。

そして、朝な夕な、自分のペースで、体の言葉を聞きとるようにして、ほんのちょっとの時間で、体操をし、その日一日の体の調子を、伺い確かめる。


ほんのちょっとの時間と労力なのに、確実に体が良いほうへと変化していくる。

これって、大変なことだ。


このツールを手にして、年だからとあきらめていたことが、年ではないということがよくわかる。

先生は、私のように、一歩手前で、言葉を発したりしない。私がしっかりと聞く耳をもって初めて、ゆっくり語り始める。



私も、詩吟において、本当は、そのようにした方が良いのだろうか。
一歩手前と言うのは、私の自己満足だ。

だれが、それを一歩手前とわかるのだろうか、わかっているつもりの私だけなのだ。

先延ばしをしたら、もったいないことになると考えるのも、私の主観なのだから。
だれも、そうそう、今が一歩手前だよと、告げる人はいないのだ。
危ういことをしているのかもしれない。






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吟詠が響く

2014年07月10日 | 詩吟
辰巳先生の生の吟詠が、いまだに頭の中に響いて、離れない。

CDの声とあまりに違いすぎて、機械の音源ってやっぱり違う、と以前感じたことを、さらに前進させて、「やっぱり駄目だわ」と思う。

テキストと副読本の違いがある。

やはり、きちんとテキストで、吟詠をせねばと思う。

東京の吟は、きれいすぎる吟詠と辰巳先生は、おっしゃった。
 
ご存命であれば、佐藤鷺照先生は、どのようにおっしゃるのだろう。
 

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ひばり会

2014年07月08日 | 好きなこと
剣舞と詩舞のお稽古に、久しぶりに行ってきました。

たまに伴吟をさせていただいている○塚さんが、三年後には、故郷に帰ってしまうことが決まったので、精を出しておけいこに行かねばと思うのです。

汗びっしょりとなり、冷たいペットボトルのお茶がほんとうに、おいしい。

月に1回の練習は、ともすると習ったことをすっかり忘れてしまうのですが、繰り返すうちに思い出してくるのです。

そして、爆弾を抱えているひざは、帰り道になるころには、悲鳴を上げてしまいます。

腰を落とす姿勢は、美しく、また、自然に次の舞の手に流れていきます。楽な姿勢は、見ていても楽ですが、そこに美しさと凛としたところがかけています。

なるべく、先生の動きをマネして、ときに質問をしながら、足さばきを覚えていきます。

袴に隠れた足の動きを察知するのは、難しく、出来ればスパッツをはいて教えていただけないかと冗談めかして、お願いしてみたら、先生も気持ちが動いたようでした。

先生は、私が習ってきた詩吟のように、先生の動きを見よう見まねで覚えてきたとよくおっしゃっていたので、まさか、袴を脱いでご指導くださる気になるとは思わなかったのです。


袴に隠れた足さばきを想像するのは、始めたばかりの私にはとてもできるものではなく、単純な動きの中に、精妙な秘密が隠されています。

袴を脱いで、足の動きがわかるのは、ある意味裸になると同じことなのに、先生はいとも簡単に、そうねぇ、と言って、袴をたくし上げて、足の動きをつぶさに見せてくださいました。

今度、出かけた時に、ユニ○ロにでも行って、レギンスを探してくるわねとも、おっしゃってくださいました。


それに伴って、私もレギンスなり、女性用のステテコなるものをはいておけいこをするとなると、じたばたとした足の動き、みっともなくつじつまを合わせようとする足の運びが、あからさまになってしまう。

はぁーーー、見ものだなぁ。





自分を切り売りしているような作業を続けていて、自分の心が擦り減らないように、それ以上に技を磨き、心の鍛錬をせねばね。


私と同じ干支のお姉さんである小西如泉先生の、意識の高さと熱心さとこだわりのなさを実感した今日の練習でした。

さて、私も太くてまがった脚の線が適当にカモフラージュできるもの、ユニ○ロの、カラフルな女のステテコなるものが第一候補なのだけれど、それを、探しに行こう。

それをはいて、詩舞の練習は、いかなる場面になるのか、想像すると今から赤面する。
それにしても、先生は、すごい。正しく教えたい気が満々だ。感謝。

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和歌初挑戦

2014年07月06日 | 詩吟
イメージトレーニングから始まって、喉を詰めない発声を心がけ、喉の調子を見ながらの練習は、なかなか楽しいものではありました。

昨日今日、その気になって、挑戦して、なにがしかの評価を得られるほどの、成果は見込まないのはわかっているのに、何で、コンクールで和歌デビューをしようと思ったのかなぁ、

