熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

初春花形歌舞伎・・・壽三升景清

2014年01月20日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   景清が主人公の舞台だが、景清の登場する歌舞伎十八番の『景清』のほかに『関羽』『解脱』『鎌髭』をも包含した壮大なスケールの絵巻とも言うべき、海老蔵が團十郎家の威信をかけて紡ぎ上げた面白い歌舞伎で、「景清」の阿古屋の登場と牢破りが主体となっているのだが、海老蔵の荒事の極致が堪能できて、正月の公演としては華やかで楽しめる。
   最後の「解脱」の舞台だけが、優雅な舞踊の舞台だが、「関羽」での白馬に乗った張飛、「鎌髭」での巨大な鎌での首切り、「景清」での牢破りなどでは、海老蔵の魅力満開の荒事の世界が展開されていて、あたかも錦絵の連続絵巻を観ているようである。

   尤も、アラカルト方式の舞台を一つにまとめた芝居となっているので、ストーリーに連続性がなく、冒頭から、平景清が張飛に扮して関羽に対抗すると言う中国風のシーンが出て来て、驚かされる。
   近松門左衛門の浄瑠璃「出世景清」などは、シェイクスピア張りとは言わないまでも、ストーリーとしては、非常に纏まっていて格調が高いし、能の「景清」なども、精神性の高い物語のある舞台芸術なのだが、何時も言うように、歌舞伎の舞台は、見せて魅せる舞台で、歌舞伎程、衣装や舞台装飾も、極彩色の世界を展開し美しく荘厳して目を楽しませてくれる舞台芸術はないと思える程、視覚的効果を重視したパーフォーマンス・アーツで、世界的にも類がないのではないかと思う。
   それに、荒唐無稽ともうべき、非日常性を徹底的に追及したストーリーや舞台展開が、観客を無我夢中にさせて魅了する。
   この役者たちの錦絵が、また、巷の人気を集めて、市井を賑わわせて、その錦絵を持った冨山の薬売りが、全国津々浦々まで流布させて、京・大坂・江戸の文化や流行が広がって行く。

   この海老蔵の見得の連続とも言うべき、この荒事の絵のような様式美の格好良さ、美しさ豪快さは、やはり、天下泰平の爛熟しきった江戸の庶民文化の華であって、将軍家や大名家などに手厚く保護されて維持されていた能・狂言の世界と双璧をなす江戸文化の豊かさを示すものであろう。
   

   阿古屋については、やはり、『壇浦兜軍記』の「阿古屋琴責」の舞台で、阿古屋が、豪華な打掛や俎板帯という典型的な傾城の扮装で登場して、実際に琴・三味線・胡弓を演奏し、一切、景清については口を割らないと言う高度な芸と心理描写を魅せる場が最高だと思っており、玉三郎の舞台や簑助と勘十郎の舞台が感動的であった。
   今回の阿古屋は、芝雀で、楽器を奏でるシーンはないのだが、詮議のために、六波羅に引かれて行くのに、傾城として花魁道中で行きたいと言った趣向など面白く、付き人役を道化模様の岩永左衛門(市蔵)の家来たちが演じているのが、コミカルタッチで楽しませてくれた。

   
   ところで、主題の景清だが、「悪七兵衛」と呼ばれた源平合戦で勇名を馳せた平家側の勇猛果敢な武士なのだが、実在したものの生涯に謎の多い人物で、平家物語に出て来る、合戦で、源氏方の美尾屋十郎の錣(しころ 兜の頭巾の左右・後方に下げて首筋を覆う部分)を素手で引きちぎったという「錣引き」が有名だと言うのだが、とにかく、伝説が多く、能・浄瑠璃・歌舞伎など格好のテーマを提供しているのが面白い。
   私は、良く源氏山から化粧坂を下って北鎌倉に向かって散策するのだが、途中に、悪七兵衛景清の土牢がる。
   切り立った壁面くらいしか残っていないのだが、頼朝暗殺を試みながらも、とうとう捕縛されて、この土牢で断食して死んだと言う話が残っているのだが、どうであろうか。

   この歌舞伎で、海老蔵に続いて素晴らしい舞台を見せるのは、獅童である。
   鎌髭で、景清を引いて行く猪熊入道をコミカルに演じ、また、景清で、景清詮議のために、骨太で颯爽とした偉丈夫な武士を演じるなど、感動的である。
   久しぶりに、左團次の赤面の舞台を観たが、大きな鎌を、海老蔵の景清の首に当てて、豪快な演技を披露していて、絵になっている。
    

   ところで、この歌舞伎のタイトルの「三升」だが、この舞台の最後の場で、舞台上に「三升席」、すなわち、舞台上に座布団を敷き、そこに座って舞台を真横から間近にご観劇する席で、舞台の左右に各12席、計24席が設置されて、2000円余分に払った客が座って観ている。
   これは、海老蔵の発案で、新橋演舞場の歌舞伎の本興行では初の試みだと言うのだが、これまでにも、シェイクスピア戯曲はじめ、客を舞台に取り込むと言うことは、あっちこっちの劇場で、形を変えながら取り入れられている演出で、それ程珍しいことでもない。
   蜷川の舞台や勘三郎の舞台で、劇場の外の世界を取り込んだ演出も、いわば、その延長線上の試みであろうし、外国には結構あるオーケストラを囲い込んで周囲に座席があるコンサート・ホールなども、観客を舞台に取り込んだ、一種の仕掛けであろうが、
   歌舞伎の場合には、昔から、客が飲んだり食ったり、時には、喋りながら観劇しており、座席が舞台に極めて近かったり、今回のように舞台上に席があって観ていたり、とにかく、役者と観客が一体になって、雰囲気を醸し出していたのだが、それが、最近では、静粛に見ると言うはるかに遠い世界に行ってしまったので、海老蔵案も、良い傾向かも知れないと思って観ていた。
コメント
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