自分を追い込んで、やらざるを得ないところにもっていこうとしたのだろうけれど、成果は得られなかったね。
残念。そう簡単に望みのものが手に入ったら、おもしろくもないし、、、と意地を張ってみる。

前日の、喉温存のために練習をセーブしたのは、全くの弱腰だったなぁ。

きれいにこじんまりとまとめようという方向に走ってしまったことになる。

辰巳先生の吟詠をつぶさに感じて、声を嗄らしても練習をすれば良かったのだと思う。
それで、点数は美しくない声でさらに減点されるに決まっているけど、自分へのご褒美をあげることはできたのに。


しかも、漢詩にもエントリーしたことで、エネルギーの分散になってしまった。

結果、和歌は選外、そして漢詩は、かろうじて入賞だが、本選へのエントリーは7位までで、発表順が順位の通りなら、12位だったようだ。

それで、何とか和歌の不調を糊塗することのできる順位ではないよねぇ。
潔く、和歌だけで、撃沈したほうがまだかっこよいのに。

なんだかんだと言いながら、「ええかっこしぃ」な私でありました。

それにしても、辰巳先生、かっこいいなぁ。
舞台の上では、あんなに大きく見えたのに、懇親会が終わって、ごきげんようを言おうとして側によったら、なんてちっこいかわいい人なのだろう。

あの、どこから、パワーが出るのだろう。

おなかが大きくても平気だったし、赤ちゃんをだっこしても詩吟をしたというエピソードからうかがえる猛者ぶりは、ちっともない。
このエピソードは、次にお目にかかれたら、もっと詳しくお聞きしたい。
そして、今のお名前ともう一つのお名前もあるというお話も、出来ることなら、じっくりお聞きしたい。

今でこそ、落ち着いていらっしゃるけれど、たくさんの苦労を重ねてこられたようだ。

何より、コンダクターも調子笛もないアカペラの時期からの他からの影響をうけない精進が、「これぞ関吟」の吟詠を少しも衰えることなく熱い吟詠をなさることに、つながっている。
そして、あの迫力のある和歌には、かっこいぃ!!!としか言いようがない。

CDではなく、あの生の詩吟を何度でも聞きたい。

昨日、懇親会の後、小林先生、辰巳先生のお二人は、浜松へと向かわれた。
今日は、浜松でグローバルの浜松地区予選があるとのこと。
コンクールが終わてすぐその後は、入選者向けの講習が行われるそうだ。

私は、思わずそのまま辰巳先生についていきそうになった。先生も「來る?」とおっしゃってくださったのですが、、、、、

今、東京にいて、ブログを書いるってことは、せっかくのチャンスを捕まえなかったということ。

来年は、コンクールの後、懇親会などやらないで、お二人の先生の講習を受けられると良いのに。3回目の今年は、先生の模範吟を聴くことができたことで良しとせねばならないのだろう。

東京が、100人越えをして、公認会になったら、さらなる、スキルアップせねば、会員の満足感は得られなくなるかもしれない。こころして、先を見据えねば。







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グローバル全国吟詠コンクール

2014年07月05日 | 詩吟
 
          
          
平成26年度グローバル全国吟詠コンクール大会 


第3回関東地区予選が月島社会教育会館にて、開催


和歌部門表彰式風景



晴天のもと、無事、コンクールが終わりました。

芦孝会は、優秀な成績で、大阪で行われる決勝大会に多数勝ち残りました。



今日の、大きな大きなプレゼントは、グローバル吟泳会総本部副会長 辰巳 快水による模範吟詠 二題。

少壮吟詩である人の吟詠を始めて、生で聞きました。
圧涛Iな吟詠は、体中を蔽いつくし、感動の渦の中で、もみくちゃにされました。
突然の申し出だったようですが、それでもあの吟詠。

準備された吟、あるいはコンクールの吟詠であったなら、いかなることが起こっただろうかと、想像すると、身が震えてしまう。

関吟の三枚目のCDが出て、ありがたく聞かせていただいて喜んでいたのですが、CDでは、圧涛Iな力が伝わってこないことを、実感しました。

それでも、模範吟は、CDに頼らざるを得ない東京の現状を思う。
関吟的には、東京は僻地だと、また、感じてしまった。

懇親会で、ほど近くにお座りになったので、隣の席が空くのを今か今かと待ってたら、やっとお隣の方が移動されたので、すかさず、お隣へ移動しました。

短時間のうちに、ちょっとしたいきさつや、詩吟への思いがおこがましくも、私と同じだとわかりました。
わたしが捨て去ろうとしていたものは、もったいないのだ。

そう思ったところで、たとえば、快水先生に直接教えを乞うこともできず、そのことに、気が付いたばかりに、損失感、飢餓感にさいなまれそうになる。

東京の詩吟は美しすぎるとおっしゃった。
大阪へ進出した人だれもが言う、ものすごい大きな声を、男声のみならず女性も発声されると。

帰宅して、CDを聞きなおしても、これが同じ人の吟詠なんだろうかと思うくらい、生とCDの差がありすぎる。

生でお聞きしたときの記憶をCDの声に加えても、違う気がする。

興奮が冷めやらず、いつまでも眠くならなくて、今日のビッグプレゼントを抱きしめて撫でまわしていました。


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7月論語育成講座

2014年07月03日 | 論語と
今日は、「徳」について、迫力のある講義でした。
    
   最初の章句は

子曰く、徳孤ならず、必ず隣あり


 
 

  正しいことを明言、実行する時、ときに孤立をしてしまうことがある。
  それでも、きっと日を置くと理解者が出てきます。
  そして、「朋」のある幸せを感じ、実感するのです。


徳があれば、そうなんだねぇ、いつまでも孤立しているのは、徳ではないってこと?



10余りの章句の解説ののち、もう終わり化と思ったら、最後に付け加えてとおっしゃったことが、心に残りました。


経済学の祖とされる管子の時代は、人民を飢えさせなければよかった。
それからわずか90年ほどの後にこの世に来た孔子は、「心」を意識し解き始めた。

「心」の存在を発見したとき、孔子はどういう思考回路だったんだろう。今までに、有っても、認識されなかったものに気づくのは、天才だ。


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夢松7月風1回目

2014年07月02日 | 詩吟
夢松風に夢青葉の○橋さん、初参加。

いろんなことが一段落しつつある彼女は、青葉だけでなく他教室にも興味を持つようになりました。
それで、練成会で夢組として、合吟の出吟をするので、その練習と教室の確認に来てくれました。

松風と青葉とそれぞれ、東京を横切ってあっちとこっちにある教室ですが、二つの教室は、私の中では、夢組として一つと考えています。
日頃なかなか顔を合わせる機会がないのを、こんなチャンスをとらえて、字は能う敵にはるばるやってきてくださる彼女に、感謝です。

今日は、他教室の都合で、同日開催になったためか、いつものゲストさんはお休みでした。
それで、夢組の共演と相成りました。

女性三人による連合吟は、「近江八景」ちょうど、三人にふさわしい吟題が選ばれて、幸先の良い滑り出しです。

そして、松風は、弐段に、青葉は、参段への昇段試験への取り組みも始まっています。

それによって、練習方針を合わせなければならないのは、少ない練習日を毎週の練習をやっていらっしゃるでしょう大阪本部付近のたくさんの会員さんたちと伍していくには、必要なことです。

ただ、あまりに、その内容が、伴わない時は、たとえ経年で挑戦可能となったとしても、受験はしないと考えていましたが、それぞれ、昇段に耐えると判断しました。

弐段の受験は、絶句二題。参段の受験は律詩一題が規定です。

松風は、まだ、律詩の練習に届いてないのですが、連合吟のために、律詩の練習が始まりました。

今日は、先輩の声の手助けもあって、スムーズな滑り出しでした。


